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目が覚めると、もう日が高くなっていた。
船旅で、自覚していた以上に体に疲れが溜まっていたらしい。まともな寝床で寝たと言うのもあるだろう、最後に柔らかい寝床で寝たのはいつの事だったか。
ともあれ朝食も食べずに寝ていたせいですぐにも空腹を覚えたので、着替えをして厨房と言った方が適切な規模の台所へ向かう。
まだ邸内の間取りはうろ覚えだが、迷うことなく台所に着くと、都合良く銀華が何やら仕込みらしい事をしていた。
「あら、寝坊助さんがやっと起きたのね」
銀華が振り向くと、今日は後ろにまとめた髪が揺れて尾を引いた。
髪だけでなく、袖もたすきを掛けて邪魔にならないようにしている。昨日より格段に活動的な印象だ。
「ごはんならすぐ食べられる様に用意してあるわ、そこの棚に置いてあるから好きな時に食べていいわよ」
流石に気が利く、そうでなければ三十人近い大所帯の台所は預かれないのだろうが、本人はいかにも楽しそうだ。
特に当ても無いので、さっそく頂こうかと棚の方に向かったら、棚脇の通路からイスカが入ってきた。
「銀華さん、呼んだ?」
「あ、イスカちゃん。お使いを頼みたいんだけどいいかしら?」
「別に、かまわない」
「そうだ、ジャンにも行ってもらいましょうか?」
不意にお使いとやらが回ってきた。
「まあ、いいけど」
流石にただ飯食わせてもらっているのも悪い気がするのでとりあえずそう答えたが、答えてから厄介ごとではないだろうなと気を揉む。
「で、俺達は何をすればいい?」
「お使いよ、お・つ・か・い。高星にお弁当届けてきてちょうだい」
「そんな事で良いなら……。でも、昼には早くないか?」
「いえ、これはお昼じゃなくて二回目の朝ごはん。
高星ったら朝に弱くて、毎朝無理に起きてるからほとんど食べなくて。今朝も少しのごはんにお湯をかけて流し込んでたし」
「は、はぁ……」
「相変わらずだな。それで、どこに届ければいいんだ?」
「今日はババでウマゼメをしてるわ、海に出てる間に鈍ったからって。持って行ってあげて、ついでにみんなで食べてくるといいわ」
「ババでウマゼメ? 婆さんで馬を……なんだって?」
聞いたことのない単語に思わずそんな事を言ったら、二人揃って吹き出し、笑い出した。
「き、君は、冗談が、上手いな」
「ふふふ……。馬場っていうのは要は馬牧場で、馬責めっているのは乗馬の鍛錬の事よ」
我ながらずいぶん馬鹿な事を言ってしまった。なにやら子爵と出会ってからこんな事が多い気がするが、子爵に言われた通り自分が世間知らずだったという事だろうか。
「とにかく、お使いお願いね。馬場の場所はイスカちゃん解るわよね?」
「問題ない」
「じゃ、いってらっしゃい。気を付けてね」
◇
昨日、南に向かって歩いた道を今日は北に向かって歩く。市内は昨日と変わらずにぎやかだが、午前と午後の違いだろうか、行き交う人々の種類は昨日とは少し違うような気がした。
「馬場っていうのは、遠いのか?」
「そうでもない、街の正門は解るか?」
「昨日、街に入るときにくぐった東側の門かな? 川沿いの道の」
「そう、それだ。その正門を出て街道を少し東に行くと、街道の北側が一面、安東子爵家私有の馬場だ」
「ふーん、流石貴族だな」
その後しばらく会話も無く、道を知っているイスカの方を一歩前にして、通りを歩いていた。
道中なにやらチラチラとこっちを見てくるのに気が付いたが、特に気にも留めずにいた。
「き、今日はいい天気だな?」
「えっ? ああ、まあそこそこじゃないか」
「そうか、そこそこか……」
「……」
これはあれだろうか、何か会話の話題を探しているが、どんな話題を振ればいいのか困っているというやつだろうか。
しかし生憎こっちも他人と世間話なんてした事は無いので、話題など思い浮かばない。結局またしばらく沈黙が続いた。
「な、何か聞きたい事はあるか? なんでもいいのだが……」
