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久しぶりに下屋敷に入った。
銀華と二人きりになれる時間と言うのは、当主になってから激減したと言って良い。おそらくこれからさらに減る事はあっても、増える事は無いのだろう。
「高星、お茶」
「ん」
「昨日、花が咲いたら皆でお花見に行きましょうってジャンと話したわ」
「花見か……悪くないな、どうにか時間を作ってみようか」
静かに茶を啜る。やはり、銀華の入れたお茶は格別だと思う。
「時が過ぎるのは早いな。近頃特にそう思う」
「あら、急に年よりくさい事なんか言って。老け込むには早すぎるんじゃない?」
「いや、そうじゃない。当主になって、自分の思い描くものを形にしようとしてみて、初めて思ったんだ、時間が足りないって。
何もする事の無い時間を、ただ埋めるために何かをしているときは、あんなに時間と言うものが長かったのに、何かを為そうとすればあまりに時間が足りないと思う。
やめておけばいいのに、この調子だと変州を制圧するのに一生かかると計算して、自分の為したい事はその先にあるのにと無駄に焦る」
「焦っても良い事なんか無い。解ってるんでしょ? だから、こうしてゆっくりしていられる」
「……そうだな。兵に休息を取らせる事に気を使っていながら、自分が休み無しでは何も見えていない。今は、こうしていよう」
「……ねえ、高星」
「なんだ?」
「このお屋敷、ちょっと殺風景だと思わない?」
「この屋敷を建てたときは、まだ花を愛でる余裕なんてなかったからな。……そうだ、東西南北に季節の木を植えよう。
東には春の花を咲かせる木を植えて、西には紅葉、北には冬でも青々とした松を植えて、南には……夏の木は、何が良いだろうか?」
「南は、草にするというのはどうかしら? その方が日差しも入るし」
「うーん、南だけ草と言うのも統一感に欠ける様な」
「まあ、ゆっくり考えましょう。ゆっくり考えて、その間はお休み。それでお休みが作れる」
「何もしないのが休みでは無く、寄り道をするから休みか」
「人生の寄り道というものね」
「銀こそ、ちょっと年寄りの説法臭いぞ」
「私は人生の密度が濃いですから」
「私はスカスカか?」
「高星も密度は濃いわ、でも余計なものが無さすぎる。当主としては良いけれど、人生には余計なものが必要なのよ」
「そんなものか」
「そんなものよ」
そこで一度会話が途切れた。二人で肩を並べて春の風を頬に感じ、柔らかな春の日差しに目を細め、時々思い出した様に茶を啜る。
何かを考えるという事は無かった。ただこうしている事が、この場の空気がただ心地よかった。
「なあ、銀」
「なに?」
「私は幸せ者だ。私の幸せがここにある。私の望むものは、安息の時は今ここにある」
「そう。でも戦い続けるし、その先に創りたい世界があるのでしょう?」
「人間としての幸せはもう全て手に入れたと思っている。全てと言ってもお前だけだが。それとは別に男としての幸せや、アラハバキの棟梁としての幸せと言うものがある。それはこれからようやく追い求められる」
「それが聞けた事が、私には十分な幸せよ」
銀華が口にした『幸せ』と言う言葉に、ふとした疑問を抱いた。
「……なあ、銀。過去の幸せを忘れる事無く、かと言ってそれに苦しめられる事も無く、今の幸せを得られるものなのか?」
「どうかしらね。失ってしまった過去の幸せが、傷跡にならずに胸に残り続ける事は、出来ないのかも知れない」
銀華の声が、目が、深い憂いを含む。
「でも、失ったものは戻らなくても、今の私にはあなたが居るわ。胸の痛みは消えないけれど……」
銀華が、高星に抱きついた。背中に回した両手が、痛い程に締め付ける。
高星は一瞬面喰ったが、すぐに最初からそうするつもりだった様に、強く抱きしめ返した。
「ほら、あなたがこうして私の傷跡を塞いでくれる。少なくとも、こうする事が出来るうちは、私は辛くは無いわ」
「私がお前より先に居なくなってしまったら? いつ戦場の骸となるか知れない身だぞ?」
「させないわ。例えどうにもならない事が相手だって、必ず私が、この手で、今度こそ、守るから」
「無茶を言う」
「何とでも言えばいいわ。……ねえ、高星」
「なんだ?」
「愛してる」
それは恋ではなく、もしかすると男女の愛でも無く、傷を負った者同士だけに通じる言葉であったかもしれない。
◇
屋敷の管理を任せている女中が来たのが、強く抱きしめ合っていた二人が離れてからでよかったと思った。あれは余人には見せたくはない。
「何の用だ?」
高星は内心不機嫌だったが、そんな事は微塵も面には出さない。
「工廠の方がお見えだそうです。殿がお呼びになったと」
「工廠? ……あー、そうか。確かに私が呼んだ。何時でも向こうの都合の良い時で良いから、早めに来てくれと頼んだのだった。通せ」
「はい」
すぐに工廠の責任者が通されてきた。流石に申し訳なさそうな顔をしている。
「お休み中であったのならばご遠慮いたしましたのに……」
「良い。いつでもそちらの都合の良い時で良いと言ったのは私の方なのだから。それよりも武器の補充で忙しいときに早く来てくれたものだ」
「それはもう、殿のお呼び出しとあれば」
