5
薄闇の中に、空を切る低い音だけが響く。
夜明け前の山は静かだ。獣は眠りにつき、鳥はまだ目覚めないでいる。
紅夜叉は上半身を肌脱ぎにして、こん棒の様な木刀を振っていた。握りの部分以外は腕よりも遥かに太く、真剣より倍は重い。
少し前から起き上がれるようになり、すっかり鈍った体を鍛え直していた。木刀を振るなど、初めての事だ。
拾われて手当てを受けてから、百日は経った。正確に数えてはいないが、多分そろそろ第19節に入る頃だろう。山はとうに、秋も本番だった。
百回ほど木刀を振ると、大粒の汗が流れ、腕が辛くて堪らなくなった。情けない事だが、鍛え直し始めてまだ十日目だ。やむを得ない事だろう。
木刀を置き、汗を拭くと水汲みに出た。水汲み桶を持って、洞窟に入る。奥瀬一族の者が、『龍のねぐら』と呼んでいる深い洞窟だ。
入り口は狭いが中は広く、明かりが灯してある。洞窟の中に小さな小屋まで建っている。そして夏でも薄着では凍える程に寒い。ただ秋になっても、洞窟は夏と変わらぬ空気が漂っていた。冬はむしろ、外よりも暖かいのかもしれない。
だがそんな事よりも、最も驚いたのは洞窟内の地底湖だ。いや、流れがあるので地底川と言うべきかもしれない。
初めて見たときは、目も眩む様な深い谷間かと思った。目測で、百メートルほどの深さはあると見た。しかしすぐに、足元から背丈分くらい下の所に、水面がある事に気付いた。
恐ろしく透明な水。百メートルの深さがあっても、全く視界を遮らずに水底を見せる水が流れていた。洞窟内に漂う冷たい空気も、この水が発していたものだ。
井戸の代わりにこの水を毎日汲んで使っているという。水の味など気にした事は無かったが、この水を飲んだときは、美味いと感じた。水を美味いと思ったのは、初めての事だ。
屋敷の敷地内に井戸を掘らないのは、下手な事をして、この水に悪影響が出る事を避けるためかもしれない。それに、山で生きる身にとって、水汲みにも出られないほど足が弱る事は、死と同義だろう。
洞窟の水を汲み桶に入れる。普通、担ぎ棒の前後に一つずつ桶を付けた物を使うが、紅夜叉は桶を二つずつ付けた。それを二つ。計八個の桶でまとめて水を運ぶ。多少厳しいが、これも体を鍛え直す一環だ。
「紅夜叉様、また無茶をなされて」
娘の声がした。似てはいないはずなのに、なぜか操の事を思い出した。
奥瀬一族の娘、御言が桶を一つ持っていた。三兄弟の下の娘で、おそらく十六か七、操と同じくらいの歳だろう。
起き上がれないでいる間、兄弟と交代で世話もしてもらったが、特に覚えている事は無い。
「無理のない事をしていては、いつまでも体は元に戻らん」
八つの桶に水を一杯に汲んだ。その横で、御言も桶に水を汲む。
二本の担ぎ棒を肩に当て、持ち上げた。少しやせて肉が無くなった肩に、担ぎ棒が食い込む。持ち上げる時に、少し奥歯を食い縛ったのが不愉快だった。
少なくとも表向きは何でも無い様な顔で水を運んだ。本当はバランスを崩すと、持ちこたえられるか解らない。御言も両手で一つの桶を持って、いかにも重そうに運んでいた。
洞窟を出ると、朝日が昇っていた。闇を抜けた。柄にもなくそんな感傷的な事を思った。最近、柄にもない事を良く考える。
◇
ひたすら木刀を振っているのも飽きる。手の空いている者に立ち合いを頼む事もあるが、いつも都合良く誰かが居る訳も無い。
足腰を鍛えるという名目で、山を歩く事を好んだ。だが付近の山は、知らぬ者が迷いこんだら出られないと言われている。実際、侵入者を惑わす仕掛けがそこかしこにしてあった。おそらく、気付いてない仕掛けがまだある。
屋敷の近くは仕掛けも少ない。何度か歩いて見て仕掛けを見抜いたので、散歩のつもりで歩き回っている。
だがもっと激しく山野を駆けようと思えば、奥瀬の次郎家通に同行して、狩りをするのが一番良かった。
「お前、狩りをした事は?」
