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安東家領とコルネリウス家領の間をつなぐ道は、ヤコエ回廊と呼ばれる一本道である。
ヤコエ回廊は安東家領の都市・ウトから海岸線沿いに北北東に進み、途中で真東に折れて半島を横切り、再び海岸線に沿って南南東に進み、コルネリウス家領のジヘノ砦へと出る区間である。距離にして30㎞程である。
なぜこのような回り道なのかと言えば、半島のほぼ全域がヤコエ山と呼ばれる200m超えの山々がひしめく山地で、山がそのまま海に落ちたかの様に海沿いまで迫っているため、道を通すには山と海に挟まれたわずかな平地を縫うしかなかったためである。
それどころか区間によっては山を切り崩して道を切り開いたり、トンネルを掘って道を通しているほどである。ヤコエ回廊以外の道が無いのも、他の場所に道を通すのはこれ以上の困難な大工事にならざるを得ないからである。
このヤコエ回廊の中間地点に、安東家領とコルネリウス家領を分ける関所がある。
関所と言っても簡素なもので、木製の門と向こう側が丸見えの、丸太と言うには細い木の柵が、100m程の距離を置いて東西に設置されているだけである。
警備も物々しい感じはまるでなく、両方の門にそれぞれ警棒を持った警備員が二人居るだけである。
一見すると実に平和的なようだが、実際はそうでは無い。この関所は、言わばお互いに掌を見せ合い、丸腰である事を常に確認し合っている様な緊張状態にある。
関所が防衛施設としてまるで機能しない様な簡素な造りなのもそのためで、幕一枚張って向こう側が見えなくなるだけでも最寄りの部隊に報告が入ると言う、過敏な状態にあった。
その関所から最初の報告が上がったのが、第20節14日の事である。報告の内容は、コルネリウス側の関所から人が消え、行商人などの往来も完全に絶えた、と言うものである。
ウトの街に駐屯する新生歩兵第3大隊は、この報告を受けて警戒態勢を取ったが、この時点ではまだ高星までは報告を上げていない。
事件が起きたのは、翌日だった。コルネリウス家の軍勢およそ二千五百が、関所を突破してなだれ込んできたのである。
この突然の侵攻に第3大隊は実に素早く対処した。緊急出動してウトの街から10㎞程の地点に防衛線を敷き、迎撃態勢を取ったのである。
この地点を選んだのは、ほとんど断崖絶壁が海に落ちる様な地形のヤコエ山の中で、その地点にだけはなだらかな丘が一つ存在し、高所の利を得る事ができるためである。
第3大隊は山側の丘を占拠し、海側の狭い平地には障害物を構築して守りを固める一方、高星の下にも早馬を飛ばし、緊急報告を入れたのである。
「――と、以上が第3大隊からの報告だ。すでに全軍に出動命令は出してある」
高星が執務机の上で手を組み、その場に集まった面々に事態を説明した。
「まさか先手を取られるとは、私とした事が甘かったか。いや、それはもういい。兵を動員している間に戦略を考えるべきだ。と言う訳で、何か意見のあるものは言って欲しい」
「では私から。こういう時のために朱耶家との同盟が有るのだ。朱耶家に使者を送り、敵の背後から圧力をかけてもらうべきだろう」
エステルが最初に意見を出す。常識的な判断と言って良いだろう。
「ふん、朱耶家か……」
「何か疑念があるのか?」
「なに、我らを攻めれば克用が背後を突こうとするのが解らないはずはないと思ってな。
なにか備えがあるのか、それとも単純に兵力の半数以上は手元に残しているはずだから、背後を突かれたところで何という事も無いと思っているのか」
「確かに敵軍が二千五百なら、推定でコルネリウス家の全軍の4分の1に過ぎないはずだな、後ろを守る余裕はあるか。
だが守る必要が無いのと、守れると言うのでは大きく違う。朱耶家に動いてもらうのは無駄ではないと思うが」
