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流刑人形の哀歌  作者: 無暗道人
それぞれの在り方
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5・イスカの在り方

 安東(あんどう)家を覆う空気が変わった。いや、変わったのは、イスカの周囲の人間関係だけなのかもしれない。

 どちらにしても、イスカにはあまり違いの無い事だった。問題は、変わり方が悪い方へ向かっている気がしてならない、という事だ。

 全ては、紅夜叉(べにやしゃ)に集約される。紅夜叉の中で何かが変わり、それが周囲も変えている。

 いや、それだけではないだろう。昨年秋の負け戦をきっかけにして、今まで表沙汰にならなかった何かが、微妙な噛み合せの悪さの様なものが、表面化した。そういう事だろう。

 あれ以来、紅夜叉はイスカと手合せをする事が無くなった。以前ならば、面倒臭がりながらも相手になっていたのに。

 いや、それ以前に、イスカの方で紅夜叉に挑みかかろうという気が起きなくなった。事あるごとに紅夜叉の態度や物言いに反発を覚え、今日こそはせめて一矢報いて解らせてやる。そういう気持ちが、今の紅夜叉に対しては全く湧かないのだ。

 今の紅夜叉は、見ていてひたすらに空っぽだ。何もかも、通り過ぎていくだけのものとしか感じていない。

 挑んだところで、全く張り合いがないというのが、挑む前から解る。だから、挑む気すら起きない。

 そんな紅夜叉に、以前と同じように、いや以前にもまして甲斐甲斐しく尽くしている操を見ていると、悲しくなってくる。

 操が可哀想だというのではなく、何の反応も返さない、気付いてすらいないかのような紅夜叉に、それでも尽くし続けているのを見ていると、もういいのだと言いたくなる。

 しかし、何がもういいのだろう。あの二人の関係を、本人達以上に解っているなどとは、とても言えない。

 それに、人と人とがどういう関係でいるべきか、自分にもまだ解らないのだ。ましてやあの二人の様な、特殊な二人の関係がどうあるのが望ましいかなど、考えても全く解らない。

 それでも、見ていてただ痛々しいのだ。

 今の紅夜叉と操に対して、どう接したらいいのか解らない。それは自分だけでは無いようで、ジャンなども、どこかぎこちなくしている。

 紅夜叉に一番近いのは、操を除けばジャンだと思っていた。男同士だからか、ジャンが紅夜叉にど突きまわされながらも、一番砕けた仲だと思っていた。

 それも、今は違ってしまった様だ。今の紅夜叉は、あからさまな殺気を向けて威嚇してこない分、ある時突然、本当に殺されそうな怖さがある。そうジャンは語っていた。

 ジャンとの関係も、紅夜叉ほどではないが、何か隙間風が吹いた様なものになった。突然共通の話題が無くなってしまったような感じで、会話も途切れがちなのだ。

 紅夜叉が変わった事で、かつて同じ屋根の下で過ごした仲間が、バラバラになり始めたと感じる。このまま自分達は、本当にバラバラになってしまうのだろうか。たまたま同じ所に属するだけの、ただの他人になっていくのだろうか。


 まるで紅夜叉が全ての元凶であるかのような事を考えたが、イスカ自身にも原因はある。原因と言うより、負い目か。

 昨年の負け戦で、イスカは撤退する歩兵と同行して退いた。負傷兵を多く抱える歩兵を守る、最後の盾。高星(たかあき)にはそう言われ、彼らは自分が守るのだと決心した。

 結果を言えば、高星自身の活躍と、ジャンと操、それに高星が新たに雇ったという渡りの者達の働きによって、歩兵部隊に敵が迫る事は無かった。

 それは喜ぶべき事なのだが、イスカだけが何もしなかったという結果が残った。それが、どうしても負い目として感じてしまうのだ。

 撤退戦で何もしなかったのは紅夜叉も同じだ、などと思っても始まらない。あの時紅夜叉は、怪我をしていた。

 その怪我をした紅夜叉を救出したのは、イスカだ。だから撤退戦より前に働きをした、と言う事もできる。

 それでもやはり、負い目の様なものが晴れないのだ。理屈ではなく、感情として後ろめたいものが消えない。

 負け戦と言う事実が無ければ、同じ情況でも負い目など無かっただろう。負けた、負けてしまった。それが、気に病む必要の無い事を気に病ませている。イスカにはどうしようもない事だというのに。


