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静かな別れだった。
克用以下数名の見送りだけの別れの挨拶だった。派手な事も変わった事も無く、強いて言うなら克用の夫人となったヤリュート家の姫が同席しているくらいだろうか。
「なんだかあっという間だったな。もっと語り合いたい様な気もするが」
「長く海の上に居たせいでそう感じるかもしれないが、もう三十日も国を空けている。流石にこれ以上留守にする訳にはいかんのでな」
「解っている。コルネリウスの軍事力は侮れないぞ、気をつけろよ」
「忠告感謝するが、元より侮る気は微塵も無いつもりだ」
「そうか。お前が海に出ている間に南朝政府に使者を送って両家共々、いや、ヤリュート家も合わせて三家共に南朝方に付く事を表明させた。
その見返りに公的な地位と官職を得て来るように工作をさせている。有名無実なものだろうが、お前ならそこから利益を得られるかもな」
「ありがたい、中央との繋がりは欲しいと思っていた。特に皇統が割れた今は、両方にな」
「お互い、次はいつ直接会えるか解らん身だが、また会おう」
「ああ、また会おう。だが最後に一つ確認させてくれ。お前は当主に就いてから3年待ち、来年から動き出す、そうだな?」
「そのつもりだ」
「概略でいいから、来年からの戦略をどう描いているか聞かせてほしい」
「なるほど。まず言っておくと、心配は無用だ。こちらで動きつつも、コルネリウスの牽制は十分に果たそう。兵力の半分くらいは拘束してみせる。
うち独自の動きとしては、西側の諸侯を属州総督含めて制圧し、北朝方の手足をもぎつつ、鉱山などを得て国力を高める。これを三年で成して見せる」
「三年……来年から動き出して三年ならば、四年後にはそちらの決着は付けるつもりという訳だな」
「必ずそれまでに平定して見せよう」
「では五年後に戦場で会おう。そして馬を並べて戦い、同じ敵を討とう」
「五年後か、いいだろう。五年後に一緒に変州の決着を付けてやろう。それまでに死ぬなよ」
「お互い様だ。これで全ての用は済んだ」
高星は克用の隣に立つ夫人の手を取って跪き、女性に対する礼を示した。
「奥方、新婚でありながら克用殿を長い時間奪って申し訳ありませんでした。私はこれより国に帰りますが、お二方の幸せを心より願っております」
「安東様、お気になさらないでください。安東様がいらっしゃってからと言うもの、夫は毎日楽しそうな顔をしていました。銀華さんとも良いお話ができましたし、楽しかったです。
明け星の下で別れましょう。明け星の下でまた会いましょう」
高星は驚愕に目を見開いて顔を上げた。夫人は小首をかしげて、なにか? と尋ねたが、高星は何でもありませんとつぶやく様に言ったきりだった。
◇
船が錨を上げた。行きの時と同じ様に二百トン級の軍船に乗ると、百トン級の大雀に乗りなれたせいで、妙な落ち着かなさを感じた。
港で朱耶家の面々が手を振っているのが見える。高星は船の舳先で、刀を杖にして屹立している。その姿は港からもよく見えるだろう。
だんだんと陸が遠くなり、手を振る人の姿も黒ゴマの様に小さくなってゆく。やがて見えなくなると、ジャンは高星のところへと向かった。
高星は舳先から降りたが、やはり船首に立ってまっすぐ前を見つめていた。その隣には銀華が先に居た。
「銀、いつのまにヤリュート家の姫と仲良くなったんだ?」
「もちろん高星が海に出て、私がお留守番している間によ」
「それはそうだろうが、一体どうやって君主の正室と、この短い間に仲良く話せる関係になったんだという事だ。そう気軽に他人と会える立場でもないはずだろう?」
