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流刑人形の哀歌  作者: 無暗道人
海ゆかば
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1

 (もや)が立ち込めていた。

 半島である安東(あんどう)家領は霧や(もや)が多い。特に海も温かくなる夏は、海から湧き上がる湿り気が夜の冷気に冷やされて、夜霧朝靄(あさもや)が毎日の様に立つ。

 それほど濃くは無いとはいえ、街の中でも真っ直ぐに通る大通りの向こうが白く(かす)んでいる。

 そんな朝靄(あさもや)の中を、まるで晴れた日の様に悠々と船が出港する。彼らにとって視界1㎞以上ある(もや)など、無いに等しい。

 灯台の灯りさえあれば、濃霧の中でもこの辺りの海ならば航行できる。

 全部で六隻の艦隊だった。いずれも帆と(かい)を共に備えた船で、二隻は二百トン級の大船、四隻は百トン級の中型船だ。

 どの船も星を追う鷲の紋章の旗を掲げている。安東家の艦隊が、(あさ)(もや)の中静かに航海を始めた。


 ジャンにとっては人生二度目の船旅だった。

 一度目は去年の事で、貨物船に忍び込んで密航したら海賊船に囚われ、そこからさらに安東家の艦隊に救出されるという波乱に満ちたものだった。あれからもうすぐ一年が経つ事が信じられない様な気がした。

 流石に今回は落ち着いた船旅になるだろう、なんといっても正式な安東家の艦隊なのだ。海賊などはむしろ餌食にしてしまうだろう。

 旅程もはっきりしている。ウトの街を出港し目的地のシオツチの街まで三日、風さえ良ければ二日で着くという。

 船の同乗者も気心の知れた者達だ、当主安東高星(たかあき)以下親衛隊が同じ船に乗っている。一応、この船が旗艦と言う事になるだろう。当然、二百トン級船の片方である。

 出港からしばらくは船室で待機していた。入出港時は色々と騒がしいので、船乗りで無い乗船者は船室待機を命じられていた。

 船室は狭いと言えば狭いが、ジャンにしてみれば十分余裕のあるものだった。もっと狭い部屋に鮨詰めにされて過ごした事もある。

 落ち着いた頃を見計らって甲板に出た、目当ての人物は船の舳先で剣を杖の様に突いて屹立(きつりつ)していた。


「棟梁、そんな所に居られましたか」

「ジャンか。見ろ、海は広いだろう」


 船の行く手には陸地は無く、前方には水平線の彼方まで海が続いていた。


「海では、水面からでも3㎞向こうまでは見える。見張り台に立てば、それこそ世界の果てまで見える様な気がする」

「海がお好きですか?」

「好きだ。だが海と言うよりも、広々とした所が好きなのだろう。草原を馬で駆けるのも好きだし、鳥の背に乗って空を飛べたらと思う事もある」

「何が良いんでしょうか。俺は、広いけど何も無い事が、不安にもなります」

「見渡す限りの世界がある。見渡す限り、道が開けている。そう思える事かな。だが本当の理由は違うかも知れない。私自身、良くは解らん。解らんが好きだ。好きはそれでいいと思う」

「この海の先に、道が開けますか?」

「解らん。解らんが、開ける様な気がするし、開いて見せようとも思っている。思えば、曾祖父も海の向こうに道が開けると信じたから、海に出たのだろうな。そしてみごと開いて見せた」

「そして棟梁も開いて見せる訳ですね」

「私一人ではないさ。誰だって、何かしらの方法で道を開こうとしている。祖父と提督は、戦う事で道を開いた。私は、今はとにかく足掻いている様なものかな。

 ……忌々(いまいま)しいが、ジョバンニの奴も今頃道を開いたのだろう。今思えば、現状を守る事に汲々(きゅうきゅう)として、自ら道を開こうとしなかった事が、父の駄目なところだったと言えるか」

「俺も道を開こうとしていると言える自信がありません」

「お前はまだいい。お前はまだ旅支度をしている様なものだ。いつまで経ってもそれすらしない者が恥じるべきで、支度の遅い者が恥じなければならない理由は無い」

「他の皆も、道を開こうとしているのでしょうか」

「皆自分の進むべき道を見つけている。ただ(べに)夜叉(やしゃ)の様に、否応無く生きる道を決められた者は幸福とは言えまい。だからと言って不幸とも言い切れないだろうが」