「ほとんど無いな」
蒼州に居た頃は、大型の獣と出くわす事はほとんど無かったし、ネズミの様な小さな獲物を追いかけ回すくらいなら、その辺に倒れている肉を喰らう方が早かった。
「ならとりあえず、俺の後をついて来い。静かにな」
家通が獣の痕跡を探しながら山を歩く。本来狩りは見通しが良く、足跡も残る冬にするらしい。木々の葉が落ちる前は、罠猟が基本だという。
ただ秋は、木の実などを食べに特定の場所に獣が集まるから、冬ほどではないが狩りになるらしい。
家通の歩みはゆっくりとしたものだったが、道の無い山の中を歩くのは、十分体を鍛えられる。地面が僅かに傾斜していて、長時間歩いているだけでも、きつくなってくる。
「お、ここは当たりだ」
「何かあったか?」
「これが何か解るか?」
家通は小さなトウモロコシの芯のような物を渡してきた。身が付いていても、多分握りこぶしよりも小さいだろう。
それだけでは何か解らなかったが、周囲に落ちている物と、それが落ちていた場所に生える木で見当がついた。
「松ぼっくりか、これ」
「リスが松ぼっくりを齧った跡だ、リスは松林が好きだからな。ここに罠を仕掛けておく」
「リスって美味いのか?」
「美味いぞ。基本的に木の実を食べる獣は、脂がのってて臭みもあまりない」
「そうか、なら」
紅夜叉が腕を振った。木の上から何かが落ちてくる。小柄が突き刺さったリスだった。
「とりあえずこれで一匹」
「見事なもんだ。樹上のリスを見つけて、一発で仕留めるなんて」
家通が目をむいている。
「狩りは初心者だ。しかし、目と腕はまだ鈍ってないようだ」
「おっかない男だ。しかしせっかくのリスも、一匹だけじゃな」
「リス狩りはできないのか?」
「リスの様な小さな獣を追いかけ回しても、割に合わないだろう? 大抵は罠さ。その辺に適当な丸太が落ちてないかな?」
周囲を探して、ふくらはぎくらいの太さの丸太を見つけた。枯れた枝が落ちて来た物のようだ。
家通は凧糸くらいの糸を取り出して、見かけによらず器用に仕掛けを作り始めた。糸の先端に小さな輪を作り、その輪に糸を通して大きな輪を作る。それを丸太に幾つも結びつけた。
「それをどうするんだ?」
「こうやって松の木の幹に立てかける。リスも楽に登れればそっちの方が良いから、罠の方を通る。すると輪っかに頭を突っ込んで輪が締まって……」
「首つりか」
「そう言う事だ。とりあえずここはこれで良いだろう。しばらく他を探して、帰りにリスが掛かったか見に来る」
松林を後にして、また山の中を進んだ。
「鹿か猪でも居ないものかね」
「奴らは植物なら何でも食うからな。これと言った場所には集まらねぇ。猪は水場が好きだが、警戒心が強くて狩るのは難しいな」
「都合良く大物には出会えそうにないか」
「大物か。いっそ熊でも狩るか」
「狩れるのか?」
「任せろ。付いてきな」
山道を登り、少し標高の高い所へ移動した。道中でヤマブドウを見つけたので、一房頂いた。良い具合に熟していた。
ミズナラの森に出た。いわゆるドングリの木だ。冬眠前の熊は、ドングリをたらふく食べるのを好むそうだ。
「笹薮に気を付けろ。熊笹はその名の通り熊の隠れ場所だ。そこに隠れた熊はまず出てこない。うっかり近づくと、いきなりやられるぞ」
獣の気配はしないので、大丈夫だろうとは思った。しかし山の民の忠告には、素直に従っておく。
「谷間とか窪地が狙い目だ。風上の高所から回って様子を見る」
「なんで谷間や窪地なんだ?」
「木から落ちたドングリが溜まるのさ。そこに行けば歩き回らなくても、たくさんのドングリが溜まっているのを熊は知っている」
「なるほど」
リスと言い熊と言い、なるだけ楽をしたいのは人も獣も同じらしい。
いくつかそれらしい場所を探ったが、熊の姿は無かった。
「やっぱりこの時期の忍び狩りは、猟犬無しじゃきついな」
「そんなに違うのか?」
