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流刑人形の哀歌  作者: 無暗道人
紅夜叉の不在
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2・再起

 紅夜叉(べにやしゃ)の行方不明がはっきりして以来、(みさお)には必ず誰かが付いている様になった。

 操の取り乱し様は大変なもので、ほとんど半狂乱と言っていいものだった。今は多少落ち着いたとはいえ、発作的に自害に及びかねないとされ、常に誰かが傍にいる様になった。

 しかし、交代で操の監視をする役目は、誰もが嫌がった。誰もができるだけ、自分にその役目が回ってこないようにと願った。

 一つには自分の監視中に操に何かあれば、責任問題になりかねないという事が有る。いくら常に見張っているとは言え、用を足すときなど僅かに目が離れる時はある。僅かな時間ではあるが、発作的に自害をするとすれば十分な時間だった。

 しかしもっと単純に、今の操には関わりたくないという思いの方が強かった。紅夜叉の行方が知れなくなってからの操は、とにかく感情の起伏が極端だった。

 抜け殻のようになって丸一日放心しているかと思えば、何の前触れも無く怒りだして周囲に当たりちらし、物を壊すわ投げるわで手が付けられない程に暴れる。

 かと思いきや、声も涙も枯れる程に泣きわめき続け、挙句の果てには狂った様に笑い出す。完全に壊れてしまったかのようで、落ち着いているときは、何も無かったかのように普通に受け答えもできる。

 そんな今の操を持て余し、誰もが監視役として一緒に居る事を嫌がっていた。

 高星(たかあき)がエイジスの周辺を押さえ、エイジス攻城戦の準備のためにミタクへ戻っているある日。今日の操は、朝から放心状態だった。

 監視役の者は、大人しい様子の操にほっとしながらも、早くこの貧乏くじの交代時間が来ないものかと、渋い顔をしていた。

 だから予定よりも早く、交代の時間だと告げられた時は、喜色を隠しきれない様子だった。

 監視役の者が、こんな所はさっさとおさらばしたいと部屋を後にする。つかの間、操は一人になった。

 一人になった操が、何かを嘲笑う様に短く笑った。笑いはだんだん長く大きくなり、ついに虚ろな目をしたまま、狂ったように笑い声を上げ始めた。

 音のはずれた笑い声が、虚しく辺りに響く。

 そんな操の視界が、突然塞がれた。顔を柔らかいものに埋める感覚がある。背中に両手が回されている。日向で寝ている様な、心地よい温かさに包まれる。


「操ちゃん、私が解る?」


 優しくて、悲しげで、それでいて力強い声だった。


銀華(ぎんか)、さん?」


 我に返った操が、理解が追いつかないがそれだけは理解した、という様に声に出す。背中に回されていた両手が肩をつかみ、体が引き離される。まぎれも無く、銀華の優しい微笑みが、操を見ていた。


