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何も見えなかった。
辺り一面渺々とした大海が広がるばかりで、自分の乗る船以外には何も見えない。
こうしていると果てしない世界の果てまで見ている様な気がするが、実際は檣楼の上からでも十数キロ先を見るのがやっとだと言う。
なぜかと言えばこの世界が球形をしているからそうなると言う。にわかには信じがたいが、世界が球形である事は様々な形で証明されていると言う。ただ未だ世界を一周して帰ってきた者は居ない。
自分には大きすぎる話だった、高星と共に居ると途方も無く大きすぎて、実感が湧かない話が多い。
実感が湧かないと言えば、今が戦をしに来ているという事も実感が湧かなかった。
◇
事の始まりは克用が高星に相談を持ちかけた事が切っ掛けだった。
蒼州交易の話が持ち上がり、それに関連する情報を改めて確認していたところ、無視できない事実に直面したのである。
海賊問題だった。
蒼州の戦乱で主家を失った騎士崩れが、盗賊や盗賊より性質の悪い傭兵としてうろつき回っている事は周知の事実だったが、陸の上が飽和したのか海賊までが激増していたのだ。
このまま放置すれば交易に深刻な影響を及ぼす。本来ならば朱耶家が当たるべき問題だが、本質的に陸軍人の家である朱耶家には二百トン級軍船すら無い。
百トン級はあるが、神出鬼没の海賊を相当するにはどうすればよいかのノウハウも無く、困り果てて安東家海軍の力を頼ってきたのだ。
高星はこれを二つ返事で了承した。元々航路の安全と交易の利益を守るために設立されたのが安東家海軍であり、新航路の開拓に際して海賊の掃討が必要と言うならば、迷う理由は無かった。
「その代り軍費や物資に関しては協力してもらうぞ」
「もちろんだ、いくらでも言ってくれ。後できれば――」
「船に朱耶家の人間を乗せろと言うならお断りだ。我が海軍の軍事機密が欲しいなら、別個に対価を要求する。高いぞ」
「ちっ、駄目か。まあ期待はしていなかった」
そんなやり取りを経て、シオツチから安東家海軍が海賊掃討任務に出撃した。
出撃したのは百トン級軍船四隻のみで、二百トン級は居ない。これは海賊は強い相手からは逃げ、弱い相手だけを狙って襲うものであるから、二百トン級軍船を出すと逃げに専念されて捕まらない可能性が高いからだと言う。
出撃した四隻の軍船も甲板に木材や箱樽を山と積み、積み荷を満載した商船を装った。海賊に獲物と思い込ませておびき寄せるためである。実際は積み荷の中は空か、武装を隠してある物が多い。
ジャンを含めた親衛隊二十名は高星と共に、大雀と言う名の軍船に乗艦した。乗員は他に戦闘員十名、水夫十二名、漕ぎ手七十二名で、高星も含めて計百十五名だ。
「しかし見渡す限り海しか見えないんだが……こんな広い海で本当に海賊船なんか探せるのか?」
「探すんじゃない、向こうに見つけてもらうのさ」
「棟梁。棟梁を疑う訳じゃありませんが、見つけてもらうと言ったって、水平線しか見えませんよ」
「……先に忠告しておこう。そんなに遠くばっかり見つめていると、記憶喪失になるぞ」
「記憶喪失?」
「偶に居るんだ。船乗りが多いが、草原とか雪原での話もある。
こういう何も無いただっ広い地平をぼんやり見つめていると、その時はきちんと受け答えができるが、後になってその時自分がどこで何をしていたか、記憶が欠落する者がいる。
あまりぼんやり景色を眺めていると、お前も記憶喪失になるぞ」
「まさか」
「まあ、そう言う奴が偶にいると言う話で、皆が皆そうなる訳ではないが」
「それで、話を戻してどうやって海賊に見つけてもらうんですか?」
「『彼を知り己を知れば百戦して危うからず』だ。海賊のやり口を知っていれば、海賊の出る海域が解る。そこをうろつけばいい」
「海賊が出る海域?」
