4・雪の進軍
アダマン山系を越えた高星の一行は、イズミの指示に従って、北上するルートを進んだ。
冬と言っても盆地であるので積雪は少なく、雪道に慣れた一行には楽な道のりだった。山を下りて一日歩き続けると、オー川の流域に至った。
川沿いの街道を上流へ向かう二日目の旅路は、一日目よりもさらに楽なものであった。他の旅人の姿もチラホラと見かけ、治安が良いと言うのは事実らしかった。
ただ完全に何事も無く、とは行かなかった。道中の宿場町で休憩を取っているときに、属州総督府のものと思われる兵の一団に、呼び止められた。
「お前達は何者で、どこからどこへ向かうのか。見たところただの旅の一団にしては、人数も多い上に、武装した者も少なくない様だが」
一行に緊張が走った。正直に事実を告げたとしても、無事に解放されるかは解らない、微妙な立場にある。
かと言って、護身と言うには過剰な武装をした、明らかな兵を連れた一団をどう誤魔化せばいいのか。数では勝っているのだから、切り抜けるのは容易だが、後の事を考えるとそれは避けたい。
だが高星は、悠然と進み出て釈明を始めた。
「私どもは、商人の一団でございます。仕入れに出ていたのですが、戦が始まると聞いて、急遽帝都に帰る所でございます」
「商人? それにしては品物が見当たらないし、物々しいな」
「私どもの扱っている品は、こういう物ですので」
高星が袋を取り出し、中身を一握りして総督府の兵に見せる。真珠が掌の上で、淡い輝きを放っていた。
「宝石商か?」
「はい。各地を旅して宝石を仕入れ、それを帝都の宝石商に売ると言う商いをしております。仕入れ専門の宝石商ですな。そのため、護衛も厳重にする必要があります」
それで兵は納得したらしく、それ以上の追及はしてこなかった。
「ではこの印を見かけたら、最寄りの詰所に報告する様に」
塀が紙を広げて見せる。紙には丸の中に二重の正方形が描かれた紋様が描かれていた。外側の正方形は上下左右で円に接し、内側の正方形は外側の正方形に頂点が接している。
「これは?」
「反乱を指導した、清浄派の掲げる紋だそうだ」
「反乱がこの辺りまで広がっているのですか?」
「その逆だ」
「逆、と言うと?」
「エルモア伯爵の軍勢が反乱地域に進攻して、徹底的な殺戮を行っているしい。噂だが、屍の山で川がせき止まり、血で地面がぬかるむほどだと言う。
それを受けて反乱軍が四方に離散しているのだ。流民と化した者はともかく、反乱を指導した者どもは徹底的に狩り出さねば、いつまた息を吹き返すか解らん」
「嫌な話ですな。商売がやりにくくなります」
「ともかく、怪しい連中を見かけたら、すぐに通報する様に」
そう言い捨てて、総督府の兵は去っていった。その姿が見えなくなったところで、エステルが高星の傍でつぶやく。
「私達が逃避行を続けている間に、情況も動いている様だな」
「そうだな。だからなおさら急がねばならん。これ以上面倒事に巻き込まれてたまるか。行くぞ」
高星の一声に、一行が旅装を締め直して立ち上がる。
「ところで高星、いつの間に真珠なんて用意していたのだ?」
「お前を先行させた後、リアルトで仕入れておいた。役に立って良かった、と言うべきかな。小さくて価値の高い物を扱う商人の一団を装えば、自然に正体を隠せると思ってな。
香辛料でもいいかと思ったが、宝石類の方がいざというとき現金の代わりになると思った。エステル、お前に教わった事だ」
エステルが気恥ずかしそうに笑みを浮かべた。
◇
南都、もしくは旧都と呼ばれる街は、国家の中心で無くなって以後もなお八十万の人口を誇る、帝都に次ぐ大都市である。
ただ人口が増えすぎたために、周辺地域だけでは人口を維持するだけの生産が足りず、消費都市としての色合いが強い。
にもかかわらず、南都に物を運び入れる物流の道が脆弱である事が、この街が国家の首都から転落した要因の一つであるのだろう。オー川の水運は、帝都の物流を担うルー川の水運と比べると、河川規模の問題であまりにも細い。
高星の一行はこの南都でイズミの手の者と接触する事に成功し、彼らの協力の下、神嶺山脈越えの計画を立て始めた。
「帝都に向かうルートは大きく四つあります。一つは大きく西に迂回し、三山関を通るルート。これは論外です。
一つは東に迂回し、霊峰終南山を回り込んで山脈の切れ目を抜けるルート。こちらも反乱が起こって以降、民間の通行は禁止されています。
残る二つが神嶺山脈を抜けるルートで、南都からほぼ真北に抜けるルートと、やや西寄りのルートがあります。
北上ルートは断崖絶壁に桟道を渡した道が続きます。西寄りルートは山の谷間に沿って抜ける山道になります。この時期の困難さは同じ様なものでしょうか。
