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流刑人形の哀歌  作者: 無暗道人
回廊の戦い
72/366

3

 兵に緩みは無かった。

 戦わずに、ただ守りを固めて対陣すると言うのは、どうしても兵の気持ちが緩みやすいものだ。

 しかし巡察した限りでは、兵に緩みはある様には見えなかったし、上がってくる報告にも、それを窺わせる様なものは無い。

 この程度の軍勢ならば、兵の一人一人に至るまでしっかりと掌握できる。だが父ならば、この倍の兵力でも手足の如く動かせるだろう。自分はまだそこまでできるかは解らない。


「ティトウス様、お疲れ様です」

「何の事は無い、私などは一番楽な立場に居るのだ。私よりも、部下の方に目を掛けてやれ」


 ティトウス・コルネリウスにとってこの戦は初陣だった。これまで演習を含む調練は多く積んできたが、実戦はこれが初めてである。

 不安は無かった。何度となく調練で繰り返した事を忘れず、余計な思いに囚われなければ間違いは無いはずだ。

 ましてやこの戦は守りを固めているだけでいい。それで十分目的は果たせるし、自分の性にも合っていた。

 楽な戦だという言い方は、油断を招くので良いとは思わないが、やはり楽な戦と言えるだろう。父もそれを承知で自分の初陣を認めたのだろう、嫡子に箔を付けるというやつだ。

 自分が基本的な戦略図を描いた戦である、細部まで把握していた。敵の出方に関しても、神経質すぎる程に予測し、気を配った。

 その甲斐あってかここまでは順調に推移していると言える。今日で第21節も7日なので、後7日程で雪が降るはずだ。

 そうしたら悠々と引き揚げて、後は父がこの『勝利』を喧伝すればいい。あわよくば追撃してきた敵を伏撃して、痛い目を見せられないかとも思う。


「若様、そろそろ定時報告の時間です」

「解った、今行く」


 毎日の報告も欠かしてはいない。判で押したような退屈な報告が続くが、根気よく耳を傾けた。こういう同じ事の繰り返しに飽きてきたところを突くのは、策略の基本である。


「今日は敵は動いていないのか? 昨日は小競り合いを仕掛けてきたが」

「こちらが頑として応じないので無駄と判断したのでしょう、今日は近寄るそぶりも見せません」

「そうか、他に動きは?」

「それが、少し不可解な動きを見せている様で、警戒を強めさせております」

「何があった?」

「守りを固めています。太い丸太で組んだ頑丈な柵を、前面に構築しています」

「それだけならば、そう不審でも無いと思うが」

「それが、打って出るための隙間も門も無く、完全に専守防衛の構えで防備を強化している様なのです」


 ティトウスが眉を寄せた。


「それは確かに怪しいな。戦う事もせずに睨み合うのはこちらの望むところ、それが解っていないとは考えにくいのだが。

 ……こういう敵があからさまに守りを固めている場合は、突然の奇襲をまず疑うべきだな」

「そう思い、警戒を強めさせております。

 少し叩いて、敵の意図を探ってみましょうか?」

「いや、止めておこう。突破する必要が有る訳でも無いのに、わざわざ守りを固めつつあるところに攻撃を仕掛ける事もあるまい。他に報告は?」

「それが……、もう一つ不可解な情報があります」

「申せ」

「丘の上の敵兵が、減っている様なのです。敵本体が到着してからは一度、五百程まで増強されたのですが、今日は四百程に減っている様なのです」

「馬鹿な、何故有利な地点を捨てるようなまねをする? 奇襲のための兵力を捻出するにしても、他に兵を抜ける部隊はあるだろうに。

 それともあの丘の上の兵は、何か特殊な訓練を積んでいるのか?」

「それはなんとも。ただ事前情報には、アンドウ家がその様な部隊を育成していると思われる情報は得られておりません」

「そもそも本当に敵は減ったのか? 隠れているだけではないのか? 丘の上ならばこちらからは見上げる格好になる、それほど深くない塹壕でも、身を隠す事ができるはずだ」

「その可能性も考慮はしておりますが、兵が減った以外にも、柵などの設備を撤去している様子も見受けられます」


 ティトウスがはっきりと眉間にしわを寄せた。


