6・ジャンの在り方
疲労の極みに達して、畳の上に大の字になった。
ジャンはつい先ほどまで、高星の調練に付き合わされていた。それも、どういう訳か歩兵の中に組み込まれ、五人組の班長として、装備の手入れ、炊爨、宿営など、戦闘行動以外の全てを指導する立場をいきなり任されて、四苦八苦した。
どうしてこんな事になったのかと考えたが、ひょっとしたら昨年の敗戦の影響かもしれない。
あの敗戦の影響として、安東軍の歩兵には圧倒的に将校が足りていない。第三大隊がほぼ壊滅した影響が大きく、帝都からワイズマン伯爵家の次期当主ドゥルーススが、客将と言う形で新たな第三大隊長に就任したくらいだ。
ドゥルースス・ワイズマンの力量はとりあえず問題無いらしいが、大隊長以下の将校が不足している事態には変わりが無い。
その不足している将校の補填として、ジャンを小隊長程度が務まるくらいには育てようという腹積もりなのかもしれない。
いくら何でも無茶があるとは思うが、高星がやれと言えば、拒否権は誰にも無い。それに、そうと決まった訳でも無い。
しかしいきなり班長として猛訓練に放り込まれ、激務にダウンした事には変わりない。仰向けに倒れてみると、もう立ちあがる事はできそうになかった。
「うわっ! ジャンさん、そんなところで寝ていたら、踏んじゃいますよ」
操が片足を上げたまま、ぴょんと後ろに跳ぶ。
「あー、操ちゃんか。ごめん。でももう起き上がれそうにない」
「しっかりしてください! はら、起きて」
操に支えられて体を起こし、部屋の隅の方へ移動させられる。
「こっちなら寝てても踏まれませんから」
「いや、悪い。操ちゃんは甲斐甲斐しいねぇ」
「介護老人ですか。人の邪魔になるといけないから、追い払っただけです」
「冷たいな。紅夜叉が寝てても同じことを言うのか?」
「あいつは特別です」
「真顔で言うんだ。良く解らないけど」
操が意味を計りかね、小首をかしげる。
「操ちゃんって、紅夜叉の事になると目の色が変わるよな」
「当然です」
「そういう事をサラッと言っちゃう辺りも、多分普通の関係じゃないぞ」
「普通じゃありませんから」
ジャンと操で普通ではないの意味が違うと思ったが、それ以上の追及は避けた。
「まあいいさ。操ちゃんがそれでいいと胸を張っているのなら、むしろ羨ましいくらいだ。俺は、胸を張る様な事が無いからなぁ」
「私に言わせれば、ジャンさんも高星さんの仕事を、ずいぶん甲斐甲斐しくこなしていると思いますけど」
「有無を言わさず。やれ。出来ろ。だからな、棟梁は。できませんは受け付けてくれない」
「割り当てられた仕事が、できなかった事があるんですか?」
「うーん。ごくたまーに、かな。出来る出来ないを見極めての割り振りが、棟梁は凄いから」
割り当てられた仕事ができるジャンも、十分大したものだと操は思った。しかしジャンは、できる程度の仕事しか割り当てられていないのだから、できても大した事は無いという認識のようだ。
「ま、俺には操ちゃんの様に、誰かに尽くして胸を張れるような事は無いから、羨ましいよ。そんな余裕もない」
「別に羨まれる様な事じゃありませんけど。称賛は受け取っておきます。私はもう行くので」
「おう、頑張れよー」
横になったまま、ジャンはひらひらと手を振って操を送り、力尽きた様にぱたりと腕を下ろした。
◇
いくらか回復したので、街に出た。きつい調練をやり遂げた自分に、ご褒美の一つや二つ買ってもばちは当たらないはずだ。
そう思っていたら、思いがけず路地裏から出てきた紅夜叉と鉢合わせた。これは、一種のばちが当たったのか。
「おっ、おう……紅夜叉」
「なにをそんなに、挙動不審にしている」
「いや、最近あんまり話してなかったから……」
とりあえず声を掛けたが、どうにもぎこちない。
紅夜叉がジャンの脇を通り抜けて歩いて行く。やや躊躇って、後を追った。どう声を掛けようかとまごついていたら、向こうから何の用かと聞かれたので、腹をくくって尋ねた。
お前はどうして、何のために戦うのか、と。
自分が生きている実感を求めて。それが紅夜叉の答えだった。紅夜叉は生きている実感を、戦場で敵を殺したとき、快楽として感じるらしい。それしか、生きている実感が無いらしい。