     ◇


「あら、イスカちゃん?」


 鈴を転がした様な、透き通った声。

 その姿を久しぶりに見た様な気がした。砂金を流したような長い髪、鈴を張った様な丸い瞳が、優しくイスカを見ている。


銀華(ぎんか)さん」

「こんな所に居るなんて、珍しいわね」

「そうかな?」


 安東家の屋敷が建つ丘の北、軍港近くの海が見える高台だ。言われて見れば、珍しいかもしれない。

 紅夜叉やジャンと顔を合わせても、何か居心地が悪いので、最近はあまり足を踏み入れた事のない場所に、つい足が向かっているかもしれない。


「確かに、珍しいかもしれない」

「誰かと喧嘩でもした?」

「まあ……そんなものかな。銀華さんは、散歩?」

「お散歩も兼ねて、高星にお弁当を届けて来たの。今日は軍港で、新しい船を見ているみたい」

「お弁当って、まだ大分早い……。ああ、そうか。棟梁様は、朝に弱くて朝ご飯を食べられなかったっけ」

「でもみんなの話を聞く限り、戦場に行くとしっかりしているみたいだから不思議ねぇ」


 イスカが乾いた笑いを返す。確かに高星は、どういう訳か戦のときだけ朝に強い。


「寂しかったら、また一緒に寝てあげてもいいのよ?」

「なっ……もう子供じゃないんだ、そんな事はしない!」


 不意にそんな事を言われ、思わず強く否定した。イスカの顔に朱が差す。


「それならいいけれど。最近皆一人でいる事が多いから、特にさみしがりやのイスカちゃんなんかは心配で」


 他の誰かにさみしがりやと言われたら、ムキになって反論の一つもしていただろう。しかし、銀華が相手ではそれも出来ない。なにせ、銀華の布団に潜り込んだ事が有るのは、事実なのだから。


「……確かに、最近皆との距離はあると思う」

「距離を、イスカちゃんから詰めようとはしないの?」

「今の皆と距離を詰めても、どうしていいか分からないんだ」

「でもだからって、本当にそのままで良いの?」


 イスカが黙り込む。良い訳が無い。それでも、なら自分から皆に近づいて、離れてしまった距離を縮める、とはとても言えない。


「もう春で、忙しい時期もそろそろ終わるわ。それがどういう事か、解っているでしょう?」

「解っている」


 農繁期が終われば、戦が始まる。イスカも、紅夜叉も、操も、ジャンも、皆また戦場へ向かう。


「イスカちゃんは、誰にも悲しい別れ方をして欲しくは無いのよね」

「笑って別れられない事が、多すぎた」


 誰も彼も、思いがけずイスカの前から去ってしまった。伝えたい事を、伝えられなかった事も、数えきれない。


「私も、その気持ちは良く解るわ。何気なく掛けた言葉が、最後の言葉になるかもしれない。うっかり酷い事を言ったのが、永遠のお別れになるかもしれない。それが、たまらなく怖い」


