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安東軍の進攻が始まった。今年の戦略目標は、セベナ平原の完全制圧であると、出陣に際して高星は宣言した。
広大なセベナ平原を制圧すれば、安東家の支配領域は本国だけの頃と比べて、二倍近くに広がる。一方領土を奪われるコルネリウス家は、北部地域の失陥と、中部地域への侵攻を許す事になる。激戦が予想された。
今回の戦に動員された兵力は、歩兵三千四百五十に及ぶ、安東軍としては過去最大規模の軍勢だ。
しかしその内訳は、必ずしも精鋭とは言い切れない。二級戦力である民兵が一千を占め、陸に揚げた海兵が三百、朱耶家からの援軍が五百含まれる。
中核となる正規兵は、三個大隊千六百五十。しかも、将校の質に不安がある。去年の敗戦の傷は、小さくなかった。ただ兵の方は、惨敗から立ち直った強さがあると高星は見ていた。
その他、騎兵三百、輜重兵工兵がそれぞれ百。これは例年と変わらない。
安東軍はジヘノ平地に建設させている村に入り、一旦軍容を整え直した。ジヘノ平地は軍勢こそ駐屯させていないが、安東家のものと言う既成事実が出来上がりつつある。村も、最初の入植者の家族などが入り、人口百五十人ほどの村になっていた。
「今度の戦は、長いものになるだろう。冬が来るまでかかると思って欲しい」
高星が、諸将の前で改めて宣言する。
「すでに何度も言っている通り、セベナ平原を獲る。それでコルネリウス家は、経済的も軍事的にも、中枢と言える地域を脅かされる事になる。それは、あの家の威信にかけても看過できない事態だろう」
高星の語り口は、淡々としている。
「セベナ平原を失えば、コルネリウス家は大決戦を挑んでくるだろう。それこそ我らの望むところである。今回の戦は、大決戦を引き出すための決戦に、敵を引きずり出す事を主眼とする」
「しかし高星。セベナ平原を制圧するというならば、ミタク城を落とす事が絶対に必要になるが」
エステルが、セベナ平原制圧の最大の障害を指摘する。
ミタク城は、セベナ平原の軍事の要だ。ここさえ押さえていれば、張り巡らされた街道網を使って、平原のどこにでも軍勢を急行させられる。
城自体も堅牢で、外港と言う形で軍港も備えている一大拠点だ。それは高星自身が、昨年自らの目で確認した事でもある。
「案ずるな、すでに策は講じてある」
どんな堅城も、内から崩されると脆い。それは軍事の定石であり、ジャン達が実際にミタク城で証明して見せた事だった。だから高星はあの城を、攻めずに落とそうと考えている。そのための切り札も、用意した。
コルネリウス家嫡男、ティトウスの書状。見兵衛の手の者を使ってそれを手に入れた。そしてホフマイスター博士監修のもと、精巧な偽造書状を作らせた。
紙には透かしが入っているし、ティトウスの署名も正確に写し取った。まず間違いなく本元と誤認させられるだろう。ただし、こういう物が使えるのは、一回だけだ。
むしろ、どういう形で戦を描くかの方が重要だった。思い描いた形の戦が出来ない。それは、戦なら当たり前の事でもあるが、主導権を失っているという事でもある。昨年の負けは、なにより主導権の喪失に原因があると、高星は考えていた。
予想外の事態に直面しても、常に主導権を失わない戦。それをどう描くかが、小細工よりもずっと重要だ。
軍の巡察に出た。まとまりに不安のある軍である。いつもよりも引き締めを強くするべきだろう。
こうしてみると、やはり三千を超える軍勢は多い。そして、それに対して騎兵の割合が少ないということが、良く解る。
騎兵こそ安東軍の要。その機動力は、野戦で主導権を握る大きな力。それを敵に勝る武器として、教義を立てた。