生きるために恐怖を捨てたら、今度は生きている気がしねーんだ。そう紅夜叉は言った。何が起きても、何をしても、実感が無い。全てが遠くて、俺はただの傍観者だ。自分の生死すらな。と言葉を続けた。
ジャンにも、そういう頃があった。紅夜叉とは全く情況が違うが、高星と出会う前、全てに虚無的で、自分の死をも無気力に受け入れていた。
ただ唯一の例外が、あの場所から逃げ出した事だ。今でも、良く逃げる気を起こして、行動に移したものだと不思議に思う。
ジャンと紅夜叉の違いは、ジャンは死んでもいいやと言う諦めに行き着き。紅夜叉は、死ぬならばせいぜい、思う存分快楽を味わって死ぬ、と考えた事だ。
根本にあるものは多分、同じく生きる事への諦めだ。ジャンは高星と出会って、そこから抜け出した。まだ多少顔を覗かせはするが。
だが紅夜叉は、特に最近の紅夜叉は、生きる事を諦めるどころか、積極的に捨てて掛かっている様に思える。
自殺願望など、紅夜叉には最も似つかわしくないもののはずだが、実際紅夜叉は、死に向かって突っ走っている様に見える。
もっともそれは、人間の観点から見ればだ。紅夜叉は、夜叉を極めるつもりかもしれない。人を捨てて、完全に夜叉になる事を決めたのかもしれない。
それは長い間、操が必死に踏みとどまらせていたもののはずだ。しかし紅夜叉が、自らの意思で人として死に、夜叉としてのみ生きるというならば、誰にも止められはしないだろう。
止めるべき、なのだろう。それが正しい選択なのだろう。
しかしジャンには、今の紅夜叉にある種の畏怖と言うか、信仰の様な感情を抱いている。
紅夜叉に、夜叉を極めて欲しい。人を捨て、極限まで堕ちて欲しい。
その先の、最底辺の地獄で紅夜叉はなお、いや、むしろ今以上に強烈な存在感を放つ気がする。
それを間近で見たとき、きっと自分の中の何かが救われる。身勝手だが、そんな予感がするのだ。
堕ちる事を極めた者は、存在するだけで人に救いを与える、ある種の神ではないのか。紅夜叉は、神に成ろうなど微塵も思っていないだろう。しかし、神に行き着くかもしれない。
止めるのが正しいのだろう。しかし止めない方が、誤った方が、きっと救われる。そしてこのまま放置すれば、紅夜叉はきっと堕ちて行く。
その在り方を、認めるべきか、認めぬべきか。ジャンには、解らなかった。
◇
「ジャン!」
不意に呼び止められた。イスカだ。そう言えば最近、イスカともどこかぎこちなくなってしまった。
振り向くとイスカが駆け寄ってくる。流石に鍛えているだけあって、息は乱れていない。
「イスカ、急用か何かか?」
「急用……ああ、急用だ。今すぐ君に言わなきゃいけない事が有る」
「聞こう」
重大事なら、ジャンではなく高星辺りに言うべきはずだと訝しむが、聞けば解るだろうと思った。
「ジャン! 君と言う奴は、諦めが早くて、自信が無くて、自分を卑下して。自分が居る事の意味を全く理解して――」
「ま、待った待った! それ、今言わなきゃならない事か!?」
「今しか言えないかもしれない! 明日にはもう、言いたくても言えないかもしれない!」
イスカの赤い目が、射抜く様な視線をジャンに向けてくる。真剣だという事が、はっきりと伝わってくる目だ。
「……解った、続けてくれ」
「君は、自分の価値を解っていない! 君が居る事が、私に、私達にとって、どれだけ大きいか自覚が足りない!」
「まあ、反論はできないな」
「君がどんな過去を持っているか、私は知らないが、知った事じゃない! 今の君は、私達の大事な仲間で、安東家にとってなくてはならない人間だ!」
仲間と言われて、あまりの気恥しさに茶化しそうになったが、イスカの顔が紅夜叉に挑むとき並に鬼気迫るものだったので、言葉を飲み込んだ。
「目立たないが、戦が起きる前、棟梁様の下で必死に君が裏方仕事をしているのは、みんな知っている。そんな君は十分私達の誇りなんだ」
「俺でなくてもできる仕事だ」
「それでも今それをやっているのは君だ。君の働きがあるから、私も紅夜叉も操ちゃんも戦える。君は自分の存在の大きさを、ちっとも解っていない」
「なら、それを解って、どうしろと?」
ジャンがやや顔を背けながら聞く。
「そんなものは知るか。私は、自分の思いを君に伝えただけだ」