 銀華も、イスカと似た様な過去を持っている。銀華は娘に、最後に何と言葉を掛けたのだろう。


「だからいつだって、思いは余す事無く伝えなくちゃいけない。今しか無いかもしれない。今が最後の機会かもしれない。私はそう思うの。

 今私は、自分の思う事を全部話したわ。イスカちゃんは、どう思うの?」

「私は……」


 昔の、大事な友達に、最後に何と言葉を掛けただろうかと思った。

 言葉は思い出せない。だがあの時イスカは、友達を心配させまいと、目に涙を一杯に浮かべて笑っていた。

 それが、全ての原点だ。あの時からイスカの物語は、ようやく始まった。

 今このままでいたら、自分はきっと後悔する。あの日誓った事を守れなかったと。


「ありがとう、銀華さん。私は行く」


 行って、どうすればいいかも解らない。それでも行かなくてはならない。


「頑張って。辛くなったら、いつでも帰ってきていいからね」


 銀華の声援に笑顔を返し、イスカは走り出した。


     ◇


 イスカは思う。自分の過去は、決して恵まれているとは言えないかもしれない。しかし、過去の経験が、記憶が、自分を縛る鎖かと問われれば、それにははっきりと否と答える。

 自分は一度、大事なものをいくつも失った。そこだけ見れば、自分の過去は悲惨で、もう二度と傷つかない様に、誰とも関わらずにいたいと思うかもしれない。

 でも、十のうち九が真っ暗な絶望だとしても、一つだけ輝くものがあった。人を信じた事。人に信じてもらえた事。誰かの気持ちが解ると言う事。それに応えると言う事。

 そこに光を当てれば、自分の過去は、自分に力をくれる。

 過去は変えられない。それでもどの思い出を見るかは選べる。思い出の意味は、選べる。

 今だって同じだ。あの負け戦以来、私達の関係はぎくしゃくしている。負けたという事実が重くのしかかり、悪い事ばかりを見てしまっている。

 それでも、あの負け戦の中で、私達は戦った。自分のために、仲間のために、皆のために。仲間として、支え合ったはずだ。

 ジャンは自分の過去と向き合って、その時の自分できる事をした。操は大事な人の傍に居るよりも、危険を冒して何かを成し遂げた。

 紅夜叉は、無様に負けても、助けられても、相変わらず気に食わない態度で、生きていてくれた。

 それぞれに必死で、今の自分にできる事をやった。それは、意識しなくても誰かの、仲間の、私のためになる事だった。

 私達は、お互いにお互いのために、生きているじゃないか。バラバラになんて、なりはしない。

 私達の手に与えられたものは、あまりにも少ない。むしろ辛い事、悲しい事ばかり多く積み重ねてきたのかもしれない。

 でも辛い事、悲しい事が有ると言う事は、私達は何も無い、空っぽな存在じゃないと言う事だ。

 何も無ければ、どうしようもない。何かがあれば、それが何であれ、そこから何かを引き出せるはずだ。

 辛い体験、悲しい過去が、そのまま自分の糧になるなんて甘い事は言わない。それでも、与えられたものには、何かの使い道があるはずだ。

 それは、過去に縛られないと言う事。過去は、どこに光を当てるかで変わる。思い出は、使い方次第で意味が変わる。

 今の私達を縛るものは、何も無い。誰にどんな過去が在ろうと、今の私には関係ない。

 今の私にとって、紅夜叉は生きる事をめんどくさがって、何もかも放り捨てようとしている馬鹿野郎だ。一遍殴ってやらなきゃならない、馬鹿な仲間だ。

 操は紅夜叉に対して盲目的過ぎだ。本人はきっとすごく嫌がるだろうけど、一度紅夜叉と別れて自分を見つめ直すべきだ。そのときは役に立てるか解らないけど、相談には乗ってやれる。

 ジャンは、あの諦めの早くて自分に自信が無い奴は、どうして自分が高星に気に入られているか、良く考えてみるべきだ。

 一番大事な時、裏方として一番大事な所を支えてきたのは、他ならぬジャンだ。そして誰よりも、高星の、みんなの欠落を、憐れまずに理解している。

 それが、この場所に流れ着いた私達にとって、どれだけ救いになっている事か。

 どいつもこいつもめんどくさくて、しょうが無くて、愛おしい、仲間達だ。でもだからと言って、その関係が壊れる事を恐れて、傷つく事から逃げて、そのせいで後悔するのは嫌だ。

 私は逃げない。進むのは後ろじゃなくて、前だ。言い訳には逃げない、行動で前に進む。それがどんな茨の道でも。

 今それを改めて心に決めた。それが自分の、イスカの在り方だ。

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