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第4節13日。安東高星率いる一行六十名は、帝都南方にあるルー川の渡河点であるジウ橋を無事に渡ることができた。ここから帝都までは一直線である。
最短距離でガルツの港まで戻るならば、ルー川に沿ってそのまま東に向かう方が早かったが、やはり帝都の、つまり北朝方の出方を少しでも窺っておきたかった。
「ここまでくれば大丈夫だろう。多少検問が厳しいくらいで、長期間足止めされる事は有るまい」
神嶺越えという難事を成し遂げた一行には、誰の顔にももはや危機は乗り切ったと言う安堵が浮かんでいた。
高星もそれを咎める様な事はしない。贔屓目に見ても、帝都近郊が戦場になる可能性は低く、なったとしてもだいぶ先の話であろう。それまでこの近辺は安全地帯であり、街道の封鎖などが起こる理由は無い。
危機を乗り切ったのは事実。それが一致した認識だった。
「棟梁、向こうに土埃が立っています」
ジャンが指差す先には、なるほど土埃が立っていた。高星の眼にはそれが、軍勢が立てるものだという事が解った。
「数千以上はいる様だな。まだそれほど急を告げる様な事態では無いはずだが」
「演習ではないのか? 戦が近いとなって、急遽演習で兵の動きを確かめているのだと思うが」
エステルの言葉に高星も同意した。しかしそれを言葉にはせず、しばらく土埃を眺めて何やら考えている風を見せた。
「ちょっと近づいて、見物してみるか」
「おい高星、こんなときに寄り道などしている場合か」
「なに、大した時間は取らんだろう。それに軍勢の規模からみて、相当な格の指揮官が率いているはずだ。北朝上層部の指揮官の実力を偵察しておくのは、無駄では無かろう」
エステルはまた悪い病気が出たな、という顔をしてあっさりと引き下がった。すでに諦めているとも言う。それに高星の言う通り、北朝の有力な将軍格と思われる人物の力量を測るのは、またとない機会だった。
◇
高星一行は、丘の上に登って演習中の軍勢の様子を見下ろした。見咎められぬよう、丘の稜線の陰にはいる様に陣取った。
軍勢が二手に分かれて演習を行っていた。兵力は合わせて一万は居るだろう。思った通り将軍級の指揮できる数だった。
高星も将軍職を持っているが、高位高官を乱発した南朝のそれと違い、北朝の将軍職は一万以上の軍勢を直轄する高官である。そう何人も居るものでは無い。
「あれは、禁軍だな」
高星がつぶやく。軍勢は黒地に黄色で稲妻を描いた旗を掲げていた。帝室は家祖として大地と豊穣の女神を祀っている。黒も黄色も大地を表す色で、稲妻は豊穣神の権能とされるものだ。
故に帝室の直営軍である禁軍と近衛軍は、黒地に黄色い稲妻を象った軍旗を掲げている。
「かなり鍛え上げられた兵だな。指揮も悪くないようだ」
高星は演習の様子を見てしきりに感心している。
「ううむ。あの一万を敵にするなら、精鋭が三千騎欲しい所だな」
高星はすっかり演習に見入ってしまい、ときおりそこだとか、駄目だとか、つぶやいている。そのため、背後から近づく一団に気付いたのは、エステルの方が早かった。
「そこの一団、動くなっ!」
鋭い声にジャンが振り向くと、二騎の騎士が剣を抜いてこちらを睨んでいた。その背後で一騎がどこかへ駆けて行くのも見えた。エステルをはじめ何人かはすでに武器を手にして、高星を守る様に陣取っている。
「私どもは怪しい者ではございません。帝都に向かう途中の商人でして――」
ジャンが以前高星がやっていた様に、商人を装おうとして前に出ながら言った。たちまち騎士の一人がジャンに切っ先を向けたので、ジャンは慌てて飛び退くしかなかった。
