2・紅夜叉の在り方
道に迷っていた。
当ても無くトサの城下を歩き回った。ただじっとして居るのが苦痛だったのだが、どこをどう歩いたのかも記憶にない。気付けば、どこか解らぬ裏路地を歩いていた。
紅夜叉は舌打ちをして、辺りを見回した。建物の壁が迫っていて陽も差さず、目印になる様なものも見えない。
適当な足を掛けられるところを探して、屋根の上に跳び上がった。構う事は無い。住人も、カラスでも屋根に止まったくらいにしか思わないだろう。
丘の上に建つ、政庁の建物を確認して、大通りの方へ歩いた。それほど道に迷う性質ではない。目印さえ確認すれば、すぐに抜け出せる。
たまらなく不愉快な気分だった。道に迷った事ではない。道に迷うほどになった事だ。
迷走している。そうとしか表現しようが無かった。紅夜叉の心は乱れ、思考もまとまりが無かった。それに合わせて、太刀筋までが乱れているのが、たまらなく不快だった。
自分の在り方が揺らいでいる。それに否応なく気付いたのは、昨年秋の戦だった。
コルネリウス軍連環鉄騎隊隊長、ヨウユウ。関北虎の異名を取る、変州最強を謳われた武人との一騎打ちで、紅夜叉は敗れた。
無様な負け方だった。負けた事自体はどうでもいいが、負けたのが、自分の太刀筋が乱れていた事にあるのが、我慢ならなかった。
負けて死ぬならそれでいい。だが死ぬとしても、自分として生き切って死にたい。そうで無ければ納得がいかない。
人がいつ死ぬか、どんな死に方をするかは、どうにもならない事だ。だからこそ、自分の力で動かせる部分だけは、納得が行く様に生きて、死にたい。
それすら叶わなかったら、何のために自分はここに居るのだ。世の中も人の運命も、手の届かない所で決められている。人の意思など無意味で、容易く押し潰される。
だが太刀筋だけは、自分の思い通りになるものだったはずだ。それすらも自分の手から離れようというのか。人の意思は、限りなくゼロに近いというのか。
そうではない。太刀筋が揺らいだのは、自分が揺らいだからだ。あの一戦は、それがついに目に見える形になって現れた、というだけの事に過ぎない。
自分は何であるのか。解る訳も無い。目的があってこの世に生を受けた訳ではない。紅夜叉と呼ばれ、鬼と恐れられ、鬼畜畜生と蔑まれたが、どれ一つとして、自ら望んだ訳ではない。
自分がなんであるかなど、考えた事も無い。何かになろうと思った事も無い。そんな意思は、持つ前に容易く打ち砕かれた。戦場は、一個人の意思など顧みなかった。
そんな戦場が自分の生まれ、生きた場所なのだ。他の生き方など、知らない。どこに居ても、絶えず戦場を求め続けていた。
空気の様なもので、戦場から長く離れていると、どうにも苦しくて仕方が無いのだ。
それは変わらないが、今は戦場に立っても、以前とは何かが違うと感じる。何かは解らない。解れば、こんな事は考えもしない。
安東家に来てから何かが変わり始めた。多分そうなのだろう。
なぜ蒼州の戦野を離れて安東家に身を寄せる気になったのか。自分でも、今も良く解らない。
色々な大義と言う名のお題目を掲げる戦に、白けていたのは確かだ。だからと言って、次期当主だった頃の高星が言った、もう少しは意味が有る戦を始めて見せる、という言葉を、頭から信じた訳ではない。面白い事を言う、とは思った。
操が行ってみようと言ったから、かもしれない。行っても良いという気持ちはあった。積極的な意思ではなく、どこでもいいという無関心ゆえだったが。そこに操の一言が有ったので、なら行ってみようか、と思ったのかもしれない。
高星がクーデターを起こし、父親を殺し、当主の座を奪い取ったとき、離れたければ離れられた。しかし、ここに留まった。
戦の臭いがしたから。それもある。だがはっきりと悪を為すと覚悟を決めた、高星に付いていく事に、魅力を感じたのは確かだ。
それまでに見た戦はみな、戦う前にはあれこれと大義だ正義だをこねくり回し、戦いの後は人を殺した事を悔い、懺悔し、弔いを上げる。したり顔で、戦など良くないと説く者も居た。
だが一度戦場に立てば、誰も彼も血に飢え、血に酔い、武勲を求め、殺戮に酔いしれ、自分の強さを確かめ、勝利の喜びに浸っているのだ。
それを隠し、目を背け、そんなものは無かったように振る舞い、ただ戦は悲劇でしかなった様に言う連中に、白けきっていた。
人を殺した瞬間に感じる陶酔は、自分だけが感じているものではない。ならば何故それを、認めようとしないのか。認める事を拒むのか。認めた俺を、鬼と蔑むのか。