「海賊はな、こういう見渡す限り何もない沖で仕事はしない。奴らの縄張りは海岸線が入り組んでいて、島影の多い所だ。つまり身を隠しやすく、奇襲を掛けやすい場所だな。
そういう場所は真っ当な船乗りにとっても嵐を避けやすく、都合のいい場所だ。だから獲物にも事欠かない。島の上なんかから獲物を探し、見つけたら島陰に隠れて近づき、奇襲を掛けて略奪する。
成功しても失敗してもすぐに外から見て解りにくい隠江に隠れる。そういうのが海賊の一般的なやり口だ。
もちろんこちらが取り締まる様になれば、向こうも裏をかこうと沖で襲撃したりするが、まあこのあたりの海賊は狩った事はあっても狩られた事はなさそうだから、素直に来るだろう」
「じゃあ今はその海賊の出そうな海域に向けて航行中という訳か」
「そういう事だ、まだしばらくはゆっくりしていられるぞ。せいぜい船戦の想定でもしておけ」
◇
船に乗る前から、エステルが物憂げである事は気付いていた。
戦いに行くのだから、行きの船旅の様に涼しげなドレスを着る訳にもいかない。いつもの露出の少ない黒服では日差しがきつい事を憂いているのかと思った。
だがエステルがその程度の事で、傍から見て解るほど気落ちするだろうかとも思った。
狭い船内では必然的に一緒に過ごす時間が多くなり、相手をよく見る時間も増える。するとエステルは明らかに高星を避けている様だった。かつて無い事である。
「エステルさんは一体どうしたんだろう」
エステルの異常を最も気にかけたのはイスカだった。
「高星さんと何かあった……様子は無かったわよね」
イスカに付き合う形で操もエステルの事を気にかけていた。紅夜叉が我関せずと言う態度なのは当然の事である。
戦の前の不和が悪影響を及ぼすであろう事は、ジャンにも当然の如く予想できた。エステル本人にはイスカと操が何かにつけて一緒に居る様なので、ジャンは高星の方に当たってみる事にした。
「棟梁」
「ジャンか、どうした」
ジャンが高星を見つけた時、高星は甲板から空を、と言うよりも雲を見つめていた。
「まあちょっと……棟梁は今何を?」
「天気を読んでいた。しばらくは晴れが続きそうだな」
「それは良かった」
「いや、あまり天気が良いと照り返しで見えにくくなる。戦をするなら薄曇りの方が良い」
「そうですか」
「うむ。それで、お前は何の用だ」
「俺の用と言うか、エステルさんの事で」
「ああ、なるほど。先に言っておくが、エステルが私を避ける理由について思い当たる事は無い。多分、エステル自身の問題だろう」
「それでも、何か気にかけてやった方がいいのではないでしょうか」
「ほう、お前一端に私に諫言ができる様になったか」
「か、諫言!? いや、そんな。俺なんかまだまだで、そんな大層な事ができる様なものじゃなくて。ただ思った事をその、えーっと……」
ジャンは自分がしている事が主君の過ちを諌める諫言だと指摘されて、しどろもどろになる。
「諫言をするならもう少し肝が据わって欲しいものだな。それはそれとして、私からエステルに掛けてやる言葉は何もない」
「何故です?」
「エステルが私を避けているからだ。何を抱えているかは知らないが、今私が気に掛けてやったら、却っていたたまれない気持ちになるだろう。向こうから打ち明けて来るのを待つしかない」
「……断言できるんですか?」
「そんな事、できる訳が無かろう。もし誤ったのなら、そのツケを払わせられるだけだ」
ジャンは、釈然としない思いを抱えながらも、それ以上何をいう事も出来ずその場にただ立っていた。
「あの、高星……」
後ろから声がした。エステルだった。傍にイスカと操もいる。
「話があるのだが、今いいだろうか?」
「お前の話なら、いつでも聞く用意がある。私の副官だからな」
エステルの方から打ち明けてきた事に、ジャンは安堵する。そんなジャンを両腕を、イスカと操がそれぞれ掴んでこの場から引き離す。
「お、おい。何するんだよ」
「ジャンさん解ってないですね。ここは二人きりにしてあげるとこですよ」