「何だそれは。我が方の油断を誘う奇襲の準備にしても、撤退の準備にしても、いやどう考えても不合理で不可解だ。一体敵は何を狙っている!?」

「若様、ご意見よろしいでしょうか」

「構わぬが、多分無用だ。惑わされずに警戒を高め、当初の予定通り守りに徹して動くなと言うのであろう?」

「ご賢察、恐れ入ります」

「負けなければいいのだ。敵がどんな策を弄してきても、動かなければ大事には至らない。むしろ敵が焦っている証拠とも取れる。ここが、我慢のしどころであろう」


     ◇


 翌日、平野部の安東(あんどう)軍の前には、見るからに頑丈そうな丸太を組んだ柵が連なり、反対に丘の上の部隊は、有利な地を自ら捨てようとしているかの様に、さらに手薄になっていた。

 それでもコルネリウス軍は微動だにしない。むしろ詭計奇策を警戒して、さらに守りが堅くなったほどである。

 そんな陣中に、早馬が駆け込んできた。


「シュヤ家とイエーガー公が講和だと!?」


 早馬はコズカタの父ルキウスからで、一触即発だったシュヤ家とイエーガー公が講和を結び、双方軍を引いたと言うものだった。


「ただの一戦も交えずに講和が成立するとは、忌々しい」


 ティトウスは報告を受けた当初こそは苦い表情を浮かべたが、すぐに表情を緩めた。


「まあいい。例えシュヤ家がすぐに矛先を転じて我が領地を侵そうとしても、国境には備えがあるし、ここに居る部隊を除いても、まだシュヤ家の全軍より多い兵力が父上の手元に居る。何の心配も、影響も無い」


 平静を取り戻し、従者に紅茶を淹れる様に指示する。だが淹れた紅茶に口を付ける前に、再び早馬が駆け込んできた。


「申し上げます!」

「何事だ、騒々しい」

「安東軍の海軍によって、兵糧の一部を奪われました!」

「なんだと!」


 勢いよく立ち上がった際に、紅茶の入ったカップが倒れた。


「連中が以前から我が軍の後方で、隙を窺っていたのは解っていた事だろう! だというのにむざむざ奪われたと言うのか!」

「も、申し訳ありません」


 剣幕に気圧(けお)されて平伏しているのはあくまで使者であり、責任者ではないのだから怒鳴り散らしても意味の無い事なのだが、この時のティトウスにはそこまで思考は回らなかった。


「それで、被害は?」

「被害は軽微なものです、兵站に支障が出る様なものではありません。また直ちに警戒態勢の見直しを行っております」

「そうか、ならばとりあえずは良かろう。しかし将兵への影響がどれほどのものになるか……。

 お前はもう、下がって良い」

「はっ、失礼いたします」


 この後、ティトウスは将校への通達で、今回の件で何らかの影響が出る事は無いと明言し、同時に兵が無用な不安を抱かぬ様に、細心の注意を払うよう指示した。それだけに留まらず、自身も軍内の巡察を増やし、積極的に兵を鼓舞する事に努めた。

 しかし、馬に乗って巡察をすると、嫌でも不可解な構えを取る安東軍の陣営、特に丘の上の手薄な陣が目について、心に細波が立つのを感じずにはいられなかった。


     ◇


 第21節10日になった。一度僅かな兵糧を奪われて以来、取り立てて問題は起きていない。変化と言えば、丘の上の安東軍の陣が、もはや空に近くなった事だけである。

 丘の上と言う有利な地形に拠っているはずの安東軍は日に日に減り続け、もはや一個小隊数十人の兵しかいないであろう。伏兵が居るとしても、総勢一百を超えるとは思えない。

 丘の陣は兵も居ず、遮蔽物(しゃへいぶつ)すら無く、丸裸と言って差し支えないものだった。


「明らかに我らを誘い込もうと言う罠でありましょう」

「だが罠だとしてもおかしいだろう。丘の上を占拠したら罠だったとして、来た道を戻ればすぐに逃げられるではないか。

 それができない様な罠だとしても、まさか全軍であんな丘に登る訳はあるまい。今の敵兵の数ならば、多くても二百か三百は出せば片が付くと見える」


 作戦会議は連日、あの不可解な丘の陣の意図を推測していた。だが何も進展は無い。罠であろうと言う点はほぼ全員が一致している、だがどんな罠なのか? 雲を掴む様だった。

 罠だとしても、とてもこちらに壊滅的な被害を与える物には見えない。ならばせいぜい数百の損害をこちらに与えて、それでどうする気なのか? 疑念ばかりが心の中で渦巻き続けた。