だからはっきりと悪を為すと告げた高星に、近いものを感じて、付いて行ってみようと思った。ただやはり、高星も同類ではない。自分の同類など、存在しない。
そもそも自分がなんであるのか解らないのに、同類も何も無い。
自分は誰で、何のためにここにいて、何をしたいのか。
紅夜叉。それが今の名だ。そういう名で呼ばれる様になって、そうか、自分は紅い夜叉か、と思った。
そう呼ばれるならば、それらしくして見せよう。そんな考えで、赤い装束を好んで身に纏う様になった。戦場でよく目立ったが、それも悪い気はしなかった。
夜叉の方は、自分が今までしてきた様にすれば、それで良かった。長く自分は、文字通りの紅夜叉として生きてきた。
安東家に居つくと、妙な奴らが大勢居た。そいつらは俺の事をやはり紅夜叉と呼んだが、対応はそれ以前に会った連中とは、全く違っていた。紅夜叉と言う名は、単なる番号か何かの様なもので、そこにかつての様な畏怖や蔑みは無かった。
多分、その頃から何かが少しずつ変わり始めたのだと思う。そして、徐々に自分を見失って行った。
自分は紅夜叉だったはずなのに、紅夜叉と呼ばれながらも、紅夜叉として扱われなかった。それで自分が何者か、また解らなくなった。
俺は、誰だ。
自分は何のためにここに居るのか。戦をしたいだけなら、ここに居る必要は無い。天下は騒然とし、どこもかしこも戦に溢れている。
ただ戦場に立ちたいだけなら、かつてのように傭兵として流れ歩いた方が、遥かに多くの戦場に立てる。いや、常に戦場で暮らすと言った方が近い。
それをせず、安東家と言う特定の勢力のために自分を使う。何が自分をそこまでさせるのか。
安東家から離れて、またどこか別の場所で戦いに明け暮れたとしよう。今と、何が違う。
安東高星と言う男が居ない。この上なく傑出した男だ。蒼州の歴戦の将でも、高星に匹敵する男は、片手で数えられる程度しか知らない。
それだけならどうでもいい男だ。むしろ、僅かだが自分に近いものを持っている男だ、という方が重要だろう。持っているではなく、欠けていると言うべきか。
欠落者。自分の中から、人間として致命的で大きな何かが欠落している様に、高星も何かが欠落している。
生きた人間の臭いがしない、とでも言おうか。どこか、精巧な人形であるかのように感じる事が有る。
それを感じ取ると、不思議と自分も心が静まるのだ。それが、高星と言う男にひかれる理由かもしれない。
だが心が静まるなど、かつては決して無かった事だ。心安らかな時など、一瞬たりともない。だから自分は夜叉で居られたし、夜叉であるしかなかった。
イスカが居ない。初めて会ったときから、自分には理解できない理由で、妙にしつこく食い下がってくる奴。
あれは自分とは真逆の存在だ。良くできた人形のような整った顔立ちや姿をしながら、挑みかかって来る度に、生きた人間の臭みを強めている。人でないものが、人になっていく過程を見ている様だった。
もちろんそれは、何度も自分に挑みかかって来る事が理由ではないだろう。自分に挑んだところで、得る物など有るはずも無い。
それよりむしろ、初めは相手をするのも面倒くさかったのが、いつしか心のどこかで、イスカの挑戦を心待ちにしている自分がいる方が、問題だった。
これまで自分が、数えきれないほど重ねてきた戦いとは、全く違う。叩きのめしても、殺さず、何度も何度も再戦する戦い。
それを心待ちにするなど、信じられないし、あってはならない事だった。戦場での殺し合いで、その甘さがうっかり顔を出したらどうなる。
肩に手を当てた。昨年秋の戦で、ヨウユウに斬られた傷だ。もう薄い痕が残るだけになり、痛みも無い。
これがその末路だ。だから、イスカとの戦いは止めた。全て振り切って、殺す気の一撃を加え、決別した。あれ以来、言葉を交わす事も、最小限にしている。
殺す気の一撃だったが、防げるだろうとも思っていた。本当なら、防ぎきれないほどの一撃を浴びせる事も出来たはずだ。それをしなかった。いや、できなかった。やはり、何かが揺らいでいる。
ここに居ついてから出会った者達は、いずれも自分を紅夜叉では無いものにしていくようだ。
なのに自分は、何故ここに留まっているのだろう。紅夜叉ではない何かになる事を、心のどこかで望んでいるのだろうか。紅夜叉以外の生き方が、自分にできるのか。
路地から大通りに出た。出たところで、見知った気配と鉢合わせた。
「おっ、おう……紅夜叉」
ジャンがぎこちなく挨拶をしてくる。
「なにをそんなに、挙動不審にしている」
「いや、最近あんまり話してなかったから……」
ジャンの目が泳いでいる。まあ、当然と言えば当然だろう。このところ、可能な限り誰とも口を利かない様にしている。