「お前らが何者かは、閣下の前に引き立ててから聞く。抵抗すれば、大隊の追撃を受けるぞ」
本気だという事が、殺気に近い気配から感じられた。皆が指示を仰ぐように高星を見る。
「これは仕方が無いな。大人しく連行されよう」
◇
高星達は陣幕が張られた、本陣と思しき場所の前に連行された。待つ必要は無かった。すぐにこの軍の将軍と思しき男が姿を現した。
「禁軍中将・ゼンツウ閣下の御成りである!」
傍に控えていた兵が言う。禁軍は総司令官である元帥の下に、大将中将少将の三将軍が置かれている。
ゼンツウ中将は、ナマズ髭が特徴的な男だった。気を抜くと笑ってしまいそうな顔だ。意外に若く、高星より少し年上の、三十歳前後に見えた。
若い事自体は何も不思議ではない。禁軍は長い間実戦とは無縁の部隊であったため、上流貴族の名誉職として扱われる事も少なくは無かった。
現に今の元帥も、武人よりも芸術家への助成で有名な文化人のはずだ。もっとも、これからはそれも徐々に変わっていく事だろう。
しかし目の前に居るゼンツウ中将は、上流貴族の出身には見えず、むしろ若くして叩き上げた武人という印象だった。服の上からも鍛え上げられた肉体が窺える。
「お前らが俺の軍を見ていたと言う者達か、何者だ」
若いながらも将軍であると言うのに、ゼンツウは俺という一人称を使った。あえて使っていると言う感じではない。
だがそれよりも、高星に向けるまなざしが、獲物を狙う猛獣のそれを思わせる容赦の無いものだった。
さらに言うと、高星以外には目もくれていない。高星がこの一団の長であるとは名乗っていないのに、そう確信している様だった。高星は顔役で、本当の主人は潜んでいると言う可能性は、無いと確信しているようだ。
これは誤魔化せない。そう観念するしかなかった。
「私は変州に領地を持つ、アンドウ子爵家当主タカアキ。後ろの者は全員我が家臣である。
諸用が有って各地を巡り、帝都に帰還する道中に貴公の演習を見かけたため、勝手に拝見させてもらった。非礼は詫びよう」
「アンドウ……。ああ、騒ぐしか能の無い宮中の貴族共が、蛮族だなんだと悪口を言っている、あのアンドウ家か?」
「どうもそのようで」
「敵ではないと言うならば構わん。邪魔さえしなければ見物も許す。裏でこそこそやるしか能の無い、宮中の愚図どもの手先だったら、流れ矢の一本でも当ててやるところだったのだがな」
ゼンツウは興味を無くしたようで、口調が急に投げやりなものに変わった。しかし高星の方が、この機会を逃すのは惜しいと思った。
「お待ちくだされ、何故我らを捉える事が出来たのでしょうか? 丘の稜線の陰に潜んでいたはずですが」
「戦で四方に斥候を放つのは当然だろう」
立ち去ろうとしていたゼンツウが足を止めて、事も無げに返した。
「二手に分かれて演習をしながら、斥候を放って周囲を探っていたと?」
「実戦ならば当然、目の前の敵以外にも警戒を払うものだ。演習で、側背から突然襲われる事が無いからと言って、周囲への警戒をしなければ演習をする意味が無い」
「御もっともな事です。軍勢の指揮といい、斥候の扱いといい、閣下は禁軍中将の名に恥じぬ将軍であらせられますな。
しかし、それだけ真剣な調練をなさると、色々とうるさく言われるのでは? 将軍はその、お若いようですし。貴族でも無い様に見受けられますが」
禁軍は名誉職化するほど実戦に遠かった部隊だ。だが帝都に最も近い実戦部隊でもある。その禁軍で名ばかりの将軍を横目に、厳しく兵を鍛える将軍が居れば、当然貴族達の反感を買うだろう。
当てこすりと受け取られるならまだしも、下手をすればクーデターを疑われる。
「まあ、元帥閣下にご迷惑をかけている事は自覚している。しかし兵を鍛えない軍など何の意味が有る。言いたい奴には言わせておけばいいし、もし何かあれば、俺が首を刎ねてくれる」