「そこは男の人には秘密」
「なら、良い話ができたと言っていたのは?」
「これから家庭を持つ娘に、人生の先輩として色々と助言をね」
「それはそれは、克用も苦労しそうだな」
「それはどういう意味かしら? ほっとくと家庭をほったらかしにしそうな夫を立てつつも家庭を上手く治めるのは、色々と知恵が必要になるものなのよ。
高星も明らかにそういうタイプよね? 当主になった以上、跡継ぎとかも考えないといけないんじゃない?」
高星があからさまに顔をしかめて視線を泳がせる。辺りを見回してジャンの姿を認めると、何の用かと尋ねて、あからさまに話題を変えた。
「いえ、大した用が有る訳じゃ……」
「用が無いなら来るはずがないだろう。つまらない事だと言わずに、なんでも言ってみろ」
高星は余程今の話題から逃げたいらしい、妙に必死である。
「じゃあ、お尋ねします。棟梁、姫様が別れの挨拶らしいものを言った時、驚いていた様ですが?」
「ああ、あれか。あの言い回しをする者は、うちにももうほとんど居ないからな」
「どういう事です?」
「『明け星の下で別れましょう。明け星の下でまた会いましょう』これはアラハバキの古い別れの言葉だ。
明け星、つまり太白星は明け方と日暮れに出る星だ。まあ実際は約280日周期で明けだけの期間と宵だけの期間が入れ替わるのだが。
『明け星の下で別れる』とは、宵の明け星が出る頃にようやく別れる程に別れを惜しむ事。『明け星の下でまた会う』とは、明けの明け星が出る様な早朝に再会する程に、また会う事を心待ちにする事を言う。
二つの言葉を続けて、別れを惜しみ早い再会を願うと言う意味の別れの言葉だ」
「それをなんでヤリュート家の姫様が?」
「それが解らんから驚いたのだ。この言い回しは古く、我が領内にもほとんど使う者は居なくなった程だが……」
「ヤリュート家はアラハバキの民なんでしょうか?」
「その可能性が高い。それで必死に古い系図を思い出そうとしているのだが、思い当たる物が無くてな。帰ったら書庫を漁ってみるか」
高星の言葉が風と波に混じって消えていく。そう思うほどに広漠な海原を、艦隊が北に帰っていく。
◇
蝉の声が喧しかった。北国と言えども、真夏ともなれば茹だる様な暑さにもなる。日陰で風を通せばまだ何とかなるが、それでは仕事にならない。この日もジャンは、いかにも暑苦しい山の様な書類を運んで、ようやく一休みできると思った。
「あ……駄目だ、棟梁に大至急決済してもらう書類があるんだった」
辟易とした。ようやく冷たい麦茶の一つでも飲めると思ったのに、いっそ忘れたたままならよかったと、不埒な事を考える。
思い出した以上無視する訳にもいかないので、高星の下へ向かおうと踵を返したとき、エステルに声を掛けられた。
「ジャンか、いいところに」
相変わらず暑くないのかと思う露出の少ない黒服を着たエステルは、見たところ汗一つ掻いてはいない。
「高星を見なかったか? さっきから捜しているのだが姿が見えなくてな」
「棟梁なら書庫に居るはずです。俺も用事があるので、これから行こうと思ってたところです」
「そうか、ありがとう。姿が見えないと思ったら書庫に籠っていたのか」
廊下を行くエステルを、ジャンは駆け足で追い、隣に付く。
「何かありましたか?」
「なに、悪い知らせでは無い。南朝方の政府から通達が来てな、高星の事を将軍に任ずるそうだ」
「将軍……それにしちゃ通達だけで一人も寄越さないんですか?」
「朱耶家領までは来たそうだが、そこから北に行くのは嫌がって、朱耶家に預けた様だ。やはり我らは腫物扱いらしい。まあ、南朝は大分人手不足でもある様だが」
