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雪が舞っていた。
安東高星率いる安東軍の歩兵第1大隊、騎兵隊、そして親衛隊がトサの街に凱旋したのは第21節14日の事だった。
夜の内から今年の初雪が降り始め、薄く雪が積もった地面に足跡を残しながらの凱旋となった。
「わずか3日の差で我々は勝った訳だ。かなりきわどい勝利だったのだな」
誰に言うでもなく、高星はそうつぶやいた。
「だが勝ちは勝ちだ。私達の、最初の勝利だ」
隣を行くエステルがそう返してきた。確かに、思いがけない戦ではあったが、最初の戦いを勝利で飾り、倒すべき敵は最初の戦いを、敗北で終えた。その意義は小さくは無いだろう。
「季節はいつまでも変わらずに巡るが、無念を噛みしめて耐える冬はもう終わりだな。これからは心身を休め、刃を研ぎ澄まして過ごす冬になるだろう」
「その先に、私達の春があると信じていいんだな?」
「その前に、灼熱の真夏かな」
「冬から夏か、付いていくだけでも体が辛そうだな」
「だからこそ、冬くらいは皆を休ませてやろう」
「高星は休まないのか?」
「私だって休むさ。だが、休みながらも雪の下で動くのが、雪国に生きる者だ」
生きる限り走り続ける必要が有る者。そういう者が居るとすれば、それは高星の事だろう。高星の横顔を見ながら、エステルはそう思った。
◇
ヤコエ回廊の戦いは、各地に少なからぬ衝撃を与えた。
まずこの戦い自体が、以前から小競り合いが頻発していた、貴族領主同士の争いの延長ではない。変州では帝都内乱以降、初めての本格的な、将来の覇権を争う会戦である。
この事は変州の各勢力に、いよいよ水面下の争いから、戦乱の時代へと突入した事を、感じさせずにはいられなかった。
安東家の商業事業部からは、はやくも穀物の買い占めが一部で起こっているらしい兆候が見られるという報告が、高星の元に上がってきた。
高星はそれに対し、穀物の値が上がる様なら備蓄米を売り払い、金を作ると同時に穀物の値を安定させる様に指示を出すなど、休む間もなく時流を読んで動いていた。
また、勝敗の帰趨も大きな波紋を呼んだ。
いかに互角の兵力であった、致命的な損害を出す前に退却に成功したという事実を主張しても、初戦コルネリウス家敗北というセンセーショナルな事実の方が、はるかに強く受け止められるのは必然と言う他無い。
変州最大の領地と兵力を抱え、第二位のシバ家とも同盟を結んでいる、揺るぎ無い最大勢力コルネリウス家。それが下馬評を覆し、初戦で敗北したのである。動揺は大きかった。
これに対しコルネリウス家は、外に向けては特に何も行動は起こさなかった。まるでヤコエ回廊の敗戦など無かったかの様に、平素と変わらぬ姿を示し、動揺する諸侯への、言ってみれば火消も行わずに放置した。
この目論見はある程度効果を表した様で、会戦の内容を知った事も手伝って、堂々たるコルネリウス家の態度に、やはり最大最強勢力は揺るがないという結論に達する諸侯が多かった様である。
その一方でコルネリウス家は、内部に対する工作は積極的に行った。
まず今回の作戦を立案し、総指揮を執ったティトウスが自らの責任を認め、当主で父のルキウスに処罰を願い出た。
それに対してルキウスは、作戦を最終的に認可したのは自分である事、戦争で敗れた将を罰するのは敵を利するだけであり、次の勝利で償うべきものであるとして、何も処罰をしなかった。
これを受けてさらにティトウスが自ら、自身の罪を償うとして、私財を投じて負傷者の手当てや戦死者の遺族への補償、捕虜の身代金支払いなどを行った。
この一連の出来事により、コルネリウス家ではルキウスの処置とティトウスの責任感を褒め称え、一丸となって挽回をせんと言う空気に満ちたと言う。
「なるほど、上手くやったものだな」
それが執務室でコルネリウス家の戦後処理についての顛末の報告を受けた、高星の第一声だった。
