5
雲の多い空が、赤く染まっていた。
秋の夕暮はどこか物悲しく、それにつられて心まで憂いが深くなっていく。いい加減なものだと思った。
結局、紅夜叉とイスカはさんざんやり合った末、いつもの様に紅夜叉がイスカを打ち倒して終わった。決着が付いたとき、どちらの表情にも暗さは感じられなかった。
その後、紅夜叉はさっさとどこかへ行ってしまったが、操はここに留まった。割と珍しい事だ。
「操ちゃんは、行かないのか?」
「機嫌が良い様なので、しばらく一人で好きにさせた方がいいかなって思いまして」
「確かに機嫌は良さそうだったな、妙なくらいに。俺とイスカを打ちのめして、すっきりしたのかな」
「それは無いです」
「そうか、あいつは戦いや殺し合いは好んでも、弱い者を一方的になぶって喜ぶ奴じゃないな」
紅夜叉の行動や思考は、そういう単純で、解りやすい所がある。ただ正常とは大きくずれていると言うだけだ。一度パターンを理解すれば、純粋とすら言える。
イスカが、濡らした手拭いであちこちを冷やしながらこちらへ来た。今日は相当手酷くやられたようだ。
「大分やられたな」
「今日は、いつにも増して容赦が無かった。情けない」
「あんまり気に病むなよ。紅夜叉が規格外の化け物なんだし、絶対に勝たなきゃいけない相手でも無いだろう」
「待て、私としてはあいつには絶対に――」
イスカの言葉を遮って、言った。
「お前は紅夜叉を一度ひっぱたいて、馬鹿な事をしてるんじゃないと言いたいんだろう? でも相手が強すぎて、ひっぱたく事が出来ない。
紅夜叉にちょっとでも考え直させられれば、無理してひっぱたく必要も無いだろう?」
「……確かにそうだ。だが、言葉だけで彼に何かが届くか?」
「まあそりゃ、難しいだろうけどさ」
「なら一遍、ひっぱたくしかないじゃないか」
「負けてるじゃないか」
「それは、その……」
イスカが言葉に詰まる。この話はこのくらいにして、話題を変えた。
「近いうちにまた戦だな。紅夜叉の強さも、今は頼もしい限りだ」
「……頼もしい、か」
イスカの顔が、僅かに曇る。
「何か、まずい事でも言ったか?」
「いや、そうじゃない。今日の紅夜叉は、いつもと様子が違う様な気がした。操ちゃんはどうだ?」
「あ、私も今日は何か違うなって。それで考えたんですけど、いつもの紅夜叉なら、イスカさんに怪我をさせる様な事はなかったはずです」
「今日は、特に容赦が無かったって事だろう? なぜかは知らないが」
「いや、確かに容赦は無かったが、むしろあえて私を打ちのめした気がする。打たれた場所が、急所でも、効果的な場所でも無い。
打っても問題の無い所を選んで、わざと怪我をするだけ打ち込んだように思える。それを防ぎきれなかったのは、情けない話だが」
「ただ勝つでもなく、ましてや本気で殺すでもなく、怪我だけさせるような戦い方をした?」
「そう思う。なぜだかははっきり解らないが、何か余裕が無い様な感じがした。やつあたりをされた様な気分だ」
「俺を殺しかけたのも、やつあたりかな? それで気が晴れたんで、機嫌良さそうだったのか」
「迷惑な話だ。迷惑極まりない! 全く、あいつときたらいつもいつも――」
その後しばらく、イスカの紅夜叉に対する不満を聞かされた。不満と言ってもイスカが不満を抱くのももっともな、紅夜叉の素行の方に問題が有る事ばかりなので、操も何とも言えない笑みを浮かべながら、最後まで付き合っていた。
◇
ひとしきり不満をぶちまけて気が済んだのか、イスカは満足気に去って行った。それに合わせて、操もそろそろ紅夜叉の元に戻ると言って行ってしまった。この後の当ての無いジャンが一人、その場に残される。
微かな疲労感の様なものを感じた。愚痴を聞かされた事に対するものでは無く、聞いているうちに身につまされた、自分自身の不甲斐無さにだ。
押し込めていたものが、ため息を突いた途端、溢れ出す。
もうすぐ、安東家の一員になって2年が経つ。最初の1年目は、とにかく必死で顧みる余裕もあまりなかった。
2年目に入って、多少なりとも余裕を持てるようになり、自分自身を振り返ってみて、思い知った。
自分には、何もできないのだと。高星の従者という事で、小間使いの様な仕事をこなしながら、いろんなものを見聞きした。どれも、自分には遠いものだった。
自分は軍人には成れそうにない。高星に、あと20年したら大隊を任せてやると言われた事が有る。
20年という数字は真に受けないにしても、自分に将校は務まらない。何百と言う兵を預かる上級将校はもとより、数十人の部下を持つ下級将校でさえ無理だ。
それは命令された事をただこなす、道具の様な日々が長かった以上、仕方が無い事だ。自分の頭で考える習慣が無い。つい指示を待ってしまう。
軍学も、高星の態度を見る限り、多分悪くは無いのだろう。しかしそれは、高星の傍に居て、勝手な事を言っている限りにおいてだ。