「早速本題に入ろう。剣が一振り欲しい」
「剣でございますか」
「戦場で我が命を託すに足る、決して折れず良く切れる名刀が欲しい。領内の職人を残らず当たって、最高の一振りを用意して欲しいのだ。
材料となる鉄や、費用についてはその職人の望むがままの物を用意させよ」
「期限は何時まで?」
「私が死ぬ前に出来上がればよい」
「解りました。早速出入りの職人に当たって、腕のいい者を捜させます」
「頼むぞ」
「はっ」
退出する工廠長の背中を見送って、見えなくなると高星は大きく息を吐いた。
「やれやれ、油断も隙も無いな。自らの招いた事ではあるが」
「自分からこうして安らげる時間を減らしていたら当然よ」
「今でもまだ足りない、もっと時間が欲しいと感じているのだがな」
「何もかも全て自分一人で完結させようとする悪い癖は直らないわね」
「三つ子の魂百までと言うだろう。人間そう簡単には変わらんし、軽々に自分を変える者は信用ならん」
「過ちて改めるのにはばかるなかれとも言うわよ?」
「うっ……まあそうなのだが」
「難しいわね。相反する二つの事がどっちも正しくて、それなのに相反するから二つ同時に行う事はできないなんて」
「そうだな。何でも貫ける矛と、絶対に貫けない盾は同時に存在しないというが、実際は存在している。そのぶつかり合いが争いを生む。
世を動かしているとも言えるから、悪い事とも言い切れないが」
「高星がやろうとしている事も、矛盾のぶつかり合いかしら?」
「だな。私の前に立ちふさがる者にもそれなりの正しさがある。いや、むしろ私の方が少数の異端者か。だがどんな理屈が有ろうとも私に、我々に理不尽を強いるものを黙って受け入れられはしない」
「そしてまた別の理不尽を強いる事になる」
「そうだな、私の敵になった者達は理不尽に殺される事になるのだろう。これは死んだら間違いなく地獄行きだな、どうという事はないが」
「地獄ならもう見た?」
「この四百年ずっと、そして今もまだ見ている」
「自分の生き方、自分のする事の指針をどこに置けばいいのかしらね?」
「自分に置けばいい。自分にとって自分自身が全てだ、それしか持てないのだから。
誇りを胸に己を尊び、ただ己の力を信じて進めばいい。より高く、より強く、より誇れるところへ向かって」
「男はみんな誇りに生きたいのかしら」
半ば呆れた様な言い方だった。だがそこに嫌なものは感じない。
「さあな。他人がどう生きたいかなど解るはずもない。だが誇りの無い生き方は惨めだし、だからこそ誇りを奪う様な事は残酷で許しておけないと思う」
「迷惑な夢ね」
「そう言って女は男から誇りを奪う。残酷だな」
「そうしないと男は見えない物ばかり見て現実を見失うでしょう? ひっぱたいて引き戻さなくちゃ、そのうち死んじゃうわ」
「そうして死ぬならば、それもまたよし」
「ほら、そういう事ばかり言うからよ。全く手がかかるんだから」
「解った解った私の負けだ、お前には敵わん」
「百万の軍勢は滅ぼせても、一人の固い決意は滅ぼせませんから」
「小賢しい事を言う」
「賢い女は嫌い?」
「出来過ぎた女は女として見られなくなるぞ」
「それはエステルちゃんの事かしら?」
「そうだ、あいつは女ではない。同志だ」
「……あの子も女の子なんだから、偶には思い出してあげなきゃだめよ」
「そうして女として扱われる事を、本人が拒んでいる様にも見えるがな」
「そう思って生きるしかなかったのよ。だからこそ、女の子だって忘れてあげちゃだめよ?」
「それはお前が覚えておいてくれればいい。私は本人が望まぬ限り、扱いを変える気は無いし、変える事もできん。今更あいつを女とは見れん」
「あなたは本当に、エステルちゃんに限らず女性を女性として見て無いみたいね。その分一人の人間として見ているみたいだから、あまり強い事も言えないわ」
「それでいいだろう」
「お嫁さんとかどうするの?」
「考えられないな」
「当主になったのだから、後継ぎの事も考えないと皆が困るわよ」
「まあ……そのうち力関係を考えて嫁を貰うさ」
「打算しかないのね」
「中小国の様に女遊びでもすればいいのか?」
「それも違うと思うけど、少しはさせてみた方が良いかしら」
「余計な御世話だな」
「自分で言った事じゃない」
「失言だったな」
「取り消しは利きません」
「小言は勘弁して欲しいものだ」
「私以外に小言を言う人も居ないでしょうに」
「良薬は口に苦けれど病に利あり、忠言耳に逆らえど行いに利あり。だからと言って苦いのが平気な訳じゃない」
「……あなたはどんなに苦くても、弱音の一つも吐かずに飲み下して進むのね」
「銀の前では、いつでも弱音を吐いて良いのだろう?」
「もちろん」
「なら、大丈夫だ。弱音を吐ける場所があると思うと、弱音自体が出てこなくなった。もう無理して弱音を飲み込む必要も無い」
「そう、それは寂しいわね。もう少し、頼りにしてくれてもいいのよ?」
「……なら、ちょっと肩を貸してくれ」
高星が寄りかかる様にして銀華の肩に頭を乗せる。
「このまま少し、寝かせてくれ」
「ええ」
日差しが、少しずつ傾いていた。夕暮れ時になればまだ冷える、冷えてくる前に起こしてあげよう。高星の横顔を見ながら、そう銀華は思った。