しばしの沈黙の後、イスカの口からそんな言葉が出てきた。考えた末の苦心の言葉なのだろうが、何でも聞いてくれと言われても何も聞きたい事が思い浮かばない。
かと言って、せっかく苦労して話題を振ってきたのを無碍にするのも悪いので、何かしら質問は無いかと必死で頭を巡らす。
「あー、昨日の夕食の席で一番若いのは並んでいた3人……俺も含めれば4人か、だった様だが、あの屋敷に住んでいる同じ年頃のはあれで全部なのか?」
頭を絞った結果出てきたのはそんな質問だった。それでも向こうは何とか話のとっかかりを得たらしく、話し始める。
「そうだ、あそこにいる人間で私達と同じ年頃は私達三人だけだった。紅夜叉が十六で、操ちゃんが十四、そして私が十五になる。……多分」
「多分?」
「い、いや、なんでもない。それより君の方はいくつなんだ?」
「俺? 俺は十六……でいいはず……うん、十六だ。間違いない」
「そ、そうか。紅夜叉と同じだな。そういえば、昨日いきなり風呂場で揉めていたようだが」
「ああ、殺されそうになったな」
「相変わらず、加減を知らない奴だ。それにいつも操ちゃんに心配をかけているし、無茶ばかりするし、本当になんなんだあいつときたら!」
「ずいぶん気にかけてるんだな?」
「――君は大切な人が居るか?」
「大切な人?」
不意に思いもよらぬ問いかけをされた。イスカの方を見ると目を伏せ、少し沈んだ様な顔をしている。
「どういう意味で大切かは、君の解釈次第で良い。大切な人は居るか?」
「いや、居ない。居た事も無い」
「そうか、なら気が付いてないだろうが、大切な人が居ないというのはとても寂しい事だ。そして大切な人を失うのはとても辛い事だ。
だから、大切な人とのお別れが避けられないなら、せめて悲しいお別れでなく、笑ってお別れができる様にするべきなんだ」
その言葉は、今のジャンには到底理解できるものではなかった。
しかし、どちらかと言えば無口で、他人に無関心で、人付き合いが苦手という印象の、この少女からは想像もできないほど、その言葉には力がこもっているのがはっきりと感じられた。
「――あっ」
「どうした?」
「馬場に着いた、子爵様を呼んできてもらわないと」
なるほどいつの間にやら市外へと出て、木を組んだだけの牧場の入り口らしき所の目の前まで来ていた。
それほど話に熱中してはいないはずだが、街の正門をくぐった事にまるで気が付かなかった。
そういえば、昨日通った時も街をめぐる城壁などは見当たらなかったから、門と言っても飾り程度のもので、市街地の明確な境界線は無いらしい。
「ずいぶん広いな」
牧場ならば広いのは当然であるが、それにしても桁違いの広さだった。なにせ街道沿いに設置してある柵が、遥か見えなくなるまで真っ直ぐ続いているのだ。
「騎兵の軍事演習ができる広さらしい、どれくらい広いかは私も知らない」
「こんな所でどうやって人を捜すんだよ、馬に乗って駆け回られたら捕まえようがないぞ」
「それなら心配いらない、向こうに詰所があってそこに行けば捜してもらえる」
「なら、いいけど」
とにかく呆れる広さだ、詰所とやらまでも少し歩く必要があったし、その間見た限りでは牧場内に丘や森も点在している。
教えられなければ柵は街道の方を守るためのもので、こっちはただっ広い原野だと思うだろう。
「ん……」
「どうした?」
「運が良かった、皆ここにいるらしい」
言われてみれば詰所の建物の裏の方から、大勢の人の声や馬の嘶きが聞こえる。それに交じって時折、木を打ち付ける様な乾いた高い音も聞こえてくる。
◇
詰所の裏は訓練場になっている様だった。様々な設備やコースが綺麗に整備されていた。その一角に、騎乗して弓矢を背負った騎士達が集まっていた。
「中小国隊長さん、子爵様は居ますか?」
イスカが声をかけた騎士は隊長と呼ばれたにしては若い、年の頃30前後といったところだった。
男が言うのもなんだが、かなりの美男子だ。都の上流貴族の御曹司とかにいそうである。