「そこは当然動いてもらう。ただ敵の備え次第で効果は変わるだろう、そしてその備えが解らないので、どれほど効果があるかは予測できない。こういう時はあまり期待しないでおくしかないな」
「棟梁、質問良いですか?」
「ジャンか、いいだろう」
「コルネリウス家は推定で一万の兵力を持っているのに、どうして攻めてきたのはこっちとほぼ同数の二千五百だけなんでしょうか?」
「いくつか理由は考えられる。一つはおそらく向こうは本気ではないのだろう」
「本気じゃない?」
「瀬踏みと言うやつだ。本格的な戦いの前に、小競り合いを起こして相手の出方や様子を窺う、威力偵察が目的だという事だ。
それと地形の制約もある。どうしたって戦場はヤコエ回廊になる以上、大軍を投入しても身動きが取れなくなる。かと言って少なければ当然不利だ。よってこちらと同程度の兵力が最も効果的と言う判断だろう。
それと時期的な問題もある。毎年22節に入る頃に最初の雪が積もる以上、長引いてもあと15日程で休戦せざるを得なくなる。すぐに退かねばならぬ以上、わざわざ大軍を動員してもそれを活かす戦ができないまま終わる可能性が高い。
天地人の三つの制約を受けた結果が、こちらとほぼ同じ二千五百という兵力……」
高星の声がだんだん小さくなり、顎に手を当てる。考える時の癖だ。
「棟梁?」
「そうか……そういう事か……!」
「何か解ったんですか」
「敵の狙いが読めたぞ。おそらく敵は我が領内に攻め込んで、そのまま守りを固めて戦わない気だ」
「戦わない? 攻めて来たのに?」
「攻めて来たからこそだ。負けない戦をする気でいると言った方がいいかな」
「えっと……」
ジャンが考え込む。敵軍がこちらの領内に侵攻したが、まだ拠点と言える様なものを落としたりした訳では無い。にもかかわらず守りを固めて負けないようにするという事は、つまり勝つ必要が無いという事だろう。
「攻め込んだ事ですでに利益を得ているから、無理して戦う必要が無い。だから守りに徹して、雪が降ったらそれを口実に退却するつもりでいる。という事ですか?」
「それでほぼ間違いあるまい」
「でも敵は、どういう利益を得たのかが解りません。このまま退いたら何も残らない様に思えますが」
「それは戦術でも戦略でも無く、政略……政治的な利益だからな。戦場だけを見ても解らないだろう」
「政略?」
「簡単に言えば、本格的な戦の前に味方の士気を上げるのが狙いだ。我が領内に進攻して雪が降るまで持ちこたえれば、『安東家は領地を侵されていながら撃退する事も出来ず、ただ雪が降ったために辛うじて命をつないだ弱兵に過ぎない』と喧伝できる。
それはコルネリウス側の士気高揚には絶好の宣伝文句だし、これを広めればやはりコルネリウス側に付く方がいいと諸侯に思わせる効果も期待できる。
まあ、すでにほとんどの諸侯は向こう側なのだから、改めてコルネリウス側に付いている方が良いと確認させ、結束を強める方が主目的かな」
「だから勝つ必要が無い。負けなければそれでいい訳か」
「そういう事だ。はっきり言って面倒な事になったな」
「俺達の方は、守りを固めた敵を撃破しなくちゃいけないという事ですか」
「そうなるな。しかも、雪が降る前に速攻でだ。攻める方よりも守る方が有利だが、攻めた側が守り、守る側のこちらが攻めざるを得ない状況に持ち込まれた。憎いほどに良い戦略だ。
当然、焦って無理攻めをすれば被害は大きいだろう。それは元々の兵力が少ないこちらには致命的だ」
「完全にしてやられた感じですね」
「いや、そうでも無い。『智者は必ず利害の両面から物を考える』と兵書に言うだろう。見方を変えれば、圧倒的な兵力を持つ敵がわざわざ対等な条件で戦ってくれるのだ。ここでまず痛撃を与えておきたい。そのためには……」
高星が壁に掛けられた地図を見ながら、指を動かしたり口の中だけで呟いたりする。だがそれは少しの間の事で、瞬く間に戦略を組み上げたらしい高星が、次々と指示を下し始めた。
「提督、今回は領内の戦ゆえ、提督にもひさびさに動いてもらうぞ」