「とりあえずはほぼ目論見通りに、敗戦による損害を取り戻したと言うところなのだろうな。兵力もコルネリウス家の国力からすれば、すぐに補充できるだろうし。全ては元通りか」
「高星はコルネリウス家の一連の動きが、用意されたシナリオに沿ったものだと思うのか?」
「多分、な。まあ、全部が最初から計画された行動ではなく、行動に移してその反応を見ながらある程度シナリオを書いたのだろうが。
はてさて、この計画の草案を作ったのは一体誰だろうな」
「この一件の演出家は、手ごわい相手だと思うか?」
「おそらく思いつきで考えた事ではないだろう。戦う前から負けた時の事を考えて、実際負けたので考えていた計画を持ちだして、後始末を付けたのではないかな。
だとすると戦う前から負けに備える、用意周到な人間が居るという事だ。与し易い相手では無いだろうな」
「それは一体誰なのやら」
執務室の戸を叩く音が響く。エステルが一瞬、高星の表情を確かめて、入れと言う。紙束を抱えたジャンが戸を開けて入ってきた。
「今度の戦の事をまとめた資料が出来上がりましたので、棟梁に目を通していただくようにと」
ジャンがエステルに資料を手渡す。エステルが内容を軽く確認して、高星に渡した。
「ご苦労だった」
「いえ、では失礼します」
ジャンがそれだけ言って退室する。戸が閉められるとエステルはすぐに疑念を口にした。
「戦の後からジャンはなんだか元気が無いな」
「同じ人殺しでも、金品を奪う人殺しと、戦場で敵を殺すのは違うさ。初めて戦場での殺しを体験すれば、悩みもするだろう。
これで潰れる様ならそれまでという事だ。もったいないとは思うが」
「冷淡だな、あれほど目を掛けてやっていただろうに」
「才能と言うほど大層な物ではないが、あいつの力量は確かに買っていた。だがいくら才能があったとしても駄目な奴は駄目だ、戦い続ける事ができる精神が無ければな。
一遍、死線を潜れば精神もできるのだろうが、死線に近寄る事すらできない人間も居る。そういう軍人に向かない精神の持ち主は、どれほど才能や能力が有ったって駄目だ」
「彼が軍人としてやっていけるかどうかは、今が正念場かもしれないという事か」
「だとしたら、それこそ自力で何とかできなければだめだろう。今は駄目でも、次で目覚める可能性が無いとも言えない。
まあ、どうしても軍人に成れない様なら、行政官にでもするさ。飲み込みは悪くないのだ、その気になれば何にでもなれるだろう」
「やはり買ってはいるんだな」
高星は何も言わず、手元の資料をめくる。ヤコエ回廊の戦いについてまとめられた戦史資料であり、一方の総司令官であった高星の目から見ても、十分な出来と言えた。
しばらく資料をめくりながらぶつぶつと口の中で呟いていたが、だんだんと表情は険しくなり、やがてはっきりと言葉にした。
「面倒な事になったな……」
戦史資料を見ながら面倒という単語を口にした高星を見て、エステルはすぐに悟った。
「高星、敵将はそんなに厄介な相手か?」
「何故そう思う」
「勝った戦いの資料を見ながら面倒と口にすれば、敵が手ごわい以外に無いだろう。
敵軍に特に際立った、特殊な部隊は見られなかったはずだから、ならば敵将が面倒な相手なのだと思った」
「正解だ。お前はいつも何気ない言葉の端から、私の意を酌んでくれるな」
「それで、打ち破った相手とは言え、敵将はそんなに面倒な相手なのか?」
「ああ、捕虜の話からコルネリウス家の嫡男ティトウスだという事が解ったが、そこそこ手ごわい相手だ。
対陣している時から感じたが、実に手堅くて綿密な戦をする。特に今回の様な守りの戦をされると手ごわい相手だ。
今回は銀や提督の働きで、心を揺さぶる事に成功したから勝てたようなものだ。もしこれが揺さぶりを掛ける事も難しい情況だったら、どれほど手こずった事か。
しかもコルネリウス家の嫡男ならそれなりの規模の軍勢を指揮する権限もあるだろう。主力と正面で対峙しているときに、彼の率いる別働隊が側背を脅かしたとしたら、主力を無視して全力で攻めかかる訳にもいかず、撃破困難な相手になりかねない」