「紅夜叉が、戻ってこないのね」


 いきなり核心を突いてくる銀華の言葉に、操の体がビクリと痙攣した。


「信じたくないけど、もう二度と戻ってこないかもしれないのね」


 残酷で、目を背けていたかった現実を、これでもかというほど正面から叩きつけられた。操がそれに何かしらの反応をするよりも早く、再び銀華が操の体を強く抱きしめた。

 操は泣いた。子供の様に、大泣きに泣いた。わんわん泣いた。いつまでも、泣き続けた。

 しかしそれは、銀華が訪れる以前に泣いたのとは、何かが決定的に違っていた。


     ◇


 ひとしきり泣いて、涙も枯れ果てたかという頃。操は銀華の胸の中で、ぐずっていた。何かが抜け落ちたような気がしていた。

 銀華は何も言わず、子供をあやすように、操の背中を規則的に叩いていた。また更に長い間、操は銀華の胸に身を預けていた。


「……銀華さん」


 どれほど時が経ったろうか、ようやく操が口を開く。


「なあに? 操ちゃん」

「私は、これからどうすればいいんだろう」

「さあ、それは私には解らないこと。解るとすれば、それは操ちゃんだけ」

「あいつが居ないのに、私がどうすればいいかなんて、解んない。解んないよ」


 ようやく操は、自分が紅夜叉に、すがりきっていた事に気付いた。自分一人で立つ事をせず、一から十まで紅夜叉の存在を前提として生きていた。

 紅夜叉が居なくなって、ようやく自分がそんな、寄生虫の様な生き方をしていたのだという事に、気が付いた。

 もしくは、甘えきっていた。幼子が親にすがる様に、甘えきっていた。どちらにせよ、胸を張れるような生き方ではない。


「私、覚悟が無かった。あいつの言った通りだ。覚悟があると思い込んでいただけだった」


 銀華の胸の中で、操が弱々しく言う。


「あいつと一緒なら、どんな地獄でも平気だと思ってた。その覚悟はあると思ってた。でも一人になる覚悟が無かった」


 紅夜叉が死に、操が一人残される。そんな未来はあり得ない事ではない。そのとき、一人で生きていく覚悟が無い。

 だから紅夜叉に拒絶されたときも、食い下がりきれなかった。一人で立つ覚悟が無いから、捨てられる事に抵抗して、抵抗しきれないと何もできなかった。


「何が、私覚悟してるから、よ。全然ダメじゃない」


 紅夜叉には、そんな操の覚悟の無さが、全てお見通しだったのだろう。紅夜叉という圧倒的な力に依存した、一人では何もできない、弱くて甘ったれた小娘に過ぎなかった事が。


「操ちゃん。大丈夫、怖くない、怖くない」


 操は震えていた。紅夜叉がいなくなった事で、操は世界に一人取り残されてしまった。紅夜叉にすがっていた操には、一人でいる事は、この上ない恐怖だった。


「……怖いよ」


 涙声で、しぼり出した。


「怖くない」

「怖いの! だって、みんな何考えてるか解らないんだもの! 銀華さんだってそう。本当は何を考えているか解らない。そんなの……怖いよ」


 操が、銀華を突き放すように距離を取ろうとする。銀華はその距離を縮めようとはしなかった。ただ変わらぬ調子で問いかけた。


「紅夜叉の、あの子の事は、解ったの?」


 途端に操がはっとして、目を伏せる。そして蚊の鳴くような声でつぶやいた。


「解って無かった。解っていると思っていた。でもそれは思い上がりだった。私はあいつの事を、なんにも解ってなんていなかった」


 紅夜叉が純粋を追い求めた末、自らを人間以下に貶めていく事を、解っていなかった。それがどれだけ虚しく、悲しい事か、その痛みを解る事も出来なかった。

 何より紅夜叉が、そんな極端な道に走るほどに、自分自身の在り方が解らずに悩んでいるという事など、夢にも思っていなかった。


「紅夜叉の、あの子の事が、今は怖い?」

「……怖い」


 決定的に拒絶されたあの時から、本当は怖かった。他人は怖い。ましてや望んで人間以下に堕ちていった存在など、怖くないはずが無い。だがそれでも、怖いだけではない。


「でも、やっぱり一緒にいたい」


 それが、泉の様に心の底から湧き上がってくる思いだった。この期に及んでも、その思いだけは決して枯れ果てる事が無かった。

 操は、やはり紅夜叉と一緒にいたかった。


「ねえ操ちゃん。生きるって、大変な事よね」


 銀華が諭すでもなく、世間話でもするように静かに語り始めた。


「ちょっとでも動くと傷ついて、血が出て、苦しくて仕方が無い。生きるって実は、本当に大変な大事業で、大戦争よね」


 銀華の過去からすれば、その言葉は重みがあってしかるべきだった。だが銀華の言葉には、まるで重苦しさと言うものが無く、家庭の些細な出来事を愚痴る様であった。


「だからつい自分の事で精一杯。おかげですっかり忘れがちだけど、みんな同じなのよね」

「みんな、同じ?」

「そう、みんな同じ。辛いのも、苦しいのも、他人の本心が解らなくて怖いのも」


 操ははっとした。他人の本心が解らなくて怖いのは、みんな同じ。言葉にするまでも無い、当たり前の事のはずだった。それなのに、今の今まで忘れていた。銀華の言う様に、つい自分の事で精一杯で、当然の事実に気付かなかった。


「そっか。解っている、じゃなくて、解らなくて当然なんだ」


 人は解り合いたいと思う。だがどれだけ解り合おうとしても、全てが完全に解り合える訳では無い。相手の事が解らない。それは必ず直面して、消える事が無い。

 どうしても解り合えない部分はある。それが怖いと思う。それを当然の事として、それでも一緒にいようとする。それこそが本当に、誰かと一緒に居たいと思う事なのだと、操は気が付いた。


