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朝議が本丸攻めなら、これは城門を突破して城内になだれ込む戦。そう高星は戦になぞらえた。
克用到着前から始めて、十日間に及ぶ多数派工作の総仕上げ。右丞相コー・バウファンの説得だった。
すでに克用がダマスス内務卿と親しくなる事に成功し、紹介状も書いてもらった。事前にエステルを挨拶に行かせて、今日の訪問の理由も告げさせてあるので、すぐに本題に入れる。打ち合わせもしっかりやった。
ここでしくじれば、全てが水泡に帰す。という訳でも無いが、かなり厳しくなる事は確かだ。
だがそんな事はおくびにも出さない。ここで話がまとまらなければ後が無いという思いを悟られる事は、交渉においては絶対に避けるべき事だ。
右丞相邸は広く、快適ではあったが豪奢ではない。清貧の見本のような邸宅だった。
「よく、おいで下された。私が右丞相、コー・バウファンである」
「平東将軍、ナリチカ・シュヤです」
「同じく威遠将軍、タカアキ・アンドウ。この度は右丞相様にお会いできて、光栄にございます」
まずは型通りの挨拶をしながら、右丞相と言えども決してその立場は盤石では無かろうと高星は思う。
アウストロ派と、反アウストロではないが非アウストロ派、その両者の危うい均衡の上に、コーを政府の中心に据えると言う人事が成立している。
だがアウストロ派にしてみれば、コーは内乱前にアウストロの専横を痛烈に弾劾した当の本人であり、皇帝カルロスにしてみれば、敵に回せば厄介極まりない敵になる故に、気を使わなければならない存在だろう。
どちらも自派で権力をしっかりと握る自信が無いから、第三局として名声高いコーに実権を与えている。それならば少なくとも中立だからだ。
そう言う思惑が解っているのかいないのか。それは解らないが、敵でなければ無害、敵に回せば極めて危険な存在である事は確かだ。誰にとっても。
「本日お伺いいたしましたのは、近日中に我らが朝議に上げるであろう議題について閣下にご説明し、御理解をいただくためでございます」
「聞き及んでおる。して、その議題とは何であるか?」
「朝廷は今、金銀の不足により通貨を発行し続ける事が困難になっております。そのため、新たな金貨を皇帝ロベールの下で発行し、朝廷もそれを認める。間違いございませんな?」
コーが疲れたような表情になる。
「間違いの無い事だ。残念ながら、今の朝廷には通貨を作り続ける力も無い。それは隠しようも無い事だ。かといってあのような悪貨を作る事は、混乱を招くという事も解っている。
しかし、他に手は無い。今のままでは遠からず朝廷は破産してしまう。そうなれば朝廷は完全に有名無実のものとなるだろう。それだけは避けねばならぬのだ」
「右丞相がそう思いでしたら、我らの提案はきっとご理解いただけるでしょう」
「何をしようというのだ?」
「通貨発行権を売っていただきたい」
通貨の発行は政府の占有事業だ。しかし、例外が無い訳ではない。式典に際してや、大きな功績のあった臣下の功績を讃えるために、記念通貨の発行を認める場合がある。
ましてや現状は、朝廷は南北両統に分かたれ、南朝は通貨を発行する能力を失い、共同皇帝として引き込んだ皇帝ロベールが悪貨の鋳造を進めている。
その黙認状態の通貨の発行を、公認してしまおうという訳だ。しかも権利を売ると言う形にすれば、朝廷にも金が入り、資金不足がある程度ではあるが解消されるだろう。
「むう、なるほど。通貨発行権を諸侯に売ると言うのか……」
コーは難しい顔をしている。やはり、そうすぐに賛同は得られない様だ。この政策を取る事による害も、理解しているに違いない。
「しかし、いかに公認を与えると言えど、通貨の発行権を広く諸侯に与えてしまっては、朝廷と諸侯の力関係が崩れてしまう」
「確かにそれは道理としては正しいでしょう。本来通貨の発行は朝廷だけが行うべきものです。