自分の作戦に責任を持つ事、自分の判断で多くの将兵の生死が決まる情況で、冷静でいる事が出来るかと問われれば、多分無理だろう。ましてや指揮を執りながら作戦まで練るなど。
机上の空論。それも、机上ですら不完全で、甘い所がある。一歩足りない。それが今の自分の軍学だ。そんなものに、ただ一人の命も預けられない。
そして今日、自分は戦士にも成れないという事を、紅夜叉に叩きつけられてしまった。本当は、薄々気付いていた事だ。
別に全くの無駄という訳ではないだろう。学べば学んだだけの事はできる。
しかしそれは、どこまで行ってもただの一兵卒だ。そのうちどこかの戦場で、同じ一兵卒に殺されて、それで戦況には何ら影響の無い、そういう死に方をする一兵卒だ。
政治や、軍費を支える経済は、今のところ素人だ。死ぬ恐れは無いのだからそちらに転向して、10年20年かけて内を支える人材になる道もある。
だがそれも、経験相応の凡庸な官僚だろう。その面でも自分に才能は無いと、冬のアドス島で思い知った。あの時自分は、これと言った根回しもせず、窮地に陥ってすぐに諦めてしまった。
初めてではそんなものだとも言えるだろうが、僅かなひらめきの糸口さえ自分は掴めなかった。こちらの面でも自分には、才能が無いのだろう。諦めが早すぎるのも、欠点か。
何も、未来永劫自分は無力だとは言わない。しかし、少なくとも今、そして向こう2・3年のうちに、自分ができる事は何も無いのだ。
そして、高星と安東家に必要なのは、できる限り今すぐに力になる者なのだ。5年後では遅いかも知れない。
紅夜叉やイスカは、強力な戦力だ。個人としては、安東家の中でも屈指。いや、間違いなく最上級と言って良いだろう。
操もまた他に代えがたい能力の持ち主だ。身軽で、どんな山林も駆け抜け、塀を軽々と乗り越えて建物に侵入する事が出来る。なにより、索敵能力に長けている。
海軍に配属されて、最近会わなくなった陶明は、今どうしているだろうか。同期の新兵の中では、おそらくもっとも武術の才能が有った。すぐには無理でも、きっと遠からず頭角を現すだろう。
その他、ずっと大人で先任の人達に至っては、言うまでも無い。自分だけだ、今何もできず、この先もその見通しが無いのは、と思う。
自分には、何もできない。
本当に何もできないのか?
一瞬浮かんだ考えを、すぐに打ち消した。自分には、何もできないのだ。言葉に出さずに、自分に言い聞かせた。
自分にもできる事が、何かある様な気がする。何か、あった様な気がする。だがそれは、心の奥底にしまい込み、蓋をした何かだ。
この蓋は、開けてはならない。開ける必要は無い。今の自分は、それなりに幸せなのだ。無力感に苛まれてはいるが、今の自分とそれを取り巻く情況は、幸せなのだ。
それを壊しかねない蓋は、閉じたままで良いはずの物だ。
「ジャン、そこで何を座り込んでいる」
ふと顔を上げると、高星の姿が有った。
「もう日が暮れるぞ。こんな時間まで何をしている」
「いえ、ちょっと。棟梁こそ、遅くまで何を?」
「外回り。調練の視察もしたが、主に農地を見回ってきた。この地では、飢饉ほど怖いものは無いからな」
「食べる物が無い辛さは、身に染みているつもりです」
「甘いな。その昔、まだ土地の開発も、作物の改良も進んでいなかった頃に、6年連続で大凶作に見舞われ、三人に一人が死んだ事が有る。
その時は、毒草すら喰らったそうだ。毒抜きをしてな。それでも完全に毒が抜ける訳では無く、中毒死した者も少なくなかったそうだ。
今を生きる我らは、毒を食っても死なない人間の子孫という訳だな」
「毒草まで食うほど飢えるってのは、壮絶ですね」
「人も食ったぞ。自分の家族はさすがに手に掛けられないので、隣の家と人を交換し、殺して肉を食い、骨を薪にした」
それはもう、壮絶と言う言葉を越えていると思った。高星は、何故それを涼しい顔で言えるのかと思った。過去の他人の話とも言えるが、自分の先祖の話でもある。
「私の事はいい。お前の方は、どうせまた、つまらん事で悩んでいたのではないか?」
「まあ、そんなところです。俺だけ棟梁の、何の役にも立てないなと、卑屈になっていたところです」
努めて明るく言った。わざとらしさが誤魔化せていないと思った。
「それで、お前は何を思った?」
「何を、と言われましても。別に何も。それだけです」
「そうか。本当にそうなら、何も言う事は無い」
「なら、何かを思っていたら、どうなんですか?」
「何も思わなかったのなら、聞いたところで意味の無い事だ」
「それもそうですね」
それきり会話は途切れた。しばらく二人でそこに立っていたが、曇った暗い夕日の中を、高星が歩き始めた。
引っ張られる様に、ジャンはその後を追った。地面はもうぬかるんでは無く、足跡もつかない。雲が日差しを遮るので、影も無い。
だからジャンは、足跡を踏む事も、影を追う事も出来なかった。