書庫に着き、戸を叩くと中から高星の返事がした。中に入ると書庫なのだから本が一面に収められているのは当然として、窓も開けず薄暗い中で明かりを点けていた。
「悪いが閉めてくれないか。古書を開いているからできるだけ日に当てたくない」
慌てて戸を閉める。小さな明かりが灯るだけになった書庫は、不気味ではないが静謐で、なにか神秘的な空気が漂っている。
「あの、棟梁。執務室にすぐに決済して欲しい書類があるのですが」
「そうか。しょうがない、続きはまた時間を見つけてやるか。エステルは何の用だ?」
「高星を将軍に任ずるという、南朝政府からのお達しだ。拝命書が来ている」
エステルが装飾だけはやたら豪華な拝命書を高星に手渡す。
「ふん、本来将軍と言えば一万人の兵を率いる権限を持つ者だが、その半分も持たない私が将軍とはな。官職の大盤振る舞いもいい所だ」
「それだけ危機感が強いという事だろう。なにせ皇位の僭称者を正式な皇帝と認めて引きこんだ位だからな」
「まあ、断る理由は無い。……ほう、これは」
高星がにやりとする。
「棟梁、なにかしましたか?」
「私を将軍に任じ、称号を『威遠』とするだとさ。今日からは威遠将軍という訳だ」
「威遠……将軍?」
「将軍には必ず称号が付き、○○将軍と称す。伝統的なもの以外は、その時々に応じて称号を付ける。ちなみに伝統的な号を持つ将軍の方が格上だ。
私に付いた称号は『威遠』、つまり『遠くを威す』将軍、まさに辺境扱いだ、かえっておかしいくらいだよ」
高星は説明しながらくつくつと笑っている。
「ちなみに克用はどうなった? 家柄から言っても私より上位の官職をもらった事だろう」
「ああ、伝統的な将軍職の一つ、『平東将軍』を授かったそうだ」
「平東将軍……なら、帝国東方の平定のために戦っていると主張できる訳だ。上手い事大義名分を手に入れたな」
「平東将軍ってのはつまり、帝国東方の司令官って事ですか?」
「まあ、そんな感じだ。伝統的な将軍職には、東西南北の司令官職が四段階ある。平と付くのはその第四位、平東将軍は帝国東方軍の第四位ということだ。
ただし、上が居ない今は実質一位だがな。まあ、父親の威名にはまだまだだな」
「朱耶の先代当主、昌国君ですか。あれも称号ですよね?」
「将軍の頭に付く称号は、将軍としての格や担当を表す。それに対して○○君というのは純粋に功績有る贈られる名誉称号だ。克用の父親はそれ程の人物だったという事だ」
「へえ、ちなみに最高の称号は?」
「最高の称号か。言った通り名誉称号だから正式には上下の格の違いは無いが、やはり『武安君』こそが最高の称号だろうな」
「『武安君』?」
「武によって国を安んずる。それだけなら大した事は無いが、歴史上もっとも高名な武安君が、常勝無敗にして五国を滅ぼし首級百万を討ち取ったという、桁違いの軍歴を持つ将軍だからな」
「あ、この前船の上で言っていたやつですか」
「そう、それだ。まあ、一度に百万人ではないが、四十万皆殺しは成し遂げている。これに匹敵するのは二万に満たない総兵力で百万を打ち破ったと言う、帝国の初代・武帝くらいの者だろう」
「もう、スケールが違い過ぎて想像できません」
「名将と言うなら四百年前の帝国草創期こそ名将が多かった時代だな。なにせ武帝の二十八功臣と言って――」
エステルがわざとらしく咳ばらいをした。高星が頭を掻いて、片づけようかと小さく言った。
◇
「これはどこですか?」
「系図ならそっちの棚だな」
「高星、この棚はもう一杯の様だがこの本はどこから出した?」
「えーっと、確かあの辺だったはず」
高星が引っ張り出した古書の片づけは手間がかかった。なにせ奥の方にしまってある上に、古い文字が多くて読めないため、どの棚から出たのか探すのが大変なのだ。