しかし現実として、すでにその原則は崩れております。今ここで原理原則に固執したところで、朝廷の金が底を突き、為す術が無くなる時をただ待つだけに過ぎませぬ。
今はそういう時勢なのだと腹を決めて掛かるより他に無いのでは?」
「確かに、ここまま手をこまねいていても、何もできぬ事は確かだ」
「そうでしょうとも。なればここはむしろ、積極的にこの政策を推し進めれば、朝廷の卓見は広く讃えられる事にもなりましょう。これぞ災いを転じて福となす妙案であり、聖徳を天下に知らしめることが出来ましょう」
高星がまくしたてる。しかしコーは、憮然とした表情になり、押し黙ってしまった。
しくじった。このまま一気に説き伏せようと、焦りすぎたようだ。今のは流石に少し詭弁と追従が過ぎたか。そういうものをこの人は明らかに嫌う性格だ。
横目で克用を見る。援護を頼む。そう目配せした。言葉を続ける。
「まあ、それは言葉が過ぎるとしても、今や天下は騒然として、道理よりも力や策謀がものを言う時世である事は否めません。
ここにおいてはこちらも邪道である事は承知の上で、巧みな策略を用いで挽回を計らなくてはなりませぬ。
大事の前に小事にかまけていれば機を逃します。ここは一つ、朝廷を守り立てるのに必要な策謀を割り切って、ご協力願えませぬでしょうか」
「黙れ! さっきから聞いていれば、そなたの言葉には詐術を弄する事しかないのか! 策謀によって国が立つか! 信義によってこそ国は立つのだ!
渇しても盗泉の水を飲まずと言う、いかに困窮しようとも、不正を行って生きるくらいならば、信義を守って死ぬ方がマシである。
それは国も同じだ、悪に染まってまで国を保ち、周囲にも悪を振りまくくらいならば、正道を守って滅びるべきだ」
色を成して、とはこういうのを言うのだろう。コーは顔を紅潮させて声を荒げる。しかし感情に任せて怒鳴り散らすのではなく、どこまでも道理を前面に押し立ててくる。
「待たれよ。右丞相の御言葉は、道理に合いませぬ」
ここで克用が言葉を挟んだ。お手並み拝見と行こうか。
「何をっ、どこが道理に外れていると言うのだ!」
「渇しても盗泉の水を飲まず。なるほどそれは道理です。
しかしそれは、利己のために不正をしてはならぬという事であり、ただ私心無く人のために行った事が不正と言うべきものになってしまう事は、咎められるべき事ではないのではないでしょうか」
「……詳しく聞こうか」
「例えば病に苦しむ者に対して、顔色が良くなってきたと嘘をいう事は、不正と言えば不正ですが、ただ相手を思いやる気持ちから生まれたものです。丞相はそれを咎めますか?」
「いや、咎めはしない」
「私は武人ゆえ、戦になれば策謀を持って敵を欺く事も多々あります。しかしそれは、策を持って戦えば部下を死なせずに済み、領民を苦しめる事も無いからです。これは卑怯と咎められなければなりませぬか?」
「いや、咎め立てする事は出来ぬであろうな」
「今にも飢えて死にそうな子の為に、親が食料を盗む事は?」
「可能な限り他の手立てを探るべきだ。しかし、私がその親を裁く立場になったとすれば、酌量の余地はあるだろう」
「今上げた三者に共通する事は、いずれも私利私欲のためではなく、他者を思う気持ちから不正邪道を行ったという事です。
それを咎めるのが道理に合う事だとは、人の情として納得できるものではありません。ならば、道理に合わないという事では?」
「うむむ……」
「これに照らし合わせて見るに、広く通貨の発行権を売ろうと言う試みも、決して何者かの私利私欲のためではなく、国家を守るためにやむなく必要な事。
そこに不正と言わざるを得ない部分が混じっているとしても、国を守り、民を守るために必要だと言うならば、誇れぬまでも恥じる事は無いではないでしょうか」
相変わらず口の上手い奴だ。隣で聞いていた高星は苦笑いを抑えなければならなかった。
道理を重んずるコーに対して、道理を前面に押し立てて攻める。しかしそれが、本当に道理に合っているかと問われれば、それは怪しい。
しかしそれでも、道理に合っていると言う気にはなる。道理を重んずるコーには、反論の術は思いつきもしないだろう。