これ以外にも細かい道はありますが、あえて選ぶ理由は無いでしょう」
「ならば、山道を行くか。我らは桟道と言うのは未知だが、山道はある程度予想がつく。不測の事態が起きても対処し易い方を選ぶべきだろうな。
積雪はどのくらいある?」
「内陸ですので、それほど深くはありません。ただ標高が高い場所は、足元が凍り付いている事が多いので、シュタックアイゼンが必要です」
「金属製の爪の事だな? 滑り止めの」
「そうです。4000m級の山脈と言えど、抜けるだけならそこまで登りはしません。しかしそれでも最大標高は3000m前後に達しますので、高山病の恐れもあります」
「凍傷や低体温症も気にかかるな。野宿をする羽目になれば数時間で危険だ」
高度が200m上がるごとに気温は平均1度下がる。この時期の炎州の平均最低気温は0度、現在位置であるヒノワ盆地の標高は100m以下なので、最低で氷点下15度前後が予想される。
「一応、道であるので所々に山小屋が建っています。その山小屋で夜を明かしながら進む事になります。薪も備え付けてあるはずです」
「その辺りの具体的な事に関しては、お任せするしかない。何日で山を越えられるだろうか」
「天候次第ですが、早ければ五日ですね。通りやすい所を選んで道が出来ているので、何日も山小屋に閉じ込められるような事はめったに無いはずです」
「他に、装備や心得などで必要な物は?」
「難しいですね。我らもこの時期に大人数で山を越えた事はありません。普段ならば平地を迂回すればいいのですから」
「では、こちら側の装備などに関しては、こちらの判断で用意してよろしいと?」
「冬山越えの経験があるのなら、それでいいでしょう。ただ神嶺は甘くない」
「十分承知しているつもりでいる」
「なら、何も言う事はありません」
◇
案内人との打ち合わせを済ませた高星は、山越えの準備をすべく、矢継ぎ早に指示を下し始めた。
「いいか、まずは防寒服一式。厚手の靴下は三枚重ねで履くので、予備を入れて六枚。手袋は内側に毛足、外側が防水革の物を用意しろ。そして顔面を守る覆面だ。とにかく素肌を晒すな。数時間で凍傷になるぞ」
担当を決めて、それぞれ全員分を購入すべく駆け回る。六十人分を用意するとなると、卸業者を当たらなくてはならない。
「雪沓と、取り付ける滑り止めの爪も忘れるな。登山では無いので、爪は三本爪でも十分だそうだ」
「棟梁、今履いている靴はどうするので?」
「売り払え。山向こうで山越え装備を売って、別に買い直せばいい。とにかく不要な物は持つな。
油紙を多めに買っておけ。その他とにかく防水を徹底しろ。水が染みて来ると、そこから全部凍りつくぞ」
「高星、食料はどのくらい持つ?」
高星は一瞬、思案した。吹雪で動けなくなる事を考えて予備を持ちたいが、あまり荷が重くなると消耗する。
「七日分にしよう。火を熾さなくても食べられる物を用意しろ。一食分を大目に、戦に行くつもりで備えろ。
それと水だ。食料以上に水を大量に、十日分は用意しろ」
「水?」
本格的に雪山を踏破した経験の無い者は、皆一様に疑問を覚えた。水を用意する事自体は解るが、いざとなれば雪を解かして水を得られるのだから、そんなに大量に水を持ち込む必要があるのか。
「……解らん奴がいる様だな。雪山で真っ先に困るのは水だ。白い砂漠と形容される事が有るくらい、雪山では水が不足する」
「そこらじゅうに雪が積もっているのに、ですか?」
「その雪はどうやって溶かす?」
「そりゃ、火を熾して、鍋にでもかけて」
「雪の上では火を熾せない。雪の上で薪を燃やせば、解けて火を消してしまう。だから地面が出るまで雪を掘って、火を熾さなければならない。
ところがだ、場合によっては5m以上の積雪があるような場所では、まず地面まで穴を掘れない。井戸を掘るのとは違うのだから、深さに応じて広さも必要になる。
下の雪は自重で圧雪になり、凍り付いている事も多い。そうなると金属のスコップでも歯が立たない。つまり、火を熾せないという事になる」
「だから水を持ち込む必要がある、と」
「そうだ。それと水は水筒に七・八割だけ入れる様にしろ。歩くに合せて水筒の中身が動く様にして、少しでも凍りつくのを防げ。
そして一人一本、砂糖または蜜、もしくは果汁を混ぜた水も用意しておけ。ただの水よりは凍りにくい。濃すぎるとかえって喉が渇くから、飲める程度にしておけよ」
「酒は駄目ですか?」
「一時的には体が温まり元気が出るが、疲労は強くなるので駄目だ。酒はあくまで一回限りの気付け薬、後が無い時に使う物だと思え」