「……海手側、平野部の陣は完全に守りに入っている。間違いは無いのだな?」

「はい、隙間なく丸太の柵を巡らして、出入りを完全に遮断しています。不用意な攻撃は慎んできましたので推測ですが、おそらく後方にも備えはあるかと」

「そうか……」

「若様、何かお考えが?」

「連日こうして情報も無いままに推測を続けていてもらちが明かない。攻勢を掛けてみようと思う」

「しかし、守りに徹していれば我が軍の目的は果たせますし、そもそも罠に飛び込むおつもりですか?」

「もちろんそれは百も承知だ。だが戦に来て、全てが計画通りに行く事も無いだろう。それは悪い方へも、良い方へも転ぶ。

 目の前により完全な勝利を得られるかもしれない可能性があるのに、このまま座して眺めているだけでよいものだろうか?」

「それはそうかもしれませんが、罠の可能性が高い以上、下手に手を出すのはどうかと」

「罠であると解っているなら、それに備えて攻撃すればいい。そうではないのか?」

 ティトウスの口調は強く、すでに意志は固い事が窺えた。

「まず全軍から四百を抜き出す。隙が生じぬ様にできるだけ均等に兵を選抜するのだ。それを一百の攻撃部隊と三百の支援部隊に分け、一百は丘の攻略に向かい、三百は丘のふもとで待機。

 もし罠ならば攻撃部隊は素早く撤退して、ふもとの支援部隊は撤退を援護、攻撃部隊を救出する。

 罠では無い、もしくは罠を踏み破った場合は、支援部隊は攻撃部隊と合流する。そのまま敵側面に逆落としを掛けると同時に、総攻撃を掛ける。

 これならば最悪の事態となっても、全軍が潰走する様な事は無いと思うが、皆はどう思う?」


 しばし座がざわつく、ためらいの表情を見せる者も居たが、結局はその作戦を採用する事で全員が合意した。誰もがこの気持ちの悪い膠着状態を、どうにかしたいと思っていた。


「よし、ならばすぐに取り掛かれ。攻撃開始は明日払暁、夜明けとともに奇襲を掛けるのだ」


     ◇


「ジャン、罠を張って獣を狩るとしよう。ただ罠を仕掛けただけではなかなか獣は掛からない。ではどうする?」

「えっと、餌を用意しておびき寄せるとか、避けて通れない狭い道に罠を仕掛ければいいんじゃないでしょうか?」

「正解だ。上手い罠とは、罠だと解っていても踏み込んで来ざるを得ないものを言うのだ」

「敵は餌に食いついて、罠にかかりますかね?」

「食いつかなくてもいいのだ」

「……どういう事です?」


 また高星の良く解らない、本人曰く含みを持たせた発言が出たと思った。


「獣も人間も、目の前の利益を完全に無視する事などできない。利益を前にして動かなかったらそれは、利益と思っていないか、動けない時だ」

「でも罠を疑ったら、利益に飛びついたりはしないでしょう?」

「だとしても無視はしない。そういう場合は、近づいてよく観察しようとする。

食べ物だという事は解るが、良く解らないものを前にした時、まず匂いを嗅いで、次に少し舐めてみるだろう? 同じ様なものだ」

「まず疑いつつも近づいてよく観察する、次にちょっと突いてみるという事ですか」

「そうだ、そして私の罠は、指一本でも触れればそれで十分なのだ。おそらく来るならもうすぐだろう。

 これ以上待つと、もし勝利を得られても追撃で戦果拡大をする前に雪に降られる。完全に無視を決め込むのでなければ、今日明日中くらいには来るぞ。決着を付けてやる」


 不戦勝でコルネリウス軍が得る八の利得以上の利得を、戦闘で得られると思わせる方法。ジャンが5日掛けて答えにたどり着いた報酬が、この罠と利益の話だった。後は実戦で見た方が早いという事だろう。

