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悪貨を拾って魔窟に挑み
丞相を説いて朝議を決す
檄文に走りて高山を越え
悶着を抜けて帰船に帆を張る
一晩でくるぶしの深さまで雪が積もっていた。
今年も残すところあと一節となり、春まで解けぬ本格的な雪が降る季節になった。雪国に住まう者にとって、冬の朝は何よりもまず、雪かきをしなければならない。
まだ新雪なので、雪べらと言う掬いの部分が大きく、軽量なスコップで雪を寄せる。これが真冬の最中となれば、金属製の刃が付いたスコップで雪を切り出さなければならない。
ジャンにとっては三度目の冬だった。流石に雪かきにも慣れてくる。今はまだいいが、すぐに屋根に積もった雪も始末しなければならなくなるだろう。
最初の冬は、屋根から落ちてくる雪が、もはや雪とは言えない頭より大きな氷塊である事を知り、戦慄を覚えた。それをつるはしでかち割ってから捨てるのだ。
ジャンは安東家の棟梁である高星の親衛隊の一員であるが、雪の前にはそんな事は関係ない。豪雪の日には、高星自身までもが雪かきに精を出す。それでも高星は、体が鈍らなくて良いなどと、笑ってそれをするのだ。
雪かきをする街の人々も、意外にも表情は暗くない。降り続く雪に嫌になり、愚痴をこぼす事は有る。しかし何十年も何百年もの間、毎年続けてきた当たり前の事に対して、暗澹たる気持ちにはならない様だ。
北辺の、雪深くて貧しく、暗い土地と言うイメージは、たった一冬で打ち砕かれた。必ずしも豊かではないが、人々は力強い。そうで無ければ生きていけないのかもしれない。
それは何も、雪やその他の厳しい自然に対してだけの事ではない。この地に住まう人々は、皆例外無く己に重くのしかかる運命に対して、力強く抗しなければ生きていけない。
北の果て、東と南を険阻な山々に遮られ、北は未開の地、唯一開けた西の海も、冬場は大きく荒れて閉ざされる。そんなこの地は長く流刑地として、多くの流刑者が流れ着いた。
その多くが政治的な事情により、罪も無く流刑になった者達である。彼らは皆一様に己の身に降りかかった運命を呪い、それでも力強く生き抜いていかねばならなかった。
そんなこの地の領主であり、最古参の流刑者と言えるのが安東家であり、その現当主がジャンの主君である高星である。
高星はそんな流刑者達の現状を変えるべく、いち早く乱世の気配を感じ取り、風雲に乗じて戦い始めた。全てを敵に回し、数えきれない人間を殺し、無数の恨みと憎しみをその身に背負い、負けられない戦いを始めた。
だが負けた。ついこの前、今年の秋の戦で、安東軍は宿敵と言える、皇族に連なる大貴族、コルネリウス公爵家との一戦で、完膚なきまでに敗れ、辛うじて一矢報いて退いた。
その傷跡は決して小さくなく、今も高星は軍の再建に追われている。
それだけではない、あの敗北をきっかけに、以前の様に反乱が起こるかもしれないという事は、ジャンにも容易に予想できた。
今のところその気配は無いが、あの敗北以来、何かが変わった事は確かである。
◇
ジャンが高星の執務室に入ると、高星が一人で執務を取っていた。
「あれ、棟梁だけですか? エステルさんは?」
「今日は見ていないな。まだ私室だろう」
「そうですか。エステルさん宛に私信が来ているんですが、届けて来るべきでしょうか」
「いや、じきに来るだろうから、その時に渡せばいいだろう。しかし、エステルに私信とは珍しいな」
高星が手を止め、顔を上げる。義父の死後、相続を許されずに養家が断絶し、エステルは身一つでこの地に来た。故に手紙をやり取りする相手も無く、何より本人がそういう事を避けていた節があった。
「差出人は貴族みたいですね」