「集団で熊を追いたてる巻狩りなら、季節は関係ない。一人で獲物を追う忍び狩りは、痕跡が目立つ冬でなければ、犬の鼻が無ければなかなか獲物は見つけられないな」
「そうか。まあこっちが無理を言った様なものだからな。仕方が無い」
「済まんな。真冬の穴熊狩りならば、日に何匹も狩ってやるんだが」
「そんなに?」
「冬眠中の熊をねぐらから燻りだして、寝ぼけ熊を狩るんだ。こんな楽な事は無い。熊の胆もでかいし、脂も乗っている。熊は冬眠中を狩るに限る」
寝こみを襲えばそれは楽に決まっている。紅夜叉も人間相手に良くやった。狩りも戦も変わりは無い様だ。
「今日はもう引き揚げるか。罠の様子も見なきゃならないし」
家通が隠れるのを止めて立つ。紅夜叉もそれに倣った。ふと、何かの匂いがした。
「何か匂わないか?」
「匂い?」
「香りと言うべきか、良い匂いがする」
「……本当だ。この匂いは……」
匂いの漂ってくる方へ向かう。どんどん匂いは強くなってくる。近い。
「多分、あれだ」
家通が一本の木を指した。大きなミズナラの古木だ。枝がいくらか枯れて、白くなっている。木の根元を回る。
キノコ。一面にびっしりとキノコが生えていた。それが信じられないほど強い香りを放っている。
「驚いた。マイタケがこれだけ生えているのを見たのは初めてだ」
「美味いのか?」
「美味い美味い。極上だ」
「なら遠慮なくいただいて行くか」
「待て、マムシが巣食ってる事が有るから、いきなり手を突っ込むんじゃねえぞ」
蛇がいない事を確かめながら、マイタケを切り取っていく。持ち込んだ籠ではとても足りず、上着を脱いで風呂敷代わりにした。
「おもてえなぁ、全部で子供の体重くらいはありそうだ」
そういう家通の顔には、抑えきれない笑顔が浮かんでいる。帰りにリスの罠も見回ると、こちらには二匹かかっていた。紅夜叉が仕留めた分と合わせて、三匹を得た。
「今夜はマイタケ鍋にリスも少々入れられるな。期待して良いぞ」
家通が、日に焼けた笑顔を向けてくる。紅夜叉も少し笑い返した。
◇
リスの肉は骨ごと細かく刻み、団子にする。つみれ汁だ。量が少ないので、主役はどちらかと言えばマイタケだ。
味付けは醤油で薄く付ける。マイタケの旨味が強いのと、リスをほぼ丸ごと入れたので、僅かな塩気も出る。
「で、なんで若水道人が居るんだ?」
「美味い物の予感がしたからな」
「良い物を食うときだけ姿を見せやがって。生臭道士が」
若水道人は全く意に介する様子は無く、笑っていた。
リス肉のつみれは脂がほのかに甘く、木の実の香ばしい香りも微かにした。酒も入って、場は賑やかになる。
紅夜叉は酒の入った徳利を一つ手に持って、一人その場を離れ、外に出た。半月より少し太った月の出る夜だった。
適当な所に腰かけ、酒を呷った。別に飲みたい訳ではない。何もせずぼんやりしているのが嫌だから、とりあえず酒を持ち出しただけの事だ。
寝ている時間は長かった。それだけに、考える時間もあった。今までで一番時間があっただろう。何もせず、ただ考える時間だ。
何故生きた。そればかり思った。抗ったから生きた。それは解っている。なぜ抗ったのか。なぜ従容として死を受け入れなかったのか。なぜ夜叉のまま死ななかったのか。
死に抗って、足掻いて、生き残ってしまった。それは夜叉としての在り方に反するのでないか。それは自分が忌避したものではなかったのか。死はとっくに、最後の安息だったはずではないのか。
生きていても失望と絶望と、空虚しかないはずなのに、なぜ生きる事を欲したのか。
いくら考えても解らない事だった。自分のした事が、自分で理解できない。理解できないまま、起き上がれるようになったので、鈍った体を鍛え始めた。
水を汲み、山を歩き、獣を狩る。静かだが、充実した暮らしだった。悪くないと思えた。
それもまた夜叉らしくない。だがそれ以上に、何かが満たされなかった。充実していると感じる事は確かだが、何かが物足りないのだ。