しかしその騎兵の増強が、頭打ちにある。それは安東軍の戦略を、根本から揺るがしかねないことだ。
「騎兵、か」
安東軍の騎兵を、コルネリウス軍は脅威と認識している。それは間違いのない事だ。ならば、その脅威が増大するのを、指を咥えて見てはいられないだろう。
◇
ジャンは、兵站物資の管理に当たっていた。と言っても、輜重隊と高星のやり取りを中継するくらいで、実際に物資を管理している訳ではない。
それでも、兵糧や物資の情況がどうなっているのか、高星がどういう戦を意図して物資を手配させているかが、なんとなく見えてくる。
この任務に就く際に、高星から密命の様なものを受けた意味が、それで解った。
輜重隊に出向しながら、現地雇いの人夫などに、怪しい者が紛れ込んでいないかを監視しろ。それがジャンの受けた密命だった。
何がどれだけあり、どの様に動かしているか。物資の動きは、軍そのものの動きを反映する。物資の動きを見れば、軍の意図する戦略を読み取る事ができるのだろう。
素人であるジャンにも、毎日膨大な物資の動きを見ていれば,漠然とした事は解る。その道に通じた者が見れば、どれほどの情報が露見するか解らない。
これは、防諜なのだ。だから高星は、ジャンをこの任に当てた。必要に応じて現地で雇われる労働者として敵軍に紛れこむのは、ある意味でジャンが昔やっていた仕事に近い行為だ。蛇の道は蛇。
もちろんこの様な重要な仕事を、ジャンにだけ任せる訳はない。ジャンが知らないだけで、同じ任務を帯びた者が多く居るのだろう。ひょっとしたら、そんな任務に就いている者のほとんどが、お互いの存在すら知らないのかもしれない。
ともあれ、今のところは怪しい動きは見られないので、純粋に物資管理の一端を担っている。これはこれで忙しく、てんてこ舞いをしている。
帳簿を見ると、長い戦をするという割には、兵糧が少ない様な気がする。足りないという事はないが、現在の兵力と予想される戦闘期間を考えると、あまり余裕が有るとは言えない。
そう言えば昨年は不作で、農作物の収穫量がやや少なかった。だからこそ収穫期を狙って、敵の収穫物を奪うという戦に出たのだ。その影響だろう。
実際に現物を見てみても、やはり不作の影響はある様だった。帳簿では解らなかったが、古米や古々米といった古い穀物が多いようだ。足りない分を、倉庫から引っ張り出してきて補充したのだろう。
「水を多めに入れて炊くか」
そう独りごちた。贅沢は言わないが、あまり美味い食事にはならなそうだ。
薪を折る様な音。続いて重い物が倒れる様な音がした。馬鹿野郎と怒声が飛ぶ。
音のした方に、何事かと人が集まる。荷車の車軸が折れて、車が横転したようだ。積み荷の食料が、いくらか地面に零れ落ちている。貴重な食料が無駄になれば、怒声の一つも飛ぶだろう。
壊れた荷車は木材が青茶色に変色していて、かなり古い様だった。不運と言えば不運だが、壊れたところで不思議はないオンボロだ。
はたと気づいて、駈足で荷車を見て回った。思った通り、古い荷車が多い。
今までになく大量の物資を運搬する必要から、古い荷車を大量に集めて数を揃えているのだ。
このまま使用を続ければ、破損する荷車が続出する可能性が有る。長い戦になるなら特に、長時間の酷使に耐えられず、古い荷車が壊れる可能性が高まる。
戦の最中に荷車が壊れれば、兵站線に影響が出るのではないか。そう言う事を意見書にして、高星に提出した。
「古い荷車を集めて、数を揃えたがゆえの危険性か。良く気付いたものだな」
「いえ、全くの偶然です」
「すぐに、荷車の補修を命じる。特に車軸はしっかりとした物にして、荒れ地を走破できるようにさせよう」
戦闘が始まる前に気付いてよかったと、ジャンは安堵した。
「ジャン、お前に輜重隊の監査を命じる」
「監査?」