 コルネリウス軍を戦闘に引きずり出す方法は、不戦勝と突破を組み合わせる事だった。まず海手側は完全に不戦の構えを見せる事で、不戦のときの利得、安東軍一、コルネリウス軍四の利得を実現する。

 次に山手側は、明らかに寡兵で備えもしていない状態を見せつけ、敵に突破は容易だと思わせる。突破すればコルネリウス軍が五の利得である。

 この二つを組み合わせる事によって、安東軍一に対してコルネリウス軍は九の利得を得る事ができる……ように思わせ、突破を図ってきた部隊を罠にかけると言うのが答えである。

 もっとも、ジャンがこの答えにたどり着いたのは、実際にそういう備えをしているところを5日間も眺めて、ようやくたどり着いたのであるが。


「でもまだ解らないんだよなぁ」


 高星の言う、指一本でも触れればそれで十分な罠。それがどういうものかは、未だジャンには解らない。罠を仕掛ける側からそれを見ているのにである。

 もっとも、そう簡単に仕掛けが解る様な罠では、敵にも見抜かれてしまうのだろう。だがそれにしても見当がつかない。

 すでに晩秋の陽が傾きつつあった。これ以上、考える時間はなさそうだ。素直に高星の手品を拝見しよう、そう思った。


     ◇


 11日払暁より少し前、まだ闇が辺りを覆っている。東はすぐそこまでヤコエ山地が迫っているので、陽が出てもしばらくは山の影になり、薄暗いだろう。

 闇の中をひたひたと、音も立てずに進んでいく一団がある。コルネリウス軍の奇襲部隊、危険な任務に自ら志願した勇士百名である。

 闇の中では合図は見えず、音や光を出す訳にもいかない。一列に連なって一本の縄を掴み、前の者の後に続いて進んでいく。これならば命令が無くても先頭を行く隊長が進めば進み、止まれば止まる事ができる。

 やがて丘の七合目か八合目あたりと思われる地点まで進むと、部隊長は一旦停止した。そして停止したまま縄を数度引く。それが合図になって、後ろの者が同じ様に縄を引いてから、隊長の近くまで登る。

 時間こそ掛かったが、部隊の存在を完全に秘匿したまま集合する事が出来た。陣形も何も無い、ただの密集隊形だが、奇襲である事を考えればそれほど大きな問題ではない。

 丘のふもとには、とうに支援部隊三百が小さな横陣を重ねて∧型を作る魚鱗陣を敷いて構えている。

 奇襲に成功すれば合流して敵の側面に逆落としを掛け、失敗すれば攻撃部隊を救援する。どう転んでもいい様に、あらゆる事態を想定して構えている。

 夜明け前が一番寒い。口から吐く息どころか、鼻から吐く息までも白い。武器を持つ手が凍えないよう、息を吹きかけたり、擦り合わせたりしながら攻撃部隊はその時を待った。

 山の背後から光が差し、闇夜を払っていく。日の出だ、希望の光であるはずだったし、そう信じた。


「突撃―!」


 一斉に剣を抜き、最後の坂を駆けあがる。敵陣はほとんど陣とは言えないほどに無防備で、僅かな柵や板壁が巡らされているだけだった。それも兵が居なければ大して意味をなさない。

 奇襲を受けた安東軍はほとんど抵抗らしい抵抗もせず、丘を転げ落ちる様に逃げて行った。やはりせいぜい数十人しかいない。


「止まれ! 円陣を組んで、敵の伏兵に備えろ!」


 ここまでは当然の推移だ、問題はこれからである。安東軍の動きを見極め、罠ならば合図の鐘を打ち鳴らして退却、好機と見れば太鼓を打ち鳴らして支援部隊と合流、側面攻撃である。

 陽が山を越えて昇り、戦場全体を端から明るく照らしてゆく。払暁に奇襲を掛けたのはこのためだ、闇にまぎれて奇襲を掛け、朝日の下で敵情を確認できる。

 敵陣を見下ろした。


「なにっ!?」


 騎馬隊が、馬首を並べてこちらを見据えていた。


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