「解った。やむを得ないな。国家の安念のために汚名を被らねばならぬと言うのなら、それも覚悟しよう」
「では」
「通貨発行権の売買。認めよう。朝議に上げて、正式に議論の末、裁可を得るが良い」
「ありがとうございます」
これでひとまずは安心だろう。朝廷の実権派を抑え、列参貴族の支持も集め、皇帝カルロスへの根回しも行った。どこからも異論は出ないはずだ。
異論が出るとすれば、もう一人の皇帝ロベール辺りだろうが、海の向こうの自分の領地に居るロベールが全てを知る前に、片が付くだろう。
しかしまあ、嫌われてしまった様だな。そう高星は自嘲した。高星の言葉には、詐術しかないと言われてしまった。
あえて否定しようとは思わない。嘘をついているという訳ではないが、自分に有利な様に言葉を選んでいる事は確かなのだ。詐術と言えば詐術だろう。
策謀によって国が立つか、信義によってこそ国は立つ。そうも言われた。それに関しては同意できる。
だがな、右丞相閣下。私がやろうとしている事は、国を守る事ではない。国を創る事なのですよ。手を汚さずして、策謀を巡らさずして、建国の大事は成せやしないのです。まして、私のような力の無い者には。
国を守る。秩序を保つ。そういう事に関しては、あなたは優れた見識をお持ちだ。だが国を建てるという事に関しては、理解していない。
そしてなにより、毒を食ってでも、この世の全ての悪を為して、ありとあらゆるものを犠牲にしてでも死にたくない、滅びたくない、生き延びたい。そう言う思いを、あなたは知らない。
◇
「思ったより、大した事の無い御仁だったな。名声なんてそんなものか」
帰路、克用が幾ばくかの失望を込めてそうつぶやいた。
「そう言うな。あの場での話し合いは、コー殿に不利すぎた。学者としての名声のおかげで右丞相にされてしまったために、まるで専門外の政治経済について考えなければならないのだ。利用はさせてもらったが、苦労を理解してやるくらいはするものだろう」
「なら、自分の土俵に立った時のコー殿は、どうなんだろうな?」
「それならコー殿の著作を読めば解る」
「コー殿の著作?」
「読んだ事無いのか?」
「いや、ある。あるが、ほとんどが古典の研究だろう? 解りやすく理路整然とまとめて有って、確かに大したものだとは思うが」
「私は古典を研究する事、そしてその研究と言うか、解釈の中に、コー殿の理想が込められていると感じたがな」
「どんな理想が見えた?」
「古くから続いてきたものを。これからも保ち続けていく事。問題が生じれば、それをその都度修繕して、古い物を守るために新しいものを取り入れていくと言う思想。
逆に、今ある物を壊して新しい物を作る事は、無用な混乱と犠牲を生むものとして否定する。あとは、為政者には仁義礼節といった徳が必要だと言う主張だな」
「お前とは真逆か」
「理想的だよ。これがその通りに行けば、苦しむ者が居ても、今を耐え抜けばいずれ改善される。血を流す必要も無い。
だが実際は、木の幹に刻んだように、傷は時と共に大きくなる一方だ。
それでもそれは政治が正しく機能していないからで、政治を正しくする事を追い求めるべきで、革命によって全てひっくり返して造り直すのは間違いだというのが、コー殿の考えだと私は感じた」
「理想主義だな。だがそれを言ったら、お前なんかは理想どころか夢想だろうな」
「夢想で良い。理を思うよりも、夢を思って生きたい。理想にはいつだって、何かが欠けている」
片や秩序と平和を望み、信義と正道を重んじる道。片や流血と破壊を積み重ね、詐術と悪逆の限りを尽くしてでも進む道。
真反対の様だが、相容れないとは思わなかった。どちらもただひたすらに、決して届かないのではないかと言うものを追い求めている。そしてその目指すところは、同じなのではないか。
「なあ、克用よ。お前ならどっちを選ぶ?」
理想と夢想。平和と戦乱。秩序と破壊。正道と悪逆。
それとも、他にも道があるのだろうか。
克用は何も答えなかった。