この空虚は何なのだろう。人としての全てが欠落した、あるいは捨てた身の自分に、これ以上何が虚しいのか。
「良い夜だな。やはり秋は良い」
若水道人が、足音どころか気配すら薄く近寄ってきた。薄気味悪い。
「こんな夜は酒が欲しいと思ったら、そこに有るではないか。これと交換しないか?」
月明かりでは黒い影しか見えないが、形と匂いでヤマブドウだと解った。割に合わないと思ったが、交換した。別に酒に未練は無い。
若水道人が隣で、遠慮なく酒を飲み始める。
「月を愛でながら飲む酒は、やはり格別だな。そっちはどうだ?」
「甘酸っぱい」
当たり前の、ヤマブドウの味だ。
「甘いでも、酸っぱいでも無く、甘酸っぱいか。およそ自然が恵む物は、深みがある」
「何が言いたい」
「別に。ただ事実としてそうだというだけの話」
はぐらかしてはいるが、遠まわしに何を言わんとしているかは、むしろ露骨だった。
「……純粋に生きるなど、不可能だと?」
「私もそんな憧れを抱いた事が有ったよ。そして気付いて見れば、こんな身に成っていた。仙道に入って、純粋とは程遠いと知ったがな」
「それでも、俺は……」
「そう早まるな。何も純粋な物など無いというつもりは無い。木々を見ろ、あるいは虫を、あるいは獣を。みな自分らしく生きるという事においては、純粋だ。他の何者にも成れはしないし、なろうともしない」
「ならやはり、俺は夜叉以外の何者にも成れは――」
「しかしその純粋が集まって、山という一つの混沌がある。だからこそ山は懐が深い」
「……どういう事だ?」
「山はただ草木や、虫や、鳥や獣などの集まりではないという事さ。全てが『山』と言う存在の、切り離せない一部だ。それを替えてしまうと、山は別の山になってしまう」
山を人に置き換えると、様々な要素が集まって『自分』を作っている。それは全てが揃っているから『自分』なのであり、取り替える事はできないし、取り替えると『自分』ではなくなる、という事か。
夜叉として純粋に生き、そして死にたいと思う。それが紅夜叉の一部ならば、そうではない他の何かもまた、捨て去る事の出来ない紅夜叉の一部だというのか。それを捨てれば自分ではなくなると言いたいのか。
では自分にある夜叉以外の何かとは何だ?
真っ先に操の顔が浮かんだ。夜叉として純粋であるために、最も捨てなければならなかったもの。自分が人間であるという証だったもの。
続いて、何人かの顔が浮かんで来た。いつも突っかかって、挑んでくる少女。時々考え込んだり、後ろ向きになったりとめんどくさいが、なにか気の置けない奴。
初めて心惹かれた、自分と同じものを持っているのではないかと思えた男。そいつに何もかもを捧げる事を喜び、同時に捨てられる事を恐れている女。どうにも捉えどころが無くて、苦手に感じて避けている、いつも微笑んでいる女性。
あいつらの居る場所。そこに自分も居る事が、自分の、夜叉ではない部分にとって、大切なものになっていたという事か。
あるいはあいつらによって、自分の夜叉以外の部分が、育てられたのか。
自分でもにわかには信じがたいが、奇妙な納得は有った。それを捨てれば自分ではない。妙な話だが、夜叉であろうとして全てを捨てたら、紅夜叉ではなくなっていた。
夜叉である事と、紅夜叉である事。どちらを選ぶか。そんな事、考える間もない。自分が蒼州の戦野で、あのクソッタレな戦場で見つけた真理は、ただ一つだ。
「好きに生きて、理不尽に死ぬ。それが俺だ」
紅夜叉の心に、長く失われていた恐怖が蘇った。空虚への恐怖。為す事無く、心が空になる事への恐れ。自分が自分で無くなる事への恐怖。
それは裏を返せば、充足への欲求になる。そして紅夜叉の充足は、充足を得られる場所は、今も昔も一つだ。
「戻るか。俺の戦場へ」
俺の魂が、それを求めている。