それこそが自分、紅夜叉らしいはずだ。そう思っての事だが、本当は何か言うと、揺らいでいる自分の心を知られてしまう様な気がするからでもある。
自分の心が揺らいでいるなど、許せない。ましてやそれを人に知られるなど、絶対に看過できない。
ジャンの脇を抜けて、通りを行く。当てはない。どこへ向かっているのか、どこへ行きつくのか、自分でも解らない。
ジャンが付いてくる気配があった。無視してしばらく歩いていたが、離れる様子が無い。
「何の用だ」
振り向かずに聞いた。
「いや、その……」
「言え。言わないなら、失せろ」
「紅夜叉、お前はどうして戦場に立てる? どうして、なんのために戦える?」
つまらない問いだと思った。
「戦場に在りたいからだ。戦って、殺して、そしていつの日か、殺されたいからだ」
「答えになってない」
「なに?」
「お前はどうしてそう思うのか。それが無いと、答えになってない。違うか?」
そう思ったからそうするのだ。それだけでは足りないという事か。なぜそう思うに至ったか。それが無ければ理由にならないという事か。
「それを聞いて、お前はどうする。何のために、そんな事を聞く」
「去年の負け戦のとき、俺は一目散に逃げ出した」
ジャンが少し俯き、顔を背けて、訥々と語り始めた。
「その後色々と工作に動きはしたが、結局俺は、命まで賭ける覚悟で自分から動く動機が、無かったんだ。俺はまだ、命令された通りに動く道具から、変わっていなかった」
紅夜叉は背を向けたまま、黙ってジャンの告白を聞き続けた。
「お前は、誰の命令も受けず、誰の道具にもならず、自分から命を賭けて戦い続ける道を、選び続けて来たんだろう」
「少し違うな。命を賭けて戦い続ける。他に生きる選択肢など無かった。まあ、死んでもいいのだが、それは何か癪だからな」
「でも今は違う。今は、わざわざ戦場に立たなくても、操ちゃんと二人で生きていけるだろう。棟梁なら、そうしたければ、そういう生き方をできる様にしてくれるはずだ。それでもまだ戦場を選ぶ理由は、なんだ?」
そうかもしれない。確かに高星ならば、操と二人で静かに暮らす道を望めば、それを用意してくれるだろう。
だがそんな生き方は、考えられなかった。それを、生きているとは思えない。なら自分は、なぜ戦場を望むのか。
つまり自分は、どうしたいのか。
「これは確か、イスカには言った事なんだがな」
紅夜叉が少しだけ首をそらし、どこか遠くをぼんやりと見るような眼をする。
「戦場で生き残るのに必要なのは、体力でも、武芸の腕でもない。恐怖に支配されない事だ。恐怖に囚われて、体が動かなくなると、どんな達人でも死ぬ。
だから俺はな、恐怖なんてものは、一番最初に捨てた。生きるためにな」
「良く解るよ。お前には恐怖ってものが、まるでないって事が。
俺は、どうしても怖い。少し前までは、もっと無頓着で、何があっても怖いとは思わなかった。でも今は、未練が出来ちまった。死にたくないと思う様になった。そしたら、死ぬのが怖くなった」
「人殺しが、今更殺されるのを恐れるか。虫が良いな」
ジャンが黙り込む。自覚の有る、痛い所を突かれたのだろう。構わなかった。他人の感傷を、気にかけてやらねばならない義理は無い。
「恐怖を捨てた、いや、恐怖と言うものが、俺の中で壊れて無くなった。それは生きるためだったはずだ。意思じゃなく、本能として、生きるために必要な措置を取った。
ところがだ、生きるために恐怖を捨てたら、今度は生きている気がしねーんだ。何が起きても、何をしても、実感が無い。全てが遠くて、俺はただの傍観者だ。自分の生死すらな」
「つまり、生きている実感を探して、戦場を彷徨っていると?」
「そんな格好良いものじゃねーよ。ここに居るけどここに居ない、俺はただの、生ける屍だ。それがただ刹那の快楽を求めて、殺し回っているだけだ」
「どうして殺す事が、快楽になる」
「さあ、自分でも解らねーな。ただひょっとしたら……」
「ひょっとしたら?」
「相手を殺したとき、返り血の熱さでそいつが生きていた事が確信できる。その熱さを感じているとき、感じている自分がここにいる事が解る。その時だけ、生きている実感を得られるから、かもな」
ジャンはそれに、一言も返してこなかった。
自分の生きている証を感じる事だけが、快楽。そしてそれを感じるときが、殺し合いの果てにしかない。
ならば自分は、殺し続けるしか生きられない。返り血を浴び続け無い事には、自分の存在を確認できない。
それはまさしく、返り血で濡れた赤鬼。紅夜叉の在り方だろう。