「兵の練度が素晴らしい事は良く解ります。その御歳でこれだけの軍勢を見事に指揮されるとは、驚くばかりです」
おだて上げながらも、この半分の軍勢も持てない我が身を思い、高星は少し羨ましいと感じた。
「元帥閣下に気に入られ、お引き立てを受けなければ、まだ大隊長辺りでくすぶっていただろう。万の軍勢を持つ身に成るには、コネで禁軍に入るしかなかった。
だがそれを恥じた事は無いし、私の望むものを手に入れるには、早いうちに大きな軍勢を持つ必要があった」
「望むもの、とは?」
「敵だ。より強く、より大きな敵。それと死力を尽くして相見えてこそ、武人の本懐と言うもの」
この男には、思想も理念も無い。どこに属しているかも関係無い。ただ戦う事だけを望んでいる。そう言う男だと理解した。
部下に持つには悪くないかもしれない。しかしこの男の今の立場と、少し見ただけだが優れている軍才をもってすれば、いずれ更に上に上るかもしれない。それこそ形ばかりの皇帝しか上を持たない地位まで。
そうなったとき、この男は止まるだろうか。何か目的があって、そのために戦をする類の人間ではない。戦それ自体を目的とする男が、頂点に立った時に何が起こるだろうか。
「話し過ぎてしまった。俺のやり方に理解を示す者はなかなか居ないもので、ついな。引き止めて悪かった」
「いえ、こちらから持ちかけた話題ですので」
「元帥閣下ですらもう少し人目を憚れと言うし、他の連中ときたら戦も近いと言うのに……。
帝都へ入るなら、急ぐ事だ。宮廷雀共が騒いでいる様だから、愚図愚図してると碌な事にならんぞ」
「では、急ぐ事にします。これにて失礼いたします」
解放された高星の一行は街道に戻り、帝都への道を急いだ。道を歩きながら高星は、同じ条件で戦って、ゼンツウ中将に勝てるだろうかと考えた。
いくら考えたところで、その時になってみなければ解らない事だった。
◇
帝都の城門は、流石に検問が厳しくなっていた。城門内側の詰所には近衛兵があふれ、都内を巡察する部隊の数も多く、市民は道の端に寄って歩いているような状態だった。
その中で時折、ひときわ目立つ兵の一団を見かけた。基本的に装飾の煌びやかな近衛兵の中で、その一団だけは燃え盛る炎の様な赤備えと物々しい武装をまとい、何よりもそれをまとう人間は皆肌の色が黒かった。
「火照の族まで出ているのか。本当に厳戒態勢だな」
「あの色の黒いのは、火照の族というんですか。何者ですか?」
ジャンをはじめ、ほとんどの者には初めて見る風変わりな人間だった。
「我らと似た様なものだよ。南方に由来する民族だが、かなり古い時代から中央に出てきた一族だそうだ。
武勇に優れる者が多く、あの様に精鋭として近衛兵に組み込まれている。しかし、扱いは必ずしも良くは無い。
近衛兵は見栄えも重要だから、公式の席には決して立たせてもらえない。近衛兵以外の火照の者は、河原者として獣同然の穢れた者として生きるしかないそうだ。
だからこそ武芸を磨いて近衛兵になろうとするのだろうな」
「よその土地に移住すると言う事はしないんですか?」
「さあな。だがどこの土地であろうと、よそ者が移住してくるのを歓迎はされないものだ。うちなんかは例外中の例外だ。
それに、火照の族は一人残らず名簿が作られ管理を受けていると聞く。詳しい事情は知らないが、ずっとそれを続けているという事は、容易には変えがたい理由があるのだろう」
「どこに行っても、蔑まれる人間がいるんですね。どうして蔑まれる人間が居るんでしょうね。俺なんかは出が犯罪者だからしょうがないけど」
「逆だ」
「逆?」