「君は確か、若のところの子だったね?」
「はい、お弁当を届けに来ました」
「そうか、それは都合の悪い。いや、それとも良いのかな? ちょうど若の番なのだ」
その騎士が向いた方を見ると200m程の直線コースの端に、華やかな軍装を着て騎乗の人となり、弓を携えた子爵がいた。
コースの途中には三つの的が設置してある。馬で駆け抜けながらあの的を射ぬくのかと、何となくこれからなされる事が解った瞬間、子爵は馬を駆けた。
速い、子爵を乗せた馬は風の様に駆け、瞬く間に第一の的との距離が詰まる。
その僅かな間に子爵は矢をつがえ、こちらに背を向ける格好で向こう側の的を狙う。
的の前を子爵が駆け抜けた、一瞬遅れてあの高い乾いた音が響き渡る。目を凝らして的を見ると、子爵の放った矢は的確に的の中心を貫いていた。
それを確認した時にはもう次の音が聞こえていた。慌てて子爵の姿を追うと、既に次の矢をつがえ弓を引き絞っていた。
そして第三射――三度、的に矢が当たる音が響き渡り、全ての矢を放ち終えた子爵は手綱を引いて馬を止め、ゆっくりとこちらへと馬を歩かせてきた。
「お見事です、若。あの速さで全ての的の中心を射抜くとは流石安東家のご嫡男、流鏑馬の腕前はまさに天賦の才と言えましょう」
「つまらん世辞は止せ。流鏑馬など騎射の初歩、実戦で役に立つものでは無い」
「初歩とは言えこれだけの技を見せられれば、実戦での活躍も見込めましょう」
「お前たち騎兵はいつもそれだな、まあいい。それよりイスカとジャンは何の用だ?」
つい見入ってしまっていて本来の目的を忘れかけていた。
「銀華さんからお弁当を持ってきた、せっかくだから皆で食べなさいって」
「おう、そうか。丁度腹が減ったところだ、皆も休憩にしよう。誰か茶を持ってきてくれ、馬にも水をやろう」
子爵の一声にその場の騎士たちが一斉に馬を厩の方に連れて行った。
子爵は馬を近くの騎士に預けて軽装の甲冑を外し、草むらに直に座り込む。イスカもそれにならったのでジャンもそれにならい、三人で輪を作る形で座った。
馬を預けてきた騎士達もめいめい勝手に座り、汗を拭いたり、やかんに入れられた茶を注いで飲んだりしている。
「どれ、今日は何かな……。イスカに持ってこさせたところを見ると多分……」
「……オニギリ」
イスカが弁当の包みを解くと、中には結構大きいおにぎりが入っていた。心なしかイスカがうれしそうな気がする、子爵の発言と合わせてみるに好物なのだろう。
「お前達の分もあるのだろう? 遠慮せずに食べるといい」
促されるまでも無く、やっとありついた朝食なので遠慮なくいただく。結局、全く思いがけないお預けを食ったものだ。そう思いながら無造作に一つ選んでかぶりつく。
「ん? なんだこれ?」
酸っぱくてしょっぱい具が入っている。
「梅味噌か。私の好きなやつだ」
「梅味噌……?」
「梅干しの果肉を解して、味噌と混ぜ合わせたものだ。私が軍糧の研究で作ってみたら旨かったのでな」
「軍糧の研究って……」
「趣味だ」
「そ、そう……ですか……」
この人は見かけより変人なのだろうか? そんなことを思いつつ子爵から目をそらしイスカの方を向くと、こっちはこっちでおにぎりを夢中で食べていた。
「……ハグ……ハグ……、ゴクン」
「好きなんだな?」
「うん、米の味が解る塩オニギリも良いし、色々な具が入ってるのも好き、のりはパリパリがいい、風味も大事」
ものすごく幸せそうな顔で語っている。
「ところでお前達これからの予定は?」
「私は午後は鍛錬に充てるつもりだ、それまでは特には無いかな」
「俺も何も無い」
「ジャンの場合は何か予定を作らないとずっと無いだろう。と、言っても落ち着き場所探しに関しては、こっちの生活にある程度慣れてからという事になったし……。
そうだな、街歩きでもするといい。金は持っているか?」
「あると思うか?」
「まあ、そうだろうな。仕方がない、私から小遣いをやろう。お使いもしてくれたしな」
「俺はガキか」