「今回の件の様に、見逃しがちな事を見つけ出して対策を講じろ。正直輜重隊は、人手不足で粗が出始めている」
「俺は、本当に偶然気付いただけなんですが」
「難しい事はない。今度の件と同じ様に、一歩引いた立場から何か見落としが無いか探せばいいのだ」
簡単そうに難しい事を言うが、受けるしか無い。
今度の件と同じ様に、という言葉の意味を、ジャンは考えた。一歩引いた立場は、元より輜重隊の人間ではないジャンは、意識しなくても引いた立場になる。
老朽化した荷車が多く、戦の最中に壊れる物が続出すれば、兵站に支障が出るというのは、実際に荷車が壊れ、一部の兵糧が無駄になった光景を見て気づいた事だ。
それを、見る前に想像して先手を打てばいいはずだ。
もう一つ、気付いた事が有る。兵站とは、水や食料、武器装備、馬の秣などを扱うのだと思っていた。それは、間違いでは無い。
しかし、それだけではないのだ。今回の荷車もそうだし、荷物を固定する縄、分配に使う枡や秤、帳簿を付けるための紙や墨。そう言った物が無ければ、兵站は止まってしまう。
いわば、兵站の兵站だ。一歩引いた立場というのは、そういう兵站の兵站を見ろ、と言う事であるのかもしれない。
そう考えて輜重隊を見れば、物資の不足が目についた。扱う糧秣が増えたのに、それをスムーズに扱うのに必要な小道具が足りていないのだ。
例えば小刀一本の有無で、箱を開けるのに要する手間が違ってくる。箱一つではどうと言う事のない手間だが、軍全体には何百何千と言う箱がある。この手間は、馬鹿にならない。
ごみの始末も問題だ。包装用の油紙、緩衝剤の藁やおがくず、縄の切れ端、一日に出るごみの量も大変なものになる。
使い回せるものは、徹底的に使いまわしてごみを減らす。使えなくなれば、燃料の足しにする。それでもどうしてもごみは大量に出るので、ごみの始末を速やかにできる用意をしておく。
ごみが山積みになって、不衛生になったり、物資の置場を圧迫することは、避けなければならない。
そう言う事は、なかなか表には現れず、見逃されてしまう。しかしジャンにとって、表に出ないものを探り出すのは、慣れたものだった。
「いや、予想以上だな。出費はむしろ増えたくらいだが、これは必要な出費だろう」
高星が、ジャンの報告に目を通して感嘆する。
「こんなものは、注意力があれば誰でもできますよ。些細な違いを見逃さなければ済む事ですから」
「お前、それがどれだけ凄い事か解っているのか?」
「盗みのために仕込まれた観察力を褒められても」
「まあいい。お前はむしろ、大軍を扱う方が向いているのかもな」
「俺が、大軍の指揮官ですか?」
まさか、と思った。
「いや。大軍の、兵站担当」
「それは偉いんですか、偉くないんですか。いや、偉くなりたい訳でも無いですけど」
「偉く無い訳ではないが、半歩外れている感じだな。どういう訳かお前は、半歩ずれた立ち位置が得意らしいな」
喜んでいいのか悪いのか、ジャンは曖昧に笑うしかできなかった。
◇
安東軍は軍容を整え、セカタ平原に進出した。
平原の北の境界であるセベナ川を渡り、昨年惨敗を喫した地を再び踏む。ここからさらに南下し、セカタ川を越えるとミタク城だ。
しかし高星は進路を西に取り、セベナ川上流地域へ軍を進めて、セベナ村に入った。
誘いだった。南下すればミタク城に至る所を、西進してセベナ村に入れば、敵に背を向けて行軍する格好になる。
しかしミタク城からは、数騎一組の斥候が出て、こちらの様子を窺っただけだった。
「流石にティトウスは、慎重だな」
ティトウスが、総勢五千の軍勢と共にミタク城に入っている事は、すでに掴んでいる。さらに後詰として、平原南端の都市エイジスに、ヴァレリウスが二千を率いて駐屯している様だ。