「俺は、どんな道を開けばいいんでしょうか」

「その答えか手掛かりが、この航路の先にあるかもしれんぞ? 人生一分一秒これ全て学問と心得よ」

「全て勉強だと心得ていれば、道を開ける人間になれますか?」

「保証はできないが、そう心得て生きる人間の実例は目の前に居るぞ。まあ多少つまらない知識が多すぎて、非効率かもしれんがな」


 そう言って高星は大きく笑った。笑い声が、果てしない空と海に吸い込まれていく様だった。


     ◇


 イスカが目を輝かせて海を見ていた。船に乗った経験はジャンと大差無いという事だったが、ジャンよりもずっと初々しい反応を見せていた。


「凄いな、迷子になってしまいそうだ」

「確かに広くて目印も無いが、陸は見えてるだろう」

「陸が見えていても私にはここがどこだか解らない。それが解る船乗りさん達は凄い」

「言われてみれば確かに、陸が見えてる所を行くのだから迷ったりはしないと思ってたが、ここがどこだかは解らないな」

「それだけじゃない、船乗りさん達はまるで見えているみたいに風を(つか)む」

「それは解るな、棟梁も伝馬(てんま)(せん)を操るときは風をすぐに(つか)んでいた」

「見えないものが見える様になれば、世界の景色は違うのかな」

「どうだろうな。でもやっぱり違うんじゃないか?」

「……いや、確実に違うはずだ。だって知らなかったもの、解らなかったものが解った時、世界の景色は一変した」

「何を知ったんだ?」

「大事なものを、色々」

「ふーん」

「その様子じゃ、君はまだ解っていない様だな」

「そんな事解るのか?」

「初めて会った時、君は大事なものは無いと言っていた。あの時の反応と変わってない」

「なるほど。確かに大事なものと言われてもいまいち俺には解らない。

 棟梁に付いて行って、棟梁の役に立って、その先にあるものを見てみたいという自分の意思はできたけど、大事なものかと言われると少し違う気もする」

「私も上手く言葉には出来ないけど、大事なものと言うのはこう、胸に熱い感じがするものだ」

「うわっ、小っ恥ずかしい」

「う、うるさいな! 事実そうとしか言えないんだ、仕方ないだろう!」

「解った解った、悪かったよ。俺が本当に大事なものとやらを理解できたら、からかったりせずに真剣に考える様になるのかね」

「知らない」


 これは完全に機嫌を損ねたなとジャンが苦笑いをする。


「イスカさーん! ジャンさーん!」


 (みさお)だった。板張りの甲板をとてとてと鳴らしながらこちらへ来る。


「操ちゃん、何かあった?」

「釣りができるそうなので、一緒にどうかと思いまして」

「釣りか、まあせっかくだし行ってみようか」

「君は釣りの経験があるのか?」

「いや全然。イスカは?」

「私も無い」

「まあ、そこは適当に。初体験と言う事で」

「そうだな、せっかく海に出たんだから色々やってみるか」

「船尾の方だそうです。さ、行きましょう」


 船尾に行くと既に紅夜叉が釣り糸を垂れていた。釣竿その他一式は備え付けが置いてあり、自由に使って良い様だ。


「紅夜叉、お前釣りができたのか」

「まともな釣りは初めてだが、飯の確保にやった事はある。糸は木綿糸で、重りは石、針は釘を曲げたものだったな」

「釣れるのか、それ?」

「案外行けるものだ。もっとも、淵に岩を放り込んだ方が早かったが」

「もしくは私が突いて獲るかでしたね。自分で言うのもなんですが結構うまいんですよ」

「操ちゃん反射神経が良いからね」

「いえいえ、皆さんには負けます」


 人外の域に入っている紅夜叉や、魔力による強化のあるイスカと比較するのもどうかと思うが、いちいちそんな事を言ってもしょうがないので気にせず仕掛けの用意をする。釣竿は糸巻器(リール)が付いた上等な物だった。


