4・夜叉
夢を見た。もはや懐かしい、蒼州の夢だった。
具体的にどこという訳ではない。陽の差しこまない暗い森、戦乱で荒れ果てた荒野、以前来たときは村が有った廃墟。蒼州の特徴的な地形や事象が寄せ集められていた。
吸い寄せられるように廃墟の扉を開けると、胸に錆びついた刀が突き刺さった死体がころがっていた。その向こうには、鍋の中身を貪る男。
なるほどと思った。これは自分の最初の体験の夢だ。ならばやるべき事は決まっている。錆びついた刃を引き抜き、貪る男の脳天に振り下ろした。
次に見たものは、天井の木目だった。朝の陽ざしが差し込んでいる。夢の中とは眩暈を起こしそうなくらい落差のある、平穏な朝だった。
上体を起こした紅夜叉は、右肩を押さえた。とうに傷は塞がっていて、痛みも無ければ後遺症も無い。ただの傷跡が残るだけだ。それすらも、他に無数にある物の一つでしかない。
だが、この傷は他とは決定的に違う。記憶にある限り、初めて一方的につけられた傷であり、負け傷だった。
相手が悪かったのではない。確かヨウユウと言ったコルネリウスの武将は、関北虎の異名に恥じぬだけの実力を持っていた。
しかし、あの程度の相手と殺し合った事は、これが初めてではない。蒼州には武勇一つで成り上がった男がごまんと居たのだ。無論、その殺し合いに勝ち、生き残って来たから自分はここに居る。
負けるはずの無い相手だった。かつての自分ならばだ。
気付かぬうちに自分の中に小さな齟齬が生まれていた。それは大きくなる一方で、気付いたときには剣先が鈍る様になっていた。
今度の負けは、それを思い知らされたに過ぎない。そのまま死んでいても良かったのだが、イスカが割って入り、生き残った。それもまた、気まぐれな運命の悪ふざけだろう。
強弱に関係なく、死ぬときは死ぬ。それも実にあっさりと。そういうものだ。
しかしなぜ今になって昔の夢など見たのか。夢を見る事に意味など無いとも思うが、それにしたってここで自分の原点の夢と言うのは、出来過ぎている。
刀を引っ掴み、部屋の外に出た。陽が低い。まだ朝早いようで、人の気配が無い。
庭に下りて、刀を抜いた。鞘を足元に落とすように捨て、上段に構える。
相手がいる訳でも、簀巻きの類が有る訳でも無い。素振りをする訳でも無く、ただ構えたまま、動かない。僅かな切っ先のブレすらも、無い。
らしく無い事をしている。しかし、剣を振るう以外に、自分には何も無い。いや、剣すらも要らない。徒手空拳で人を殺す術は身に付けている。
剣は最も使い慣れた道具だと言うだけの事だ。物としての剣だけでなく、技術としての自分の剣術もだ。
目的は、殺す事だ。人を殺す事。全てはそのために構築した技術。
ではなぜ自分は人を殺す?
「あーっ、またやってる!」
耳障りな声がして、引き戻される。自分が庭で剣を構えていた事も忘れていた。
「怪我が治ったばかりなんだから、あんまり無茶したら駄目じゃない」
操が口をとがらせる。
「うるさいな。傷口も塞がったし、指も動く。何の問題も無い」
「そうやって大丈夫そうだから無茶するのが、一番危ないんでしょうが。朝ごはん出来たから、行くわよ」
足で落ちている鞘を跳ね上げて掴み、刀を納めて担いだ。操の後を追いながら、今こいつを後ろから斬り捨てたら、自分はどう思うだろうかと言う考えがよぎった。
後悔するのだろうか、それとも。
◇
操は何かにつけて怪我の具合を気に掛けてきた。元々そう言うところはあったのだが、今回は嫌にしつこい。
あるいはこの怪我をもたらしたのが、紅夜叉の中に生じた何かの齟齬であることを、なんとなく感じ取っているのかもしれない。
「ああ、もう。そんなに気になるんなら、確かめてみるか?」
「確かめるって、どうするのよ」
「組手でもすればいいだろう。腹ごなしに丁度良い。それで、いくらでも右から攻めてくればいいさ」
「あなたがそんな事言うなんて、珍しい。ううん、初めてじゃないかしら」
「そんな事ってなんだ」
「組手をするなんて言い出す事。でもそれを言ったら、イスカさんとの試合みたいな事も前は無かったか。
でもあれはイスカさんの方から挑んだから、やっぱりあなたから言い出すなんて珍しい」
「でもでもうるせえ、プラカード持って行進でもするのか。やるのか、やらないのか」
「やるわ。遠慮はしないから。でも手加減はして欲しいかな」
大げさに鼻を鳴らして、紅夜叉は庭に出る。少し離れた位置に操が立ち、構える。紅夜叉は脱力したままだ。
操が踏み込む。踏み込みの速さならば紅夜叉にも劣らない。顔を狙って右、左と拳を突く。それを難無く紅夜叉が避けると、小さく跳んで回し蹴りを放つ。
仰け反りながら一歩下がってかわした紅夜叉は、下げた足を強く踏み、大きく前へ踏み込む。踏み込みながら体も前へ突き出し、操の鳩尾に手加減して掌底を打ち込んだ。
操が大きく後ろに吹き飛ぶ。いや、飛ぶ事で打撃の威力を殺した。着地した操がえずくが、特に問題はなさそうだ。
「容赦無く急所を打つのね」
「お前なら本気で打っても、死なない程度には流せるだろ」
「情況によるわよ。あなたの本気を何度もしのげる気はしないわ。それも素手ならの話」
「なら俺が剣を持っていたら?」
「最初の一撃で即死。もしそうなったら、全力で逃げるけど」