「なるほどな。だが高星の事だ、すでに対策なり弱点も見つけているのではないか?」
エステルの問いかけに、高星がにやりと笑う。
「弱点と言うほどの物でもないが、守りに比べて攻めは凡庸の様だな。丘の罠への攻撃も割と平凡な攻め方だったし、どうせ攻め込んでくるのなら瀬踏みと言えどももっと思い切って、あわよくばウトまで攻め込む様な奇襲をするべきだった。
まあ、その辺は攻撃に長けた部将を配下に付ければ済む事だから、弱点とも言えないが」
「あと引き際もよく弁えていた、だな?」
「戦後処理で私財を投じて兵を慰労したあたり、部下にも親身に接してよく心を掴んでいるだろうな。ああいうのは普段やらない様な事を突然やっても効果は薄い」
高星が両手を頭の後ろに置き、椅子の背もたれに寄りかかって体を反らす。
「全く、よくある英雄譚の様に、身分や地位の高さにふんぞり返るだけの無能が相手だったらどれほど楽な事か。
だが実際は、地位に見合っていると言うほど有能ではないが、かと言って絵に描いた様な愚かな相手なんてものは、そうそう居ないものだ」
「本当に愚かだったら、高位高官を保つ事はできないのだろうな。まあ、保身の技術に長けているからと言って、戦場では有能だと言う保証は無い。戦場に限れば、絵に描いた様な無能な高官も居るのではないか?」
「向き不向きだな。不向きなくせにでしゃばってくる、高位高官だとそういうわがままも通しやすいから、絵に描いた様な愚将というものがときたま現れるのだろう」
「だがそれを期待するのも、そうだろうという希望的観測も間違っている」
言うまでも無い事だった。言うまでも無い事をわざわざ言う、それは軍には絶対必要な事だ、言うまでも無いとは主観でしかない。
だがやはりそれは煩わしいと言う思いがどこかにある、だから代わりにそれを言葉に出すエステルは、良く務めを果たしていると言えるだろう。それも、働きも必要性も認識されにくい務めを、だ。
「高星、まだ一つだけ聞いていないぞ」
「何かあったか?」
「敵将ティトウスが、別働隊を率いて私達の側背を脅かす行動に出た時は、どう対処するつもりでいるか、だ」
「ああ、それか。対処など、必要も無い事だ」
「なに?」
「いつか言っただろう。我が軍の教義は、機動力を活かした戦いをする事だと。
敵に側背など取らせん、側背を取るのは我らだ。それができずに側背を取られたら、それは我が軍の優位性を殺されたという事であり、その時点で致命的な情況だ。つまり、すでに負けている。
機動力を活かして敵を振り回し続ける限り、側背を取られる心配は不要だし、そこにしか我らの活路は無い」
「そうか、そういえばそうだったな」
「そういう事を忘れる辺り、お前には軍才が無いな」
「……あまり言わないでくれないか、流石に少し傷つく」
「いつも耳の痛い事を言うお返しだ」
もちろん冗談である。傍目に見れば危なっかしいのは自覚しているし、それに苦言を呈するエステルは得難い存在だと思っている。軍才が無いのは事実だが、本気でそれをどうこう言うつもりは毛頭無い。
「まだ冬が始まるところだが、春になったら本格的に戦が続く事になる。覚悟はできているか?」
「元より高星の傍に付く事を決めた時から、覚悟はできている。この命に代えてでも、高星は死なせん」
「お前に死なれると事務が大分面倒になるな。だから命令だ、死ぬな。私を守ると言うのなら、私が天寿を全うするまで生きて守り続けろ」
「解った、決して高星より先に死なん」
雪は、昼頃に一度止んだが、陽が傾くにつれてまた降り出し、どんどん強くなっていた。明日の朝にはくるぶしまでも積もっている事だろう。
数日大量の雪が降り積もり、それが一旦全て消える。そして年の瀬が近づくと、今度は春まで消えない根雪が積もる。それが、この土地の冬だ。
どれほど戦乱の日々が続いても、この雪が降れば誰もが家に帰って休むしかない。北国の過酷の象徴が、これからは安らぎの象徴にもなるかもしれない。
それは、ある種幸せな事なのだろう。