「なんなりと」
「一個艦隊を動員し、海上から敵の兵站線を絶つ構えを見せろ。構えだけで良い、敵に背後の不安を与えるのが第一だ」
「はっ!」
「もう一つある。こちらの方が面倒だろうが、その分重要だ」
「シバ家の動向ですな? 場合によってはコルネリウス家も」
「そうだ。あのジジイがまた裏で動いている可能性は十分に考えられる。コルネリウスの方も戦いながら謀略を巡らす余力はあるはずだ。何度もしてやられてたまる物か、なんとしても阻止しろ」
「全力を尽くします」
「朱耶家にも大至急使者を送り支援を要請しろ。他の者は出動準備! 明日出陣だ、以上」
執務室に緊張感に満ちた返事が響き渡り、すぐにそれぞれの役目を果たすために、箱から球を撒く様に、執務室の扉から溢れ出していった。
◇
「本当に、無事に帰ってきてくださいね」
「心配性だな、銀からも何か言ってやってくれ」
「あら、夫がこれから戦場に行くんですもの、いくら心配したってし足りないわ」
「だからってひっきりなしにこれじゃ、たまったものでないわ」
翌日朝、軍装に着替えながら高星は早くも疲れた顔をしていた。朝から、いや昨日から妻がずっと心配して同じ事を繰り返し言ってくるのだ。
それは銀華の言う通り当然の事なのだが、今までむしろ心配されるより激励される事の方が多かった高星には、正直うんざりするものに感じられた。
そもそも何も知らないこの妻の実家であるシバ家が、裏でどんな策謀を巡らしているか知れないのだ。それを思うとつい腹立たしくもなるが、そんな表情を少しでも見せれば銀華がどれほど怒るか解らない。
そもそも公式にはシバ家の娘ではないのだ。それを知っているが知らないふりをして夫婦をしている。仮面夫婦とでもいうのだろうか、高星は自分の家庭環境が、忌み嫌っていた父親のそれと同じ様なものになりそうな気がして寒気を覚えた。
「ま、銀華が居るから大丈夫かな」
「義姉様が何か?」
「いや、何でも無い」
この嫁は銀華の事を義姉様と呼んですっかりなついている。妻にもなり母にもなり、幸福も絶望も知っている、女としての大先輩でしかも面倒見が良いのだから、当然の結果なのだろう。
「殿、提督が至急お会いしたいとの事で、いらしております」
「提督が至急だと? 通せ」
「はっ」
提督がわざわざ朝の居住区画まで訪ねてくるのはただ事ではない。よくない知らせである事は間違いないが、いち早くそれを察知できたと考えるしかないだろう。
「殿、朝早くから失礼いたします」
「構わん。戦時に早朝も夜中も無い。それで、銀……いや、妻達は下がらせた方が良いか?」
「殿がお気になさらぬのなら、このままでも構わないかと」
「ではこのままでよい。それで、何があった?」
「朱耶家は動けません」
高星の眉がピクリと動く。
「妨害工作の先手を打たれたか」
「かもしれませぬが、表に現れている事は少し違います。そして複雑で、厄介です」
「どういう事だ」
「朱耶家は今、蒼州の自称皇帝・イエーガー公と一触即発の状態にあり、他へ兵を回す余裕は無いとの事です」
「イエーガー公だと? なぜ克用とイエーガー公が争う? 克用はイエーガー公を敵に回す理由は無いはずだし、イエーガー公もいつ都から討伐軍が送られてくるか解らない状態で、背後に敵を抱える事は避けたいはずだろう?」
「詳しい経緯はまだ。しかし手元の情報から推測するに、イエーガー公に追われた蒼州諸侯が朱耶家に亡命し、克用殿に泣きついたと思われます」
「なるほど。亡き昌国君が彼らを助けて戦った様に、その息子である克用に奪われた領地を取り返してくれと泣きついた訳だ。
それをむげに断れば、無形の武器として小さくない力を持つ、朱耶家の威光と諸侯の信頼が損なわれる。かと言ってわずか2年余りで大勢力を築いたイエーガー公と戦をしても、利益は無い。
今頃、克用は……いや、むしろ克用の隣で乃木殿が頭を抱えている事だろう」