それらの動きは、高星が軍を起こすのとほぼ同じくして行われていた。こちらの動きが漏れているというより、毎年戦に適した時期になるや否や安東軍が攻め込むので、向こうでもそれを予想して軍を動かしたのだろう。
ともあれ、コルネリウス軍も総勢七千と言う、過去最大規模の軍勢を充ててきた。ただティトウス・ヴァレリウスと言う二将が並んでいる所を見ると、七千全てが一丸となって行動する事は無さそうだ。
指揮系統が分裂しているというより、後詰の二千は予備で、ミタク城が落ちる様な最悪の事態への備えと言う事だろう。当面は、ティトウスの五千だけを見ていればいい。
堅実な戦い方を得意とするティトウスが、あからさまに晒した隙に飛びついてくるとは思っていない。しかし、それならそれで問題はなかった。
セベナ村に入った高星は、村の牧場で養育されていた馬を接収した。全部で三百頭ほどの馬が、村の牧場で飼われていた。
そのうち安東軍の騎兵としてふさわしい馬は、百頭ほどだった。装備と人員の用意が無いので、すぐに騎兵を増やせる訳では無い。しかし、セベナ村を抑えている限り、安東軍の騎兵は四百に増強できる。河川水運を活用すれば、牧場はもっと拡充できそうだった。
安東軍の騎兵は増強され、その分コルネリウス軍は軍馬を確保できなくなる。果たしてそれを、ティトウスはどこまで黙って見ていられるか。
「ミタク城を手に入れるまでは、この村を拠点とするぞ。輜重もここに集めろ」
「高星、この村を兵站基地にするのは、戦場から遠すぎないか? 敵との激突が予想されるのは、まず東の街道沿いだ。兵站線が長いと、敵の襲撃も懸念される」
エステルが言わんとしている事は解る。セベナ村は、セカタ平原の北西の端だ。もっと下流のどこかに陣を敷いて、基地を作る方が良いと言うのだろう。
「この村より西に行くと、もう大山脈の端だな。セベナ川の源流も、そこに発している」
「そうだが、それが?」
「いかだを大量に作り、水運で下流に送れば、陸路を行く半分ほどの時間で運べる。輸送時間が半分ならば、距離が倍でも問題はない。
下流から上流に物を送る必要は無いし、いかだの丸太はそのまま資材に転用する。この村を兵站基地にした方が、流域のどこへでも迅速に輜重を送れて有利だ」
「昨年我らを苦しめた川を、今度は存分に活用してやろうというのか」
「まあな」
高星がにやりと笑う。
「全く、お前は妙な所を根に持つな。川に意趣返しをするとは」
「やられっぱなしは癪だろう?」
「だからと言って、自然現象相手にやり返す者など、見た事が無い」
「人だろうが、自然だろうが、運命だろうが、私を舐めた代償は高く払わせてやらねばな」
エステルはやれやれと言うように肩をすくめて見せる。
「ではさっそく工兵隊に、いかだ製作の手配をさせる。
接収した馬の方はどうする? 本国に移送して、新たに部隊を編成するか?」
「いや、どうせすぐに戦力化できるものでもない。輜重隊に回して、軍隊というものに慣らしておけ。元々コルネリウス軍の軍馬になる予定だった馬だ、調教はほぼ済んでいるだろう」
「了解した。他には?」
「斥候を、セカタ川流域に重点的に配置して、敵の動きを捉えろ。籠城するにしても、一度は野戦をしてからと考えるはずだ。多分、どこかで出てくる」
「ミタク城を、操に張らせておこう」
「そうしてくれ」
高星が地図に目を落とした。ミタク城。落とす方法を、昨年日負け戦以来、ずっと考え続けた。
ミタク城を落とせば、コルネリウス軍の軍事拠点は失われ、安東軍が長けるのは野戦だけ、という評価は覆る。
なんとしても、城を落とさなければならない。城を落とせる軍だということを示して初めて、敵を大会戦に引きだせる。
そこまで行って初めて、高星の戦略は完遂されたと言えるのだ。




