3・決意
日陰の位置が、いつの間にか変わっていた。イスカは日陰を追って移動し、腰を下ろした。
たった今、立ち直った操の背中を、影から見送った。いや、実はそのずっと前、銀華が現れる前からここに居た。
操の事を、どうにかしてやりたいと思った。しかし、事が事だけに、操を再び立ち上がらせるのは、不可能だとしか思えなかった。少なくとも、イスカにはその方法が解らなかった。
だから部屋の傍にまで来ておきながら、ただ隠れている様な事しかできなかった。
何をしても、どんな言葉を掛けても、操の心を救ってやることなど、無理としか思えなかった。また何もできない自分の無力さが、辛かった。
しかし、そんな風に挫けているイスカの目の前で、銀華は操を見事に立ち直らせた。それも、特に何かをした訳でも無く、だ。
道を示した訳でも無く、何か新たな事実を告げた訳でも無い。もちろん何か教訓めいた事を垂れた訳でも無い。
強いて言うなら、現実と向き合わせた。そして操が現実と、そして自分の抱く思いと向き合ったときに、傍に居た。
だから銀華が何かをしたという訳でも無く、ある意味では操は、自分だけの力で立ち直ったのだろう。しかし、それに対して銀華の存在が与えた影響は、間違いなく大きいはずだ。
自分にはとてもまねできない事だ。イスカは半ば感嘆し、半ば打ちのめされるような思いだった。自分の手からは誰も彼もこぼれ落ちて行ってしまうのに、銀華の手にかかれば皆救われる。
もちろんそれは、主観的な思い込みに過ぎない。事実としてはそうでは無いだろう。だが主観は、少なくとも当人には現実だ。現実として、銀華はイスカには助けられない人を助ける事ができた。
それがある面では救いで、ある面では悔しい。どうして自分には、助けたいたった一人を助けられないのか。
「……馬鹿だな私は、逃げたんだから、当たり前じゃないか」
そう、自分は逃げたのだ。操を助ける事が出来ないと思った。それは多分事実で、どうあがいてもイスカは操に何もしてやれなかったと思う。一筋の光明すら見えていなかったのだから、無理もない。
しかし、それを理由に何もしなかった。何もしなかったなら、何の結果も得られる訳はない。自分はほぼ間違いなく失敗するであろう事から、逃げたのだ。
それでは駄目に決まっている。ただ立ち止まっていては駄目だ。それでは何も変わらない。可能性がゼロとしか思えなくても進む。例え破局に至る事が確実でも、逃げない。
破局に至るなら、至ればいい。過程、途中で立ち止まっていては、破局と言う結果すら得られない。
辛く、悲しい結末に至り、得たものと言えば痛みだけ。そんなマイナスでも、どんな結果にも行き着かず、ゼロのままでいるよりはいいはずだ。
マイナスは何かを失う事じゃない。痛みを得る事だ。見方によってはプラスで、前に進んだという事だ。
そう、人間を捨てて、修羅道を全力で駆けた紅夜叉の様に。
それに、無駄な努力、意味の無い行為、価値の無い物。そう言うものが、本当に無意味で無価値だとは思わない。思えない。
無駄な努力としか思えない、無謀で、実現不可能な理想を追う行為が、前に進もうとする力をくれる。
例えたどり着けなくても、前に進む事が。いや、進む事すらできなくても、進もうとする事に価値があるのではないか。
目指すところは何処でもいい。回り道をしても、道に迷っても、結果的に逆走しても良い。
歩き続ける事。それこそが一番大事なのではないか。自分の、自分だけの目的地があって、そこに向かって進もうとする事こそが。
操を助けられなかった。助けなかったのは、破局に至る事が怖かったから。破局に至る事で、操を傷付ける事が怖かった。そして操を助けられない事で、自分が傷つくのが怖かった。そうして逃げたのだ。
らしくないじゃないか。傷つく事を恐れて逃げるなんて、自分らしくない。ここに紅夜叉が居たら、意地でもそんな真似はしなかったに違いない。
「私も同じか」
紅夜叉が居なくなって、精神的にショックを受けていると言う点においては、どうやら自分も操と大差無かった様だ。
そして操が紅夜叉と対等になりたいと決意したように、イスカもまた、本当は紅夜叉と対等で居たかったのかもしれない。一発殴って考えを改めさせる、なんてのはただの方便で、本当は対等で居たくて、何度も挑んでいたのかもしれない。
「同じ……私も同じ、か」
銀華の言葉が思い返される。誰も完全には解り合えなくて、そのために怖くて、生きる事に精一杯でいる。それはみんな同じなのだと。
もちろんそれはイスカにも当てはまるだろう。と、言うよりも、他人は何を考えているか解らなくて怖い。操が吐露したその思いは、かつてイスカにも覚えがあった事だ。
イスカにとって、この世の他人は残らず敵だと思っていた。唯一姉が例外なだけで、それ以外は一人残らず隙あらばイスカを攻撃しようと狙っていると信じて疑わなかった。特に、姉が居なくなり、イスカが一人残されてからはなおさらだった。