「操ちゃん。もう一度聞かせて。あなたは紅夜叉と、あの子と一緒にいたいと思う?」

「はい。私は、怖くても、解らなくても、それでもあいつと一緒にいたいです」


 操の中に、一本芯が通った。銀華はそう感じた。


「どんな風に、一緒に居たい? 前と同じ様な関係でありたい?」


 操は言葉に窮した。そして、自分はどんな形で紅夜叉の傍に居たいだろうかと考えた。少なくとも、以前と同じように、すがりきった在り方では駄目だと思った。

 すがりきるには、怖くないと確信できなければならない。だがそれは、幻を見ていたにすぎない。解り合えない部分は必ずあって、それが怖いけど、それでも一緒にいる。

 そういう在り方で一緒にいるには、以前とは違う、新しい関係が必要だ。

 なぜ自分は紅夜叉と一緒に居たいのか。一緒に居たいと思うのか。まずそれを操は自分に問いかけた。

 答えはすぐに出た。紅夜叉が人間を捨て、操の下から去っていくとき、操はすでに言葉にしていた。

 置いて行かないで。一人にしないで。と。

 操は、一人残されるのが怖い。では一人でなければ、誰かが居ればそれでいいのか。

 紅夜叉が二度と戻ってこなかったら、それでも生きていくしかないだろう。紅夜叉が居なければ、生きていても仕方が無い。それはすがりきっていた頃の自分だ。紅夜叉が居ようと居まいと、まずそれは決別しなければならない。

 しかしもし紅夜叉が生きているのなら、やはり他の誰よりも、紅夜叉と二人が良い。紅夜叉の存在は、余人には決して代えられないのだから。

 では、紅夜叉とずっと一緒に居ようと思えば、どう在らねばならないか。


「あいつが、そこに居てくれるだけでいいと思っていた。振り向いてくれなくてもいい、ただその背中に、寄り添っていたいと思ってた」


 操が一度言葉を切り、息を吸う。次の言葉は、前より少し強くなる。


「本当は、私の事を見て欲しかった。それは無理だと諦めて、妥協していた。でもそれは、自分では何もせず、あいつが私をどう扱うかに任せ切っていたって事。だからあいつが去っていくとき、私は何もできなかった」

「彼が操ちゃんを突き放しても、操ちゃんから彼の方に踏み込めるようになりたい?」

「なりたい」


 ただ後ろに居るだけの存在ではなく。振り向いてくれるのをただ待つのではなく。振り向いてくれないのなら、自分から紅夜叉の視界に飛び込むようになりたい。そのためには。


「あいつと対等になりたい。お互いに解り合えない存在として、対等で居たい。ずっと一緒にいるために、片方が切ろうとしても切れない関係を作りたい。そのためには、対等で居なきゃいけない」


 銀華が目を細める。


「対等な存在かぁ。どうすればなれるかしら?」

「解んない。でもあいつが帰ってこなかったとしても、私はあいつと対等だと言えるようになりたい。それに、あいつは絶対に死んだりしないから、なおさら」

「あら、どうしてそう言い切れるの?」

「私はあいつを信じているから。誰よりも」

「そう」


 この子はもう大丈夫。銀華はそう思った。それはすぐに正しいと証明された。


「ありがとう、銀華さん」

「私は何もしていないわ」

「そうなのかもしれないけど、それでもありがとう。私、行かなくちゃ」

「それは、高星(たかあき)の所へ?」


 つまり、戦場へ。


「うん。私にできる事、私にしかできない事をやらなくちゃ。まずそれが、あいつと対等になるために必要だと思うから」

「捜しに行かなくてもいいの?」

「いいんです。帰ってくるって、信じていますから」


 そう言うと操は、戦場復帰を願い出るために、高星の執務室へと歩き出した。

 帰ってこないかもしれないと思うからこそ、捜しに行く。不安でも、帰ってくると信じていれば、捜しに行く事はない。


「操ちゃん。あなたは強いわ。もう私よりもずっと」


 操の背中を見送って、銀華はそうつぶやいていた。

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