手紙は蝋を垂らして封印し、蝋が固まる前に紋章の判を押した、典型的な貴族の出す封筒の体裁をしている。
「まあ、相手が貴族だと言うのはむしろ自然な方だろう」
高星が封筒に押された紋を確かめる。どこの家のものかは出てこない様だ。
戸を叩く音がした。
「入れ」
「済まない。少し遅れたようだ」
噂をすればと言う奴か、エステルが書類束を小脇に抱えてやって来た。秋の戦で重傷を負ったが、すでに完治しているらしく、足取りも軽い。
「エステル、お前に手紙が来ている」
「ああ、来たか」
高星がエステルに手紙を渡し、ペーパーナイフも渡す。エステルは紋章を確かめて、封を切った。
「お前に手紙とは珍しいが、誰からの物だ?」
「義父の友人に手紙を送って、これはその返事だ。今までなんとなく避けてきたが、息災でいる事くらいは知らせておこうと思ってな」
「帝都の貴族か?」
「そうだが、何か?」
「いや、お前の父上と親しく、お前にも良くしてくれた人物だと言うのなら、一度会ってみたいと思った。そんな人物ならばおそらく、私の事も対等に見てくれるだろうからな」
「そうだな。その点は保証しよう。機会が有れば、紹介する」
エステルが微かに微笑んだ。
「さあ、今日も仕事が山積みだ。きびきび働いてもらうぞ」
「高星が仕事をやる気とは、珍しい」
「酷い言い草だな。まあいい。ジャン、早速だが提督の所へ行って、以前示した案でどれだけ兵力が捻り出せそうか、試算の報告を受け取って来い」
はいと返事をして、ジャンは仕事に取り掛かった。
◇
敗戦による兵力の減少を補う案として、海軍兵の一時陸兵化が提案されていた。当面、強大な仮想敵が無く、余裕のある海軍から兵を引き抜き、穴を埋めようと言うものである。
しかし安東家の海軍では船乗りや漕ぎ手が準戦闘員であり、純粋な戦闘員はそれほど多くなく、必要に応じて陸兵を船に乗せていたため、どれほどの兵力が工面できるかは未知数だった。
その試算を海軍の責任者である提督が中心となって取りまとめ、条件が良ければ実行に移そうと言う段階にある。
「提督はいらっしゃいますか?」
安東家海軍の責任者であり、安東家家臣団の長老でもある提督は、政庁内に大きな部屋を持っており、いつも人と書類でごった返している。そのため面会は受付を通して整理される。今日は都合良く、待たずに会う事が出来た。
「おお、ジャンか。という事は、海軍兵の陸兵化の件だな?」
「はい」
「概算をまとめてある。持って行け」
「差支えなければ、俺にもどんな感じか教えて欲しいですね」
多少厚みのある封筒を受け取りながら、期待せずにそんな事を言ってみた。すると意外にも、提督はにやりと笑う。
「常備の海軍兵は千人ほど。そのうち二・三百はなんとか捻り出せるだろう。二百トン級の船が五隻から八隻ほど空になるが、決して無防備ではない。船団を組んでいれば、海賊位は恐れる必要も無いだろう」
「は、はあ。それは、なによりです」
なぜ気前よく、自分にそんな話をしてくれるのかと面食らう。元々提督はジャンに好意的であるが、あきらかに単なる好意を越えている。
何かを期待されていると言ってもいいかもしれない。
「では、殿にしっかりと届けてくれ」
そう言って、ばしばしと力強く背中を叩かれた。
◇
提督の部屋を出るところで、冴えない印象の青年が声を掛けてきた。
「やあ、ジャン君ひさしぶり」
「あ、えーっと、そうだ、瀬川さん」
「あまり覚えられていない様だね。まあ、仕方が無いか」
瀬川が後ろ頭を掻きながら微苦笑する。
「瀬川さんは、今も軍付き会計官ですか」
「そうだよ。敗戦処理で仕事の量が凄い事になって、これから殿に報告を上げに行くところだ」
ジャンと瀬川が廊下を並んで歩く。