「餌は何だ?」

「魚の切り身ですね」

「なるほど、釣り餌にしなかったら食事になって、釣り餌にしたらおかずが増える訳だ」

「つまり私達が無駄使いするとおかずが減る」


 イスカが冷えた声で言う。


「プレッシャーを掛けるなよ。気楽にやらせてくれ」

「仕返しだ」

「さっきの事根に持ってやがったか」


 針に餌を付け海面に放る。低い水音がした後はひたすら待ちである。


「うーん、ただ待ってるのも結構きついな」

「獲物を狩るときはいつまでも待つものだ。先に動いた方が負ける」

「実際罠を仕掛けてあとはひたすら我慢って事は多いですからねぇ」

「その待ちの時間が良いのだ、天地に自分一人だけがある事を感じ、一人で己を見つめていられる」


 高星だった。


「どうだ、釣れるか?」

「いえ全然」

「まあよくある事だ。私も昔は時々やったものだが、今は船上でもやる事が多くてな。むしろ新しく手掛けたい事が次々湧いてくる」

「これ以上仕事を増やす気ですか」

「敵は巨大だ、死ぬ気で思いつく限りの手を尽くさねば勝てん。まあこの海ほど大きくは無いがな」

「そうですか」


 ここまでくるともう、ジャンには(あき)れる事しかできない。


「ところでジャン」

「なんですか」

「引いてるぞ」

「えっ? うわっ!?」


 竿先が海面に向かって引かれる。慌てて竿を立てたが魚の姿も浮かんでこない。軍船から垂らした糸が長いのでその程度ではあげられないのだ。


「何のための糸巻だ、早く巻け」


 言われて思い出した様に糸巻を巻く。魚影が見えてきた。それ程大物ではないがそこそこの大きさの様だ。


「水面から抜く時が一番逃がしやすいぞ。一気に上げろ」


 ジャンは船縁に足を掛けて、根菜でも引き抜く様に一気に引き抜いた。勢い余って尻もちをつく、一拍置いてナマズの様な魚が甲板に揚げられた。


「おお、いいのを釣り上げたな。今夜は平均汁か」

「平均汁?」

「こいつは身が柔らかくてすぐ崩れてしまう。だから汁物にすると身が解けて、全員に平均に具が行き渡る。だからこいつの汁物は平均汁と言う。旨いぞ」

「それはそれは」

「ま、一匹だけ汁物にしても有るのか無いのか解らなくなるから、頑張ってもっと釣ってくれ。期待してるぞ」


 高星はジャンの背中を強く叩くと船室の方へ戻っていった。残されたジャンは、げんなりとした顔をしていた。


「またプレッシャーかよ……」


 その後、日没までに四人での釣果は三匹。汁物はそこそこの味だった。


     ◇


 女神が居た。

 この船に乗るときは居なかったはずの、美しい女性が甲板で風を受けていた。

 夏の雲のような純白のワンピースドレス、遠目にはドレスとの境界が解らなくなりそうな白い肌、長い銀髪が眩しく輝いて揺れ、日除けに大きな(つば)の帽子をかぶっている。

 思わず息を飲み、声の出し方も忘れたかの様に言葉が出ない。

 この船に乗っている全員を知っている訳ではもちろんないが、どう見ても船乗りでは無く、船乗り以外でこの船に乗っているのはほぼ全員が親衛隊のはずである。だがこんな人は知らない。

 しかし不審者と言うにはその姿はあまりに美しかった。


「おや、ジャン。そんなところで何を突っ立っている」


 女神がこちらに気付き、ジャンの名を呼んだ。その声は確かに聞き覚えがあったが、頭が(しび)れた様に働かない。


「……ひょっとして私が解らないか?」


 女神が顔を寄せてくた、紅い目をしている。ようやく回転が鈍った頭でも理解が追い付いてきた。


「……エステルさん?」

「そうだ。あまりの違いに解らなかったか」

「ええ、まあ……。その恰好は初めて見ました」

「流石にいつもの格好では暑いからな、少し涼しい服に着替えた。……変か?」


 確かにいつものエステルの格好は露出が極端に少なく、色もほぼ黒一色なので夏場は暑いだろう。船の上では海面の照り返しもあるのでなおさらだ。


「よく……お似合いだと思います」

「そうか。銀華殿が選んできたときは恥ずかしいと思ったが、今は自分でも悪くない様な気がしているよ」

「……日差しが苦手なんですか?」

「正直に言うと、多少苦手だ。こんな夏の晴れた日の、しかも船の上と言うのは流石に応えてな」


 すでに第11節である。まだ夏はこれからが本番ではあるが、良く晴れた日は流石に暑い。

 航行する船の上は常に一定の風があるからこれでもましな方であるが、それでも軽く汗ばむ程度には暑い。


「えっと……あまり気にされてない様で、良かったです」


 エステルの実父は吸血鬼である。それが彼女の人生に暗い影を落とし、彼女自身の身体にも影響が現れている。

 すでに折り合いは付けていると言うが、全く気にしないでいられる訳でも無い事は知っている。


「この程度の事は何でも無いよ。それに日光に弱いというならば、私より高星だ」

「棟梁?」

「私よりよほど直射日光に弱くて、船室でへばっている。朝に弱い上に昼は閉じこもり、夕方から夜にかけて出てくる生活だ。どちらが吸血鬼やら」

「今日はまだ棟梁を見なかったのは、そういう事だったのか」

「寒さに関しては平然としているから、典型的な北国人間なのだろう。銀華殿が付いているから心配は要らないが、あまり他の者に見せられたものでは無いな」

「ごもっとも」

「……私も戻るか。君もあまり甲板に居すぎない方が良いぞ、日陰の一つも無いからな」

「気を付けます」

「まあ短い旅だ、それ程気にする事も無いだろうが、長い航海ではほんの些細な事が命取りになる事もあるらしい。その道の者の言葉には素直に従っておく方が良いだろうな」

「棟梁が一緒なら大丈夫でしょう。棟梁は船での戦いも経験も多いのでしょう?」

「まあそうだが……今の高星は正直頼りない気もするな」


 エステルが笑って言う。輝く様な笑顔だった。


「でも棟梁なら何かあれば……例えば前方に海賊船でも見つければ、飛び起きて来て指揮を執るんでしょうね」

「そうだな、それが高星と言うものだろうな」

「はい、それが俺達の棟梁だと思います」


 今度はジャンも一緒になって、二人して明るく笑った。


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