「差別するに値する者が居るから差別が生まれるのではない。差別が必要とされているから、差別する対象を作り出すのだ」
「差別を必要としている? 誰が? どうして?」
「誰がどうしてと問われれば色々あるだろうが、まず一般の庶民がそれを必要としている。その理由は、自分に自信を持つためだ。
無条件で自分に自信を持てない、自分は善良な市民だという保証が無いと不安な、弱い一般の民衆は、自分以下の者を作り、それらの者と比べて自分は真っ当な人間だと思わないと、自分に自信が持てないのだ」
ジャンはギクリとした。ジャンもまた他人と自分を比べて、あいつよりは俺はマシだと思った経験があった。
それこそがつまり、永久に自分以下の者を必要とし、差別を生む土壌なのだと指摘されたに等しかった。
「あとはまあ、権力者だろう。明確に敵があった方が民衆の目をそちらに向けさせ、一丸にする事が出来るので統治に都合が良い。
その敵が弱い者であれば、反撃を恐れる必要もないし、自分達の強さを示す事も出来る。特定の集団の根絶やしなどを唱える政権は、結構支持を集めるものだ。
だがその手法に頼っている限り、やはり永遠に敵を必要とする。今居る敵を本当に根絶やしにすれば、今度は新しい敵を作り出す必要に迫られる」
「その末路は?」
「他者を、異分子を排除し続けた末路は、良くて先細り。悪ければ一挙に全てが崩壊と全滅だろう。
畑で同じ野菜ばかり育て続ける様な物だ。同じ栄養ばかり吸い上げて土が痩せていくか、病気であっさり全滅だ」
「肝に銘じておくことにします」
そうしないと、気付かぬうちに自分の同じ道を歩みそうで恐ろしかった。
◇
帝都には安東家の商館と館もある。資金にも情報にも事欠く事は無かった。
南北朝の戦況は今のところ、北朝方は軍勢の動員と集結をほぼ終え、出陣を待っていると言う状態だった。南朝方は詳しい事は解らないが、大体似たり寄ったりの情況だろう。
その他にはエルモア伯爵が炎州の農民反乱を鎮圧したと言う。父親を殺された復讐に、凄まじい殺戮を行ったのは事実のようだ。一度引き返してきてから、すぐに南朝との戦に向かう事になるだろう。
炎州と言えば、潜伏している南朝の軍勢は静かなものだった。その存在すら窺わせる情報は無い。
だが今も確かにあの山々に潜んで、機を窺っているはずである。どんな戦ぶりを見せるのか、間近で見られないのが惜しい様な気がした。
「行く手を遮る様なものは無し。まあ、ここまでくれば当然か」
高星は帝都に滞在して仕事を行う者達から最新情報を受け取り、代わりに少々彼らから指示を仰がれた事に応えた。いずれも大したものは無い。
「ずいぶん遠回りをしたが、それも終わりだな。長居する用も無いし、明日には帝都を出るぞ」
「まあ、仕方が無いか」
エステルが心なしか残念そうに言う。
「ワイズマン伯爵に挨拶をする暇が無いのは勘弁してくれ。本当ならばそろそろ帰りの船に乗り込んでいたはずなんだ」
「解っている。そのうちまた機会もあるだろう」
それだけ言うとエステルは、もう気にする様子も見せなかった。
翌朝、高星一行は帝都東正門に向かった。ところが城門に近づく程に、異様に込み合っている事に気付いた。
城門前まで達すると、大勢の群衆が押し合う様にして集っている。城門は閉じられたままだった。
「何があった?」
城門の前で近衛兵らしき者達が何かを大声で言っている様だが、遠すぎる上に喧騒が酷くて聞き取れない。
途方に暮れていると別の一隊がやって来て、高札を立て大声を上げた。
「大将軍命令により、都の城門は全て封鎖する! 何人たりとも通る事はならぬとのお達しである!」
高星達は顔を見合わせた。ここに来て、またしても障害にぶつかった事を認めなければならなかった。