「どこもかしこも大変な事になりましたね。時々、反乱とかが起きて、全てが崩壊するんじゃないかという気になります。あんまり人前で言う事じゃないですけど」
「軍の支持は固い様だから大丈夫だろう。むしろ新しい武器装備を早く回せとせっつかれて大変だよ」
「士気が高いようでいいじゃないですか」
「そうかもしれないけど、軍人は足りなくなったものは買えばいいと単純に考えているからね。予算を組んだり売買の交渉をする身にもなって欲しいよ。
生産能力にも限度があるし、そもそも予算を組むにも財源は私の管轄外だし……」
「せ、席も温まる暇も無いと言う奴ですね。頭が下がります」
延々と愚痴を聞かされそうな気配がしたので、とりあえず理解を示して労ってみた。
「うん、まあ苦労を理解してくれる上司ばかりだからいいんだけどね」
どうやら少しは気が晴れたようだ。
「瀬川さん、民間人との交渉も多いんですよね?」
「まあ、軍人と民間人の間を取り持つような仕事だからね」
「今度の敗戦で、領民の感情とかはどうなんでしょうか。厭戦気分が高まったりすると、不味いと思いますけど」
「その心配はいらないだろう。少なくとも僕はそう思うよ。
兵の家族ならば戦死はある程度覚悟しているし、それ以外の民間人は、自分達に実害が無ければあまり敗戦を気にしては居ない様だ。戦をしているんだ、負ける事もあるだろう。くらいのものかな。
むしろ、軍の再編に伴う各種資材の発注で、特需が起きて喜ばれているくらいだよ」
「現金な……。いや、戦争反対の暴動になるよりはずっとマシなのかな。ミタク城に潜入して暴動を煽った時は、あれを受ける側にはなりたくないと怖いくらいだった」
「ミタク城に潜入!? 君はそんな凄い事をしていたのか」
瀬川が目を見開いて足を止める。
「あれ、知りませんでした?」
「いや、初耳だよ。凄いじゃないか、君はまだ二十歳にもなっていないのだろう?」
「誕生日は覚えていませんが、今年で十八になりました」
「そう言えば背も伸びたね」
「そうですか? 自分じゃあまり自覚が無いですね」
「いやいや、大したものだよ。僕なんか苦労は多いけどさっぱりうだつが上がらなくて」
「偉くなくても大事な仕事なんですから、もっと胸を張っていいと思いますよ。俺なんか政庁内では未だに雑用係ですから。肩書だけは棟梁の従卒ですけど」
「ははは、雑用係か。従卒をそんなふうに言うのは君くらいだろうな」
「事実ですから。棟梁は結構人使いが荒いです」
「殿の悪口はその位にしておいた方が良い、もう執務室が近いから、うっかり聞かれたら大変だ」
「そうですね」
ジャンと瀬川は、くつくつと笑いあった。
◇
高星の執務室の前で、中から出てきた男とぶつかりそうになった。飛び退く様にに脇に避けて、流れで頭を下げた。
男はちょっとこちらに目をくれただけで、何も言わずに去って行った。騎兵隊長のセイアヌスだった。
執務室に入ると、高星が微かに不機嫌そうな様子をしていた。
「棟梁、海軍兵の陸兵化に関するまとめです」
「その辺に置いておけ」
扱いが妙にぞんざいである。やはり何か不機嫌になる様な事があったらしい。瀬川の方も同じ様な扱いを受ける。まだまだ仕事があるのか、瀬川は足早に退室していった。
「何か、良くない事でもありましたか?」
「何故そう思う?」
「見るからに不機嫌そうなので」
「つまらん事を抜かすな。用が無いなら油を売ってないで、さっさと次の仕事を探せ」
声を荒げと言うほどではないが、強く荒っぽい口調でそう言い、手で追い払うしぐさをした。珍しい事だが、どうやらよほど腹に据えかねている様だ。
ここは逃げるに限ると、ジャンはあまり音を立てないようにしながら、さっさと執務室を後にした。
「……エステル、お前が奴を嫌っている訳が、良く解った」
