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コルネリウス軍の大半が出陣していった。その後、なにやら連絡が入って、城門の警戒が厳しくなったようだ。
ティトウス・コルネリウスが自ら軍勢を率いて出陣した事は間違いない。高星の策略が当たり、安東軍とコルネリウス軍は決戦になるだろう。
ミタク城内でジャンは、そう分析していた。自分の仕事が必要になるのも、もうすぐの事だろう。
それを盗賊頭に伝えて、城内を混乱させる用意をしてもらった。土壇場で裏切らないという保証は無いが、今回は賄賂以外の報酬は完全後払いで押し通した。計画を暴露してジャンをコルネリウス家に売り渡したところで、利益は無いに等しいはずだ。
問題は本城から機密文書を処分される前に押収する方だ。確実を期すために、できればこちらにも人手が欲しい。
そちらの方は、見兵衛の手の者の協力が見込めた。まともな戦闘は期待するなと言っていたが、混乱に乗じるのはお手の物の様だ。
「できれば、いつ動けばいいのか正確に知りたいんだが」
城外との連絡は、見兵衛一党に頼り切るしかない。
「戦が起きた事を知らせるくらいなら、始まって二時間のうちに伝えてやるべ」
見兵衛配下の頭とでも言うべき立場の糠助がそう保証したので、頼む事にした。
長くは無いはずだが、何日待つ事になるか。そう考えていたら、翌日の午後には事態が動いた。姿を見せない声が、どこからともなく流れてきて、両軍の決戦が始まった事を伝えてきた。
丁度、ジャンはいつもの様に本丸の排泄物回収に来ていた。それももうすぐ終わる。できる事ならもうしばらくの間、城内に居たい。
汚物を一杯に溜めた樽が荷車に積み込まれたところで。ジャンは密かに半分切っていた車軸を踏んだ。車軸が折れ、樽が転がり落ち、汚物がぶちまけられた。悲鳴と怒号が上がる。
「何をやっているか!」
城の兵士が鼻を押さえながら怒鳴り散らす。
「済みません、すぐに回収しますので」
平伏して謝り、回収作業に掛かる。しかし、柄杓状の道具は有れど、地面にぶちまけたものを集めるのに適した道具は無い。荷車も代わりを持って来る必要がある。
結局回収作業は、日が暮れるまで掛かってようやく終わった。終わる頃になって、ジャンは夜陰に紛れて城内に潜む。
武器の類を持ち込む事はさすがに難しかったが、柄杓を持ち出してきた。柄杓と言っても大きな物で、頭を外せば棒として使えるだろう。
多少臭う事も、あれだけ派手にぶちまけた後だ、風向きで臭いが流れてきた、くらいに思うだろう。それに全てが上手く行けば、不審に思うほどの時間も無いはずだ。
臭い思いに耐えてきたのも、全てはこの時のため。失敗は、許されない。
◇
高星の親衛隊は、常に高星と行動を共にする。当然の事だ。
しかし高星は、騎兵の指揮を執る事が多いので、必然的に親衛隊も騎兵と行動を共にする事になる。馬に乗れる者はいいが、そうで無い者の大半は、付いて行くのに苦労する事になる。
イスカは大半の方ではなく、例外の方だった。電撃の発生と制御の能力による身体強化。加えていまだ謎の多い遺物、魔力発動機の使用による魔力の増大。それによって、騎馬すら追い越す電光の機動力を誇る。
高速戦闘こそが彼女の持ち味。その機動力を存分に発揮して、戦場を縦横無尽に駆け回り、槍を振るう。その速度と威力は、まさしく雷のようだった。
しかし彼女は、やたら滅法に暴れ回るような戦い方はしない。常に全体の状況を把握する事に努め、客観的に自分を見る様に心がける。
更に自分が高星の親衛隊であり、高星の護衛が第一である事を認識して、先んじて脅威を除く事で、高星を守る戦い方に専念する。
それはむしろ、彼女の性に合った戦い方でもあった。攻撃は最大の防御を地で行く、相手を防戦一方にする事で防御に替える戦闘スタイル。
だから高星はイスカを、戦場ではエステルと並ぶ『盾』として重んじている。エステルが身に降りかかる火の粉は払う型の護衛であるのに対して、ボヤのうちに火元を消す型のイスカは、足りない部分を補い合っている。