「イエーガー公の方もその辺りの事情は承知でしょう。故に、蒼州諸侯に押し切られる形で、朱耶家が出兵してくるのを恐れているのだと思います。
もしそれが都からの討伐軍と同時になれば、前後に同時に敵を抱える事になります。ですから一刻も早く、後顧の憂いを除きたいと考えての軍事行動だと思われます」
「つまり本心を言えば、どちらも戦いは望んでいない。しかし戦わずにいると危険な火種を抱え続ける事になる。だから両者共渋々兵を出し、動くに動けなくなっている訳か」
「およそ、そのような事情で大きくは間違っていないと思われます」
「……これを掴んでいて、後ろを心配する必要が無いから攻めてきたのかな。
どちらにしろこうなれば、なんとしても朱耶家とイエーガー公の争いを仲裁したい。双方共に争う事は望んでいないのならば、第三者の仲裁が有れば和平は可能なはずだ」
「問題は、誰を使者に送るかです」
「さて、手が空いていて上手く交渉をまとめられそうな者は……」
高星が頭を捻るが、これと言った適任者が浮かんでこない。提督の顔をちらと見るが、提督も特に推せる様な人物は思い当たらないようだ。
思い切って、実績は無くとも可能性はありそうな若手を抜擢するしかないか、そう思い始めた。
「誰も適任者がいないのなら、私が行きましょうか?」
「銀?」
意外な申し出だった。確かに交渉事には有利な、中立の宗教機関であるシオツチ神社と個人的なパイプを持ち、朱耶家とも浅からぬ関係を持つ。世間的に尊敬を集める修行者の一団に身を置いていた事もある。
しかしこれまで銀華はずっと高星とその周囲に集まった者達と言う、言ってみれば個人的・家庭的な領域に留まっており、公的な場に出てきた事は無く、当然、交渉事の責任者を務めた経験も無い。
「……勝算はあるのか?」
「ええ、当ても無いのに無責任な申し出はしないわ」
「まあ、お前ならば信頼できると言う点では他の誰にも劣らないし、色々と都合の良い立場である事は確かだ。しかし……本当に大丈夫か?」
「国同士の争いと言ったって、基本は同じ。人と人が自分の利益と主張と都合で衝突してる。揉め事の仲裁なら、ほとんど毎日やって来たわ。それに、ずっとあなたのそばに居たのだから、政治向きの事もそれなりに把握しているわ。
シオツチに現地に勤めている役人さん達がいるでしょう? 細かい所をフォローしてもらえれば、やれると思うわ」
高星はしばらく口を歪めて考えていた風だが、やがて意を決した。
「解った、すぐに出立できるのはお前くらいだし、任せよう。身分保障とか、シオツチの者達への指示書とか色々用意するから、その間に旅装を整えておけ。
あと念のため、人員が確保でき次第ベテランの交渉人を応援に送るから、無理はするなよ」
「ありがとう。上手くやってくるわ」
話が決まるとにわかに慌ただしくなった。急な出立ではあるが、銀華はてきぱきと旅装を整える。
「義姉様、義姉様まで行ってしまうのですね」
「そんな泣きそうな声をしないの。一人でも毅然と夫の帰りを待って、家を守るのが妻の務めよ。男なんて一旦家を出ると、連絡一つ寄越さないんだから。面倒が無くていいなんて位でいなきゃ」
「はい、私頑張りますね」
妻と銀華のそんな会話を遠く聞きながら高星は、気まずい様な居心地の悪い様な思いに、苦く笑っていた。
◇
馬上の高星が、整列した部隊を黙って見つめている。いつもの一国の領主とは思えない様な、簡素な鎧に鉢当てを着けただけの軽装だ。
その左右には親衛隊が整列している。高星の右に騎馬のエステル、左にはイスカ、イスカの隣がジャンだ。紅夜叉と操は端の方に並んでいる。
騎馬武者が一騎、報告のために高星に駆け寄ってきた。
「殿、全軍揃いました」
「よし、まずはウトまで進軍。そこで全軍集結し、戦場へ赴く。旗を掲げよ!」
高星の号令一下、安東家の星を追う鷲の旗と、高星の軍旗である、太陽に抗って光る太白星の旗が高々と掲げられた。
「これより我が領内を侵す愚か者共を返り討ちにしに行く! 進軍!」