ジャンが去った後の執務室で、高星は不機嫌を丸出しにしてエステルに言う。
「野心家である事は別にいい。だがセイアヌスの奴め、少々思い上がりが過ぎる」
ジャンが居ない間に執務室を訪ねたセイアヌスは、高星にある提案をした。
それは生まれたばかりの高星の第一子・堯恒に許嫁を付けてはどうかと言うものだった。早いうちから婚約を結んでしまえば、良からぬ企みを持って政略結婚を持ちかけられる事を、ある程度予防できるであろうという事だった。
そして政略結婚の相手として、自分には今年生まれたばかりの娘が居ると、セイアヌスは申し出た。一応、候補としてどうかという言い方であったが。
「高星、あの男は奥方が実はシバ家の人間だという事を知っているのだろうか?」
「エステルはどう思う」
「多分、知らないはずだ」
「なら知らぬのだろう。少なくともお前が掴んでいないのなら、よほど慎重か、それとも本当に知らぬかだろう。
だから政略結婚うんぬんは、妻の出自をほのめかしてと言うのではなく、ただの名目として捻り出した事だろう。
そこに一抹の真理が含まれている辺り、その頭脳は評価するがな」
評価するとは言うものの、高星の声音は何処までも冷ややかだった。
「堯恒様の義父として権勢を振るい、あわよくば外戚か。ありきたりと言えばありきたりな野心だな」
「そうだ。そんなありきたりな野心のために、手駒風情が私の悲願の場所へ、土足で踏み入ろうと言うのか」
高星が言葉を切る。
「思い上がりも甚だしい」
低く、強く、ゆっくりとそう言い切った。
「手駒風情か、奴は」
「皆手駒さ。私にとって手駒以上の者は、二人だけだ。生きている者ではな」
「二人……。私の思い上がりでなければ、三人だと思ったが」
「銀華を除いて二人だ」
「銀華殿は、手駒以上ではないのか?」
「銀はまた別だ。同じ夢を見ている訳はないし、私の追い求めているものを、もしかしたら完全には理解もしていないのかもしれない。
だがそれでも、私の事を本気で応援してくれている。銀は銀で、唯一にして特別だ」
「なるほど」
「それと、お前は思い上がってなどいないぞ、エステル。お前も手駒以上の、同じ夢を見ている同志だ。お前と、提督だけだ」
エステルは、それに対して何も返さなかった。しばしの間、静寂だけが支配していた。
「それで、セイアヌスの申し出はどうする? はっきりと却下しておくか?」
「いや、まだ早すぎるが考えてはおく、とでも言って、希望を持たせておけ。今はまだ必要な手駒だ。優秀な男である事に違いは無い」
「なまじ優秀であるからこそ害悪か。無能者ならばさっさと首にできるものを」
「いずれ始末しなければならなくなるだろう。だがそれは今ではない。少なくとも、コルネリウス家を潰すまでは必要な、毒薬だ」
「取扱注意だな」
「その時がきたら、お前に汚れ仕事を頼む事になるだろう」
「構わんさ。むしろ、そのための私だと思っている。部下にだけ汚れ仕事をさせておく訳にもいかないしな」
「ジャンの事か。結局そう言うところに落ち着くとは、つくづく人は断ち切り難い何かに縛られているものだな。気に食わん事だ」
「高星は、切って見せるのか」
「人生の全てを賭けて、切って見せる」
◇
年の瀬も押し詰まり、戦後処理で慌ただしかった安東家にも、静かな年末が訪れようと言う頃、一人の客が高星の下を訪れた。
「珍しいな、こんな時期に客とは。どこの誰が訪ねて来たんだ」
「それがだな、ちょっとただ事では無い予感がする。まあ、この季節に訪ねてくる時点でただ事ではなさそうなのだが」
エステルが、どこか困惑した表情を見せる。
「勿体付けずに早く言え。こんな年末押し迫った頃になって、どこの誰が訪ねてきた?」
「……商人の、ロウ・シーケイ殿だ」
「なんだと」