騎兵を相手にしているときも、イスカはそこそこ戦果を挙げた。しかし、本当に自分の働きが必要だとイスカが思ったのは、歩兵を相手にしてからだった。
安東軍の騎兵に対して、頑強に踏みとどまって抵抗を続ける敵。これ程手強い敵は、かつてなかったと思う。
だからこそ、ほんの僅かな突破口でもこじ開けるために、イスカは槍を振るった。僅かな隙でもできれば、高星ならばそれを逃さない。
敵の槍を絡め取って弾き飛ばし、数人をまとめて槍の柄で突き飛ばす。自分に向けられた攻撃を掻い潜って懐に潜り込み、掌底を打ち込むと同時に電撃を浴びせた。
実戦では初めて使ったが、なかなかの使い勝手だった。意を決してホフマイスター博士に格闘術を習いに行ったのが、役に立った。ただ一度行っただけで、後は独学した。通う気にはなれなかった。
打撃技一つ有るだけでも、かなり戦闘の幅が広がる。必ずしも敵を殺す必要は無い。槍を使うからと言って、突いたり切ったりする以外の使い方が無い訳でもない。ましてや、してはならない訳でも無い。
戦うという事は、全てを使いこなす事だ。自身の肉体、持っている武器、道具、衣服や履物まで。さらには情況、敵、味方、ハッタリ、ともかくありとあらゆるものを使いこなす事。
そして目的を見誤らない事。戦争だからと言って、必ず殺さなければならない訳ではない。殺さずに戦闘力を奪う方が早く、確実で、敵全体に対する負担が大きい事が多い。
さらには怪我もさせず、ただ蹴散らすだけで十分な事もある。騎兵の戦いを見ていると、それが良く解る。相手を敗走させれば、目的は果たせるのだ。
そういう事を忘れて、視野を狭くすると無駄な行動が多くなる。それは自分の身を危険に晒し、仲間も危険に晒す。
戦う事、戦って勝つ事と、殺す事は違う。殺す事にこだわる必要は無い。道徳的なお題目ではなく、合理的な判断としてそうなのだ。
この一点においてだけは、イスカも紅夜叉と完全に意見を同じくし、解り合えると思っている。もっとも紅夜叉の手に掛かれば、死以外の結果は残らないのだが。
そう言えば、紅夜叉の姿が見えない。初めの内は確かに居たのだが、いつの間にか見失ってしまった。
紅夜叉の周囲は、いつだって凄まじい殺戮の嵐が吹き荒れている。だから、あいつがどこに居るかは一目で解る。
しかし今周辺に、紅夜叉が居る様子はない。戦場を離れる事も、あっさりと死ぬ事も考えにくい。ならば、一人で突出し、さらに敵の奥深くへ斬り込んでいったというのか。
嫌な予感がした。多くの過ぎ去って行ってしまった者達の列に、紅夜叉も加わってしまうのではないか。まだ彼に届かない、届かせられないでいる言葉が多くあるのに、受け取らないまま去っていく気か。
許さない。そんな事は、絶対に許さない。
「紅夜叉!」
叫んでいた。届くかどうかと聞かれたら、きっと届かない。そんな事は解っていても、叫ばずにはいられない。
お前は強い。お前は、一人で生きていけるくらいに強すぎるから。だからお前には解らないのだろう。
私達は弱いから、一人では生きていけないから、誰かが隣にいるから、前に進もうと思えるのだ。
私達は誰一人として、一人では前に進めない。どこにも行けないのだ。
◇
操は、戦場を駆けまわっていた。
ずっとコルネリウス軍の動きを探り続け、正確な情報を高星に伝える事で、勝利に向けて貢献し続けてきた。斥候の役目を果たしてきた。下手をしたら、戦場に立つよりもよほど疲れる任務だ。
だから、無理して戦場での働きまでしなくても良い。そうエステルは言っていた。だが操はそれを振り切って、戦場に向かった。高星は何も言わなかった。
安東軍が、ミタク城近辺の陣地を引き払って以来、紅夜叉とは顔を合わせていない。
あんな荒涼とした心を抱えて、今まで吐いた事の無い嘘まで吐いて、どうしようもない渇きを、流れる血で刹那の間だけ潤しに向かう。
そんな今の紅夜叉を、一人にする事などできなかった。