「大事な話だ。私達が首を突っ込む事じゃない」
「そういうものなのか?」
「そういうものです。全く、紅夜叉と言いジャンさんと言い、男ってこういうところ鈍いのかしら?」
「……エステルさんが棟梁を避けてた件の話だよな?」
「そうですよ。でも例え仕事の悩みでもあの二人は男と女なんです。そこはもう、他人が立ち入って良い世界じゃありません」
「良く解らん」
「とりあえず、私達はお邪魔だから向こうに居ればいいんだ」
結局ジャンは、納得できないまま引きずられて行き、高星とエステルがどんな会話をしたのか知る事は無かった。
◇
「それで、何故私を避けていた? 確か演習をした後くらいからだったな?」
「そこまで解っていたか。確かにあの演習の後から悩んでいた。そしてなんとなく高星と顔を合わせられなくなってしまった」
「そうか。何を悩んでいた? 私には思い当たる物が無いが、自覚しないうちにお前の信頼を損ねる様な事をしただろうか?」
「そんな事は無い。これは私の問題だ、高星が気に病む様な事は何も無い」
「そうか、それは良かった。こうして話しているという事は、打ち明ける気になったんだな。言ってみろ」
「高星、私は……私は副官として、お前の傍にいる資格があるだろうか?」
「なに?」
「今回の、朱耶家との一連のやり取りを通じて思ったんだ。私は交渉の席で高星を助けられるような交渉術も無いし、軍才も無く一軍の将としても務まりそうにない。
そんな私が副官として高星の傍にいていいのかと思うと、顔を合わせるのが辛くてな……」
「何を馬鹿な事を、そんな事で悩んでいたのか」
「なっ……」
「お前に軍事も外交も端から期待などしていない。軍才があれば一軍の将として最前線に配置するし、外交官として優れていれば帰る暇も無い程に飛び回ってもらっている。
だが私はそうせずにお前を手元に置いた。それはお前の事務処理能力と、個人的な武勇を買ったからだ。だからお前を護衛兼副官に選んだのだ。
そこをはき違えて、求められていないものが備わっていない事に悩むなど、馬鹿か貴様は」
「……あまり馬鹿馬鹿言わないでくれないか」
「何度でも言ってやる、この馬鹿。お前は今まで、私が言葉にする前にお前に求めている事を察して、私の期待に応えてきた。得難く同じ思いを抱いているからできる事だ。
それを何だお前は。くだらん事で悩んで、私を避けて、それどうやって私の副官としての務めを果たす気だ。この馬鹿者が」
エステルは俯いていた。一見うなだれているようにも見えたが、すぐに小さく笑い出し、ついに天を仰いで大笑した。
「全くだ、私は救い様のない大馬鹿者だな。要らぬ事で必要以上に思いつめる。その結果、大事な事を見落としていたのだから、確かに大馬鹿者だ。
高星、手間をかけた。私が馬鹿だったよ。もう大丈夫だ、ここからはまた元通りお前の優秀な副官の私だ」
「それでいい。お前はそれでいいのだ。さて、これから海賊掃討に取り掛かる訳だが、船ごと沈めるのに失敗したら白兵戦になる。私自身剣を取って戦う場面もあるだろう」
「任せておけ、かすり傷一つ負わせるものか。海賊如きに高星が剣を抜く必要などない。私が全て斬り伏せて見せよう」
「全く頼もしい事だが、今は親衛隊長でもあるのだから、若い連中の手綱もしっかり握ってもらわないと困るぞ」
「むう、そちらの方が面倒な仕事になるな」
「全くうちの連中ときたら、協調性というものが無いのか」
「高星が拾い集めた者達だろうに」
「お前もだよ。協調性が無い事もな」
「高星こそ協調性など考えた事も無いだろう。その必要が無いともいえるが、似た様な者ばかりが集まったのではないか?」
「手厳しい事を言う。まあ、私はただ命ずるだけだ。統率はお前の仕事だ」
「全く、なんという主君だ。まあ、それがいいのだが」
エステルが大げさに肩をすくめて見せる。高星がそれを見て笑い、エステルも笑う。
夏の空は雲一つ無い。