「その発言が子供っぽいぞ……む、小銭が無いな、仕方無いこれでいいか」
子爵は財布とも言えない小さな袋を覗いて、中から金貨を一枚取り出して俺によこした。
「1アウレ?」
「街の北部が金融街になっている、そこで両替して来い。24デナリをつり銭として私か銀に返せ、後は好きに使っていい」
「手数料を引いたら俺の取り分が1デナリも無いんだが」
「弁当を運んだ褒美としては妥当なところだろう。要らぬというなら返してもらうぞ」
「いらないとは言って無い、もらえる物はもらっておく」
「賢明だな、常に正解とは限らぬ答えだが」
「あんたの物言いはいつもはっきりしないってのが解ってきたよ」
「含みを持たせていると言うのだ、私だってはっきり言うべき時ははっきりとものを言う。ただそうしない方が有効なときの方が多いと言うだけだ」
「まあ、いいや。とにかく昼まではこれで好きにさせてもらうよ」
「銀が心配するから、昼は帰るのだぞ」
「はいはい、解ったよ」
残りのおにぎりを茶で流し込んで立ち上がり、金貨をポケットに突っこんでこの場を去る事にした。どうにもやはり子爵と話しているのは苦手だと感じる。
「取り締まっているから両替手数料で吹っかけられる事は無いだろうが、怪しいと思ったらよその店に行けよ」
そんな子爵の言葉を背中で受けて、返事もせずに街へ戻ったのだった。
◇
街の北側、つまり中央の汽水湖と子爵家の館の建つ丘の間に当たる地区。そこは子爵が言っていた通り、卸しの大商人や商会の会館、それに銀行が軒を連ねる金融街になっていた。
そして銀行の前を中心に、あちらこちらで両替商が天秤やらレンズやらを並べて仕事をしていた。
しばらく注意して観察した結果、銀行前で商売をしている両替商はほとんどがその銀行の所属らしい事が客とのやり取りから解ったので、信用できそうだと判断して両替をしてもらったところ、手数料4セルスを引かれて24デナリと76セルスになった。
「自由にできるのは76セルスか、まあそこそこある方か?」
そんな事を独り言ちながら二十四枚の銀貨を用心してしまいこみ、手の中で十九枚の4セルス銅貨を弄ぶ。
通称をナミセンという日常で最もよく使う貨幣だ。ナミセンという通称は波型の文様が刻まれていることと、‘並’の二つの意味から来ていると聞く。
手の中で硬貨を落とさないように器用に弄びながら大通りを東に歩くと、すぐに正門前の地区まで来た。
百万都市だった帝都と比べると、格段に小さい町なのだという実感がする。しかし街のにぎわいは何度見ても帝都にも引けを取らないものがある。
不思議な街だと思う。人が多い、単純な数や密度なら帝都の方が格段に多いはずなのに、帝都よりも人を意識する。
道行く一人一人に存在感があると言っていいかもしれないが、それが何に起因するのかはよくは解らない。
難しい事を考えるのは止めて金を使うことにした。まず目に付くのは季節柄か露店で売られている食べ物の数々だ。茹でトウモロコシ一本10セルス、片手で握れるサイズの小振りなリンゴ一個2セルス、それなりに魅力的だが、さっき遅い朝食にありついたばかりではいまいちそそられない。
食べ物は止めて他の物を探そうとしたが、欲しい物など何も無いので、ただ店先で冷かしているだけになる。
思えばまともな買い物すら自分はした事が無かったのではないか? 自分は本当にただの駒としての人生を歩んできた事を実感する。
店先の商品から目をそらし次の店に行こうかと振り返った瞬間、思いもしなかった物が目に入った。
その女性はどこかの商家の奥様だろうか、顔をよく見ると皺がある程度の年齢でやや肉が多い。なにか祝い事でもあるのだろうか、美しい着物を着ている。その着ている物を知っていた。
なめらかで光沢があるあの生地は間違いなく絹だ、厚手の絹地に金銀の糸で複雑にして美麗な模様が縫われている。
間違いでなければ、あれは都の特産である朱珍の織物だ、都の一流の職人の手による超高級品の衣服のはずだ。
そして、つい最近までジャンが金持ちの家に盗みに入るときに真っ先に狙う品々の一つでもあった。