任務は任務として、避ける事もせず十全にこなす。しかしそれもまた、究極的には紅夜叉のためにしている事だ。
きっと紅夜叉は、今もどこかで血の雨を降らせている。今日はきっと、今まで以上に激しい雨が降っている事だろう。
自分の中の人間を全て否定して、通り名通りの紅夜叉として純粋にあるのだと言っていた。それなら間違いなく、おぞましいほどの虐殺が繰り広げられるだろう。
そして紅夜叉はそれを、清々しいと言ってのける事だろう。
行く手に敵が立ちふさがる。
「邪魔!」
大きく跳び、敵の顔面を蹴り飛ばした。敵が仰向けに倒れる。
紅夜叉は何処にも居ない。一人で、敵陣のさらに奥深くへ斬り込んでいったのだ。操には何となく、その気配の様なものを感じた。
自分一人の力では、そこまで紅夜叉を追う事は出来ない。紅夜叉は、夜叉として純粋であるために、他人が追いついてくる事さえ拒絶して、背を向けて去って行った。
それを追う力は、操には無い。だから、安東軍にそこまで連れて行ってもらうしか無い。その見返りと言うか、協力はできる。
あるだけの煙幕弾を投げ込み、敵の混乱を誘う。炸裂弾は、案外役に立たない。それが何であるか知らなくても、とりあえず逃げる。有効射程から逃げられると、炸裂弾はただのこけおどしだ。
煙幕なら、しばらくその場に留まって効果を発揮する。味方の視界を邪魔しないよう、投げ込む場所さえ気を付ければ、炸裂弾より有効だ。
攪乱ばかりしている訳ではない。弓を引いている敵を見つけた。誰を狙っているかは知らないが、投擲ナイフを撃った。右腕に刺さり、弓を落とした。
戦いながらも、紅夜叉の事ばかり考えた。そう言えば、あいつが紅夜叉という名になったのは、ここに来てからだった。それまでは自分も、名無しの少女だった。
だがそれ以前からあいつは、紅夜叉と呼ばれていた。それは多くの通り名の一つであったが、最も呼ばれる事の多い呼び名でもあった。
紅夜叉、赤鬼、食人鬼。どの呼び名も、畏怖と嫌悪と軽蔑が存分に混じり合っている事は、あの頃の操にも解った。解らないのは、なぜ人があいつをそう呼ぶのかだった。
あいつが、通り名にふさわしい存在になり果てたのは、出会ってからそれ程経たないうちだった。だから、あいつは紅夜叉と呼ばれる存在なのだと、疑う事も無かった。
あいつは、紅夜叉にされたのではないか。もっと言えば、紅夜叉と言う生き方を、選ばされたのではないか。
人があいつを紅夜叉と蔑む。あいつがどれだけそれを否定したところで、実際には全く否定などしなかったが、人は紅夜叉を紅夜叉以外の何者とも見なかった。
だからあいつは、自ら進んで紅夜叉と化したのではないか。人から押しつけられた在り方を、あえて自ら選ぶ事によって、自分を取り戻したのではないか。
剣を振りかぶった敵が、斬りかかってきた。操も剣を抜いて、打ち合う。一瞬火花が散ったが、力負けして徐々に押されて行く。
「うおおおおおおおおぉ!」
微かに幼さが残る声の雄叫びがして、敵が突き飛ばされた。突き飛ばしたのは、イスカだ。尻餅をついた敵を、槍の柄で押さえ込んでいる。
操はすかさず突進して、敵に剣を突き立てた。慣れてしまった感触が、手に伝わってくる。
「無事か、操ちゃん!?」
「おかげさまで」
「あまり無理はするな。君はこういうのには、向いていないだろう」
「後ろから忍び寄って、首を掻ききるくらいはできます。むしろ、慣れたものですから」
イスカは表情に困った様な顔を見せたが、結局表情を引き締めて、槍を構え直した。
「なら、正面からは私が行くから、援護を頼む。いいね?」
「まあ、いいでしょう」
「……紅夜叉を捜しているんだろう?」
操は肯く事もせず、無言で唇を強く結んだ。
「私も、似た様なものだ。敵を押し込めれば、紅夜叉にもきっと届くだろう」
「……そうですね。イスカさん、お願いしても良いですか?」
「もちろんだ。行こう」
イスカが、そしてその陰から操が、敵に向かって行く。丁度、安東軍騎兵がコルネリウス軍最左翼を敗走に追い込んで、さらに先へと進もうとしていた。