だから操が感じていた恐怖は、イスカにも良く解る事だった。それを語っていれば、イスカにも操を救えたかもしれないと思うが、言っても仕方のない事だ。
誰とも関わらずに一人生きてきた。他人と関わると、傷つけられると信じて疑わなかったから。
イスカの場合は物理的な加害と言う事で、少し特殊な例かもしれない。あの頃の自分は、精神的に傷付く、などと言う事も知らなかったと思う。
精神的に傷付く事が無いというのは、今の紅夜叉に通じるものがあるかもしれない。そう考えると、やはりみんな同じなのか。
物理的か精神的かの違いを省けば、一人で生きて来たのは、他人との関係の中で傷付きたくなかったから。傷付くのが怖かったからに他ならない。
そうでは無いのだ。世界は敵ばかりではない。イスカにそれを教えてくれたのは、初めてできた友人だった。そして、傷付かない事なんてないというのを知ったのは、その友人の死だった。
他人が幸せな気持ちでいると、自分もうれしい。他人が悲しんでいると、自分も悲しい。そして他人が自分を信じてくれると、上手く言葉にはできないが、胸が温かい。
そう言う事が有るのだという事を教えてくれたのは、イスカの最初の友人だった。意図して教えてくれた訳では無くても、イスカはそれを教えられた。
そして、親しくなった者と哀しい別れ方をしなければならない事が、どれだけ胸が痛いか。それを知ったのも、友人との死別だった。
それでもイスカは、やはり他人と関わらず、一人で生きていこうとは思わなかった。別れた事よりも、もう会えない事よりも、出会えた事の嬉しさが勝っていた。
だからイスカは、もう逃げないと決めた。痛みも、重みも、背負い、耐えて、慣れて、当たり前の事として、思い出になってもずっと一緒にいる。そう決めた。
決めた以上、傷つく事を恐れて逃げるのは、らしくなかった。イスカは頬をぴしゃりと叩いた。
操は仲間だ。いつだって手を差し伸べられる。今回は少しタイミングを逃してしまったが、彼女が困っているときは、迷わず助ける。
操だけじゃない。ジャンも仲間だ。帰ってこない紅夜叉の大馬鹿野郎も仲間だ。高星や、エステルや、銀華も、ちょっと言葉に違和感はあるが、やはり仲間だ。いつだって助けられる。そしてイスカが困ったときは、助けを求められる。助けてと言える。助けてくれると信じている。
彼らだけじゃない。もっと広く、みんなは、人々は、世界は私の仲間だ。もちろんどうしても敵になる相手はいるだろう。それは仕方が無い。完全には解り合えない以上、敵が居なくなる事は無い。
それでも基本的に、人々は仲間だ。そう信じている。だから共に生きる事ができる。そのとき初めて幸せを感じられる。幸せとは、共に生きる事だ。
この世には幸せが在る。無かったら困る。苦しむためだけに生きるなど、きっと耐えられない。
その幸せは、誰かと一緒にいるとき初めて感じられる。一人では幸せになれない。少なくともイスカはなれなかった。
解り合えなくて、怖くて、傷付け合っても、そこを越えなければ共に生きられない。幸せになれない。
だからイスカは、逃げない事を決めたのだった。
◇
「イスカちゃん」
「わきゃああぁ!?」
突然声を掛けられて、イスカは飛び上がった。イスカが飛びあがった事で、声の主の方が驚く。
「ああびっくりした。驚かせちゃったみたいね」
銀華が胸を押さえている。それを見てイスカは、途端に申し訳ない気持ちになった。
「あっ……ごめん」
「いいのいいの」
銀華が乱れた裾を整える。
「でも良かった。イスカちゃんは元気そうで。あなたまで落ち込んでいたら、どうしようかしらと思っていたの。ずっとそこで隠れているんだもの」
「気付いてたのか……いや、気付かない訳が無いか。余計な心配を掛けた」
「真面目ねえ。もっと気にせず周りに迷惑かけてもいいのよ? そういうところはエステルちゃんと似てるかしら」
「……銀華さん」
「なに?」
イスカの声が真剣味を帯びる。対する銀華の声は、どこまでも優しげだ。
「私は、いつかこんな時が来るんじゃないかと言う覚悟と言うか、予感があった。だから、今私が何をするべきかも、もう決めてある」
「そう」
「私は紅夜叉が帰ってくると信じている。だからそれまで、あいつが帰ってくる場所を守る。安東軍を、棟梁様を、みんなを守る。それは銀華さんの大事な人を守る事にもなる。だから、必ず守ってみせるよ」
銀華はしばらく何も言わなかった。ただ目だけは閉じているのか、細めているのか解らないほどに瞼を落としていた。ややあって、一言だけ言葉を紡いだ。
「ありがとう」
一言、そう言った。
その一言にどれだけの思いが込められているのだろうか。そうイスカは少し考えて、止めた。他人の思いを、完全に理解する事など、誰にもできない。
ただ銀華のありがとうには、きっと多くの思いが込められているに違いない。例え幻想であっても、イスカ自身がそう信じていれば、それで良い事だった。