それをこんな北の辺境で着ている人がいる、そしてそれが特別人目を引いている風でもない、つまりは珍しくないという事か。
まさか、という思いともしや、という思いを同時に抱えたまま布地を売っている店を探し回った。
ようやくシュナイダー商会という看板を掲げるそれらしい立派な構えの店を見つけ、意を決して中に入る。
およそ客とは思えぬ不釣り合いな来訪者に店員がうさん臭そうな視線を向けてきたが、お構いなしに商品を見まわした。
あった、それも一つや二つではない。繻子の布地、朱珍の服、白く輝く絹の緞子、絢爛豪華な金襴の布地、どれもこれも帝都の一流の品ばかりだ。
値段の方も当然のように5アウレ6アウレといった値札が並んでいる。一家が30日は生活できる金額だ、一人で暮らすならその倍は生活できるだろう。
ここには富がある、この北の辺境であるはずの土地には都産の最高級品が並び、それを買い求める者がいて商売が成り立つほどの富がある。
それはこの地を治める安東子爵家に、それ相応の力があるという事でもある。
◇
結局1セルスも使わないまま日が中天に昇る頃となったので、屋敷に帰ってきてしまった。
流石に使わなかった金まで返せとは言われないだろうから、76セルスはもらっておくとして、24デナリの方は返さなくてはならない。
相変わらず厳めしい屋敷の戸をくぐって中に入ると、すでに中庭の傍らや縁側に座って昼食をとっている者も居た。
「おう、おかえり」
「え、あ……ただいま」
突然、おかえりと言われて面喰ってしまった。今までそんな事は言われた事は無かった。いや、むしろこれが普通なのだ。
「えっと、銀華さんは?」
「ん? 姉御なら台所だろう」
「そ、そうか、えっと、ありがとう」
ぎこちなく本来普通な日常会話を何とかこなすと、真っ直ぐ台所に向かう。そこには今朝――といっても2、3時間前――と同じ姿で銀華が忙しそうに働いていた。
「あら、おかえりなさい。お使いご苦労様」
「あ、どうも。えっと、これ子爵から預かった金で、子爵か銀華さんに返す様に言われてます」
「ああ、お駄賃の余りね。イスカちゃんから聞いてるわ、儲けたわね」
そう言って銀華は俺が差し出した24デナリを受け取る。
「ちょっと待ってね、お昼にうどん茹でるから」
「あ、ありがとうございます」
この人はやはり忙しそうなのにとても生き生きしている。働くことが好きなのだろうか? それとも別の理由があるのだろうか?
別の理由と言っても想像もつかないが、とにかく何かあるのだろう。そんな事を考えながら後姿を眺めているうちに、本当にあっという間に出来上がったうどんが盆に載せてジャンの前に置かれた。
「はい、ここはちょっと忙しいから別の場所で食べてね。食べ終わったら器はそこの流しに置いておいてね」
「あ、はい」
なんだかこれしか言ってない気がする。だがとにかく受け取ったうどんを持って、どこか適当な場所を探そうかと思ったところで気が付いた。
うどんに見たことも無い黄色いものが入っている。なんだこれは。
「えっと、あの銀華さん、この黄色いのは?」
「あ、それは菊の花のお浸し。私もこっちに来て初めて食べたのだけれどおいしいのよ」
「菊の花……ですか」
食べられるものなのか。いや、食べられなくはないけれど食べるものなのか。しかし、思い付きで入れた訳でもないようなので、この地方特有の食べ物なのだろう。
そう納得すると俺はうどんの乗ったお盆を掴み、適当な場所を探して座り込んだ。
菊の花は少し苦いような、ちょっと酸っぱいような、そして香り高いような不思議な味だった。
昼食を食べ終わったら本当に何もすることが無くなってしまったので、昨日夕食を食べた広間で仰向けに大の字になっている。
中庭に面した戸が全て開け放たれ、吹き込んでくる秋風が心地いい。しばらく何も考えず、そのまま風が肌をなでるのだけを感じていた。
作中の通貨は、ナミセンこと4セルス=100円程度のイメージで設定しています。