「おいおい」
「でも……君は誰も憐れまず、理解してくれた。私の事も、人としての生き方が良く解らなかった私にも、寄り添って、理解を示してくれた」
「まあ、俺もずっと道具で、人としての生き方なんて解らなかったからな」
「私だけじゃない、はずだ。みんな、それに凄く救われる思いがしたはずだ」
それは、買いかぶりすぎた。救われたのはむしろ自分。眩しいくらいに自分の生き方を持っていて、それでいてどこか自分と通じる弱さや破綻を持つここの連中に、ジャンこそどれほど救われる思いがしたか、解らない。
「それを伝えておきたかった。それだけだ。後は、君の問題だろう」
「全く、言いたい放題言ってくれて」
「相談があるなら乗るさ。役に立てるかは解らないけど」
「お前に相談するほど落ちぶれちゃいねぇよ、泣き虫イスカ」
「……今日は、見逃してやる」
そう言ってイスカは、踵を返して去っていった。
◇
自分がどうしたいか、何をしたいのか、どう在りたいのか。それは解らない。
それでも、胸を張って生きているここの奴らを見ているのは、何か気分が良い。
例えばイスカ。ほとんど夢物語に近い理想を持ち、何度もそれを挫く現実に直面している。腕は立つくせに、実は泣き虫弱虫で、そのくせ何があっても逃げずに正面から向き合う。
何があいつをそこまでさせるのか、それはジャンには解らない。無理をするな、そう言ってやりたくなる。
しかしイスカには、その言葉は必要ない。無理ではなく、覚悟で現実に立ち向かっている。
見ていて眩しいと思う。そして、その理想に届く時が来てやって欲しいとも思う。世の中が非情で理不尽なのは百も承知。それでもやはり、美しい理想を追い求める健気な少女には、良い結末が待っていて欲しいと思う。
もし自分が、そのためにほんの僅かでも寄与できるのならば、自分はそれをしたいと思うのだ。
例えば操。彼女の世界のほとんどは、紅夜叉の存在が占めている。それが当たり前になりすぎて、自覚すら無い様だ。
ただ一人の相手を特別と言い切り、普通の関係ではないと認める。しかも操と紅夜叉の間にある体験の強烈さは、恋する乙女など足元にも及ばないだろう。多分。おそらく。なんとなく。
それほどまでに誰かに尽くし、捧げる。それもまた、見ていて尊敬の念を湧き起こす。
そこに自分の入り込む余地など有るはずも無いが、二人の世界の脇役くらいでは居たいと思う。
居なくても支障はないが、居れば少しだけ応援できる。そんな存在として、応援したいと思う。二人の関係が、常軌を逸しているからなおさらだ。
紅夜叉。最強で最凶で最狂な、ぶっ壊れた人でなし。そんなあいつの悩みと言うか、命題は、自分が何者かと言う事だ。
自分が何者か解らない。それどころか、生きている実感すらほとんどない。それをずっと探して彷徨っている、自称・生ける屍。
紅夜叉はあまりに鮮烈だが、抱えている悩みは強く共感できる。自分が何者か、はっきりと自分でも言えない。自分は今生きているという実感が、あると断言できない。
ジャンも同じだ。自分は何者だ。心から生きていると思えるか。
ただ紅夜叉の中には、狂気が渦巻いている。それが大きな違いだが、それだけがジャンと紅夜叉の違いだとも言える。
紅夜叉と自分は、実は近いのだ。そして自分と根本的に同じ悩みを背負っている紅夜叉は、目が眩むほど鮮烈に、自分の生を生きている。
自分にはとても真似できない生き方だ。だからこそ、強く憧れる。そして、裏方でもいいから、自分も己の生を生き切ってみたいと思わせてくれる。
強く、激しく、眩しく生きているあいつらを見ていると、自分にも何か、力強い生き方をできるのではないかと言う希望が湧いてくる。
それを与えてくれた、彼らの生きざまを支えたいと思う。その生き様を、彼らに貫いてほしいと思う。
彼らに、胸を張って生きていて欲しい。それが、ジャンが唯一自分で抱いた思いだ。自分がどうしたいかは解らないが、彼らには、彼らの生き方を貫いてほしい。そしてその様を、傍近くで見ていたい。
もしそのために何かが出来るなら、裏方でも、脇役でもいい、彼らの生き様を、在り方を、支えたい。
それが、強いて言うならば、自分の在り方、と言えるだろうか。