「逃げるお前を追いかけるのは骨が折れそうだ。御免こうむりたいな」
「それは私のセリフよ。あなたに狙われるなんて、命がいくつあっても足りないわよ」
「組手なら命は一つあれば十分足りる。多分な」
「ううん、もうやめておくわ。怪我は本当に大丈夫そうだし」
操が怪我はねと、小さくつぶやいたのを聞き逃さなかったが、知らぬふりをした。
◇
「なんだ、珍しい事をしているな」
「イスカさん」
「お前か、何しに来た」
「お見舞い、と言うほど心配はしていないが、様子を見に来た」
「どいつもこいつも、俺が怪我した事がそんなに珍しいか。俺は見世物じゃねぇぞ」
「その様子なら大丈夫そうだな」
「……せっかく来たんだ、相手をしろ。操、刀」
操が紅夜叉の刀を取りに行く。入れ違う様に、イスカが紅夜叉の前に立った。
「珍しいな、君から相手をしろだなんて。割り込まれた腹いせでもするつもりか?」
「そんなつまらん事を考えるものか。黙って相手をすればいい」
紅夜叉が操から刀を受け取り、抜き身を右手だけで持って、いつものように構えずに脱力する。イスカも変身して槍を構えた。
「いつでもいいぞ、来い」
イスカは対峙しながら紅夜叉に微かな違和感を覚えたが、すぐに頭の中から追いやり、紅夜叉の動きに集中する。弾かれた様にイスカが踏み込み、槍を突きだした。
紅夜叉は微動だにしなかった。槍の穂先が、紅夜叉の眉間の間で止まっている。これにはイスカの方が驚きに目を見張ったが、すぐに怒った様な顔になる。
「……なんのつもりだ」
イスカの声音は冷たい。張りつめた厳しさに満ちていた。
「なに、無防備に死の際に身を置けば、少しは怖いかと思ってな」
紅夜叉の声も冷たかった。しかしそれは、力無い、冷めたような冷たさだった。
「自殺でもお望みか」
「まさか。そんなつもりは無い。お前なら、避ける気が無いと気付いてぎりぎりで止める位はできるだろう。だから試してみたんだ。ジャンの様なヘボが相手だったら、こんな事はしない」
「なら何故試した」
「言っただろう。少しは怖いかと思ってな。
……だが、怖いと言う気はしないな。怖いと言うのがどういう感覚だったかもうろ覚えだが、多分、恐怖は無い」
「それでは答えになっていない。何故、自分が恐怖を感じるか試す様な事をする」
「……つまらぬ事を考えた。俺は、どうしたかったのだろうかとな。
一番初めはただ生きのびる事に執着していた。だがそれは昔の話だ。自分の命は求めても得られず、捨てようとしても捨てられない。そんな自分のもので無いものに、執着などできやしない。
では俺はどうしたい? 俺は何を求めている? 何のために屍の山を築いてきた? 俺が欲しかったものが、なんだか解るか?」
「解らないな。なんだと言うんだ」
「生きている実感、だよ。俺はここに居る実感が無い。自分が生きていると言う確信が持てない。俺はそれ求めて彷徨っていたんだと思う。
だがいくら彷徨ってもそれを感じられなかった。生きていると感じる事に不可欠の、ある物が欠けていたからだ。なんだか解るか?」
「……恐怖心、か」
「そう。それはあの果てしない修羅場で生き延びるために、最初に捨てた物だった。だがそれを捨てて生き延びてみたら、今度は生きてる実感が無い事に気付いた。気付いた頃には遅かったがな。
だから俺は、ずっと恐怖を探して戦場を彷徨ってきたんだと思う。白刃の下に身を置き、幾度となく死線を潜り抜け、それでも俺は何も怖いと思えなかった」
「むしろ、君はそれを……」
「そうだ。楽しいと感じた。いや、楽しいと言うのは違うな。
人を殺した時、そいつの生がそこに在る。いや、在った事は感じられた。熱いほどに。しかしいくら探しても、殺しても、自分自身の生の実感はどこにも無かった。重傷を負い、死の淵を彷徨ってもだ。
それでも、相手の死の瞬間、他の全てを忘れさせてくれる、暗くて甘い愉悦に満たされる事は出来た。だから俺は殺し続けた。己の生を探しながら、刹那の愉悦を求めるために。
それが不毛とも思える俺の旅路の、唯一渇きを癒してくれる甘い水だった」
「怪我の療養をしている間に、そんな事を考えていたのか」
「少し違うな。元々そうだったことを、改めて言葉として認識し直したと言うだけだ」
「それで、そんな荒みきった今までの自分の道を認識して、どうしようと言うんだ」
「荒みきったとはあんまりだな。俺にとっちゃ懐かしい故郷の様なものだ。そこから生まれ、そこで生き、そこに帰ってそこで死ぬ。
そこから目を背けて、余計な物を、甘い夢を求めようとする方が間違いだったのさ。夜叉が、人になれるはずも無い。それだけの事を、確かめただけだ」
紅夜叉が突き付けられた槍を脇に押しやり、抜き身を持ったまま周囲を一顧だにせずにどこかへ行こうとする。
「待て、それは――」
「どけ、弱者などいらん」
食い下がろうとするイスカに、紅夜叉が容赦の無い一閃を振るった。炸裂するような嫌な音が響く。紅夜叉の一撃を槍で受け止めたイスカは、大きく吹き飛ばされた。
久方ぶりに受けた、紅夜叉の狂刃だった。槍を握るイスカの指が、意思に反して震えを起こす。冷や汗が噴き出すのが、はっきりと感じられた。
ようやく息が苦しくなくなったときには、すでに紅夜叉の姿は無かった。空っぽの鞘を抱えた操が、ただ呆然と立ち尽くしていた。