その後も高星は、次々と雪山の備えを進めて行った。中でも特異なのは、吸水性に優れたタオルを二枚、間を開けて紐でつなぎ、タオルと紐でできた四角形の中に頭を通す事で、体の前後にタオルが垂れ下がるようにしたものである。
高星はこれを作らせて、一人に二つ支給した。
「汗取りだ。これを下着の下に入れて、肌に触れる様にしろ。
汗が冷えて体温が奪われると危険だ。普通は下着をこまめに替えるが、これを下着の下に入れて、汗を吸ったら引き抜けばいい。万が一露営になったら、着替えられないからな」
雪深い北の辺境に住む者ばかりとはいえ、全員が全員雪山経験者ではない。わざわざこんなものまで作らせる高星に対して、いくら行く手に困難が予想されると言っても、必要以上に恐れすぎではないかと思う者も居た。
実際高星は行く手に待ち受けるものを恐れていた。山中を移動して生きる渡りの者の話や、安東家に残る記録から、雪山行軍の恐ろしさは良く知っていた。
さらに今回は、自分達は全く初めて足を踏み入れる高山である。危なくなったからと言って、そうそう容易く引き返せるとも限らない。
神嶺山脈踏破は一人の落伍者も無く、全員生きての突破でなければならなかった。一人が倒れればそれを助けた者も道連れになりかねない以上、一人の落伍者も許されなかった。
それ以上に、部下の犠牲の上に生き延びる事を、高星自身が許さなかった。むしろ全員を生き延びさせる事が、棟梁たる自分の使命であると信じていた。
◇
翌日、いよいよ山脈に足を踏み入れるにあたって、最後の確認を取りながらその日の計画を案内人と話し合った。陽光の差す、この時期にしては暖かい日だった。
「今日はどこまで行けるでしょうか?」
「今日は天気が良いし、初めのうちは道も険しくない。距離を稼いで、中腹の村まで行けると思う。そこから先は山小屋ばかりで村は無い」
「下手に暖かいと、雪崩が心配だが」
「村までは山肌も、傾斜がきつくは無いので大丈夫だろう。村より低い所はまだ、道さえ見失わなければ大丈夫だ」
案内人の意見を入れて、防寒具も軽装にした。防寒も大事ではあるが、汗をかかない事も十分気を使う必要がある。過剰な防寒はかえって危険を招く恐れがあった。
進発した一行は、案内人を先頭にして、一定の速度を保ちながら山道を登り始めた。距離を稼ぐと言っていたが、その歩みは少しゆっくりしたものだと感じる、歩いていて余裕のある速度だった。
しかし、ゆっくりとした歩みではあるが、その代り一度として立ち止まったり、休憩を取る様な事は無かった。
これは雪山などの酷寒地を踏破するときの歩き方で、汗をかかないようにゆっくりと歩き、動く事で体温を上げ続けるために、休まない歩き方だった。これを知らずに歩くと汗をかき、休憩を取った途端に汗が冷えて体温を奪っていく。
昼の食事をとる時になって初めて足を止めた。今朝焼いた餅を外套の下、肌に触れる様に入れていたのだが、まだ温かかった。
「この辺りはそれほど雪が有りませんね」
昼食を食べながら、ジャンが高星にそう語りかけた。実際雪の深さは、深い所で中指の先から手首までくらいだった。
「元々雪は多くないそうだが、木立があるからな。枝葉に遮られて積もりにくいのだろう。
それとこの道は谷間だから、雪が溜まりにくく、歩きやすいようだ。まあ、だからここに道を通したのだろうな」
昼食を済ませてしまうと、すぐにまた歩き始めた。距離を稼ぎたいが、急ぐ訳にはいかない以上、一分一秒でも長く歩き続けるしかない。
午後になると流石に標高の高い所に来ている、という事が解る様になってきた。谷に沿っているので視界はなかなか開けないが、植生が変わってきた事は見てとれた。
陽だまりでは枝葉の先から滴が垂れていた。雪が解けているようだ。気温も氷点下に達していないと感じた。
中腹の村にたどり着いた頃には、もう薄暗くなっていた。ゆっくりとした歩みとは言え、一日中歩き通しで誰もが疲れていた。
持って来た食料と、村人からおかずになる物を少々買って夕食を作った。陽が暮れると流石に冷え込み、温かい食事がありがたく思えた。
◇
高星は一人、凍り付く様な夜風が吹く外に出て、北の方を眺めていた。明日以降踏破しなければならない神嶺山脈の山々が、視界を塞ぐ壁のように迫ってきている。
なまじ初日である今日の条件が良かったがために、これから先の山越えを軽視する風潮が出やしないか。雪山を踏破した
経験のある者でも、高山病の恐れがある高地は未経験である。一体何が待ち受けているのか。
頬を撫でる風の冷たさに故郷の寒さを思い出しながら、高星は必ず一人も欠ける事無く帰らなければならないのだと言う思いを新たにした。