「棟梁は読めてるんですよね?」
「大体な。幼少の頃より古書を開いていたから、珍しい字以外は読める」
「この土地の人間なら誰でも読める訳じゃないんですか」
「多少訛りがあるとは言え、皆帝国公用語で話しているだろう? 学ばなければ我らの言葉も忘れ去られてしまうのだ」
高星の声がわずかに憂愁を含んだ。それについ気を取られて、ジャンは棚の本をバラバラと落としてしまった。
「あーあ、何をやっている。古い本なのだから丁寧に扱ってくれ」
「すみません……」
散らばった本を、高星も一緒になって拾い集める。
「この辺の本はまだ見ていないな……」
高星の目が留まり、手が止まった。落ちた拍子に開いた本の一説に気になる文字列が記されていた。
「耶律……これだ! 間違いない」
◇
窓から外を見ると、海が暖かな色に染まり始めていた。だが夏の長い日はまだ沈みそうにない。
高星は執務室で書類の決裁を終えて伸びをすると、書庫で見つけた本に改めて目を通した。
安東家のおよそ八百年前の事跡にはこう記されていた。
いわく、時の当主の娘は有力な豪族の家に嫁ぎ、一男を得た。大きな戦が起こり、娘の嫁ぎ先は実家の安東家と共に戦ったが敗れ、幼い息子を連れた娘は息子を守るためにも勝者の戦利品とならざるを得なかった。
やがて娘は実家を討ち、夫を殺した相手との間に一男をもうけて死んだ。その家の当主が死に長男が後を継ぐと、かつての敵の血を引く二人の弟を殺そうとして戦になった。
娘の子は長男の突然の襲撃に家族の全てを殺された。その中には幼い娘も居たと言う。
兄弟力を合わせて長男を殺し、身を守った娘の子二人だが、やがて弟の方が完全な連れ子である兄よりも当主にふさわしいとして、兄を攻め滅ぼそうとした。
兄は弟を討ち滅ぼし、ようやく家を継いだ。その際に家名を『耶律』と改めた。耶律とは『律は如何耶?』の意であり、即ちこの世に天の道理、真実正義の道はあるのか? という思いを込めたものであると言う。
高星は大きく息を吐いた。この安東家の娘の子、おそらく壮絶で悲惨な人生を送ったこの子が名乗った姓が『耶律』。この古語を現代帝国公用語風に読むと、ヤリュートになる。もはや疑いようも無かった。
六百年前に隆盛を誇り、歴史に燦然と名を遺したヤリュート家の興りは、八百年前に分かれた同族の深い無念と絶望が起点だったのだ。
あの家にも我らと同じ苦悩の血が受け継がれている。だが受け継がれているのは苦悩だけでは無い。
狩人の血が、確かに受け継がれていると思った。我らが大海を行く海の狩人、獲物を逃さぬ鷲の目を持つ一族ならば、彼らは草原を駆ける狩人、白い狼の一族。
同じ血を持たずとも朱耶家もまた狩人であろう。それも天上に昇り、雲の上で狩りをする狩人。
だが誰よりも自分こそが一番の狩人であると、高星は自分の心に言い聞かせた。
自分は無抵抗に逃げるばかりの兎を狩る様な狩人ではない。竜虎の爪牙を潜り、狩人同士の対決を制して、自分よりはるかに巨大な相手を獲物にする、それが自分でなければならない。
誰が相手であろうと負けはしない。たとえ一時の負けは有っても、最後の勝者は自分だ。自分でなければならない。
「必ず、全てを手に入れて見せる」
そうでなければ自分が生まれた意味はなんなのだ。先祖代々に渡って血の涙を流したのはなんだったのか。自分に付いて来てくれる者達はどうなるのだ。
すでに、高星の心はまだ見ぬ戦場へと飛び出して行きそうだった。逸る気持ちを抑えるためにまた書類に向かったが、頭に入らず窓の外を見た。
いつまで経っても沈まない夏の夕日が、妙にもどかしかった。
朱耶家との邂逅編(完)




