4・夜叉の顔
剣を、振っていた。
振っていたと言うよりも、ただ振り回していたと言う方が近い。
「紅夜叉? 珍しいわね、鍛錬をしてるなんて」
珍しいなんてものではない。初めての事だ。
「明日は雨……って、最近はずっと雨か」
操がそんな事を言う。聞き流して剣を振り続けたが、全く身が入らない。敵と相対した時は、何も考えずに次の動きができるのに、相手も無くただ剣を振るっていると、無様な程だった。
剣を学んだ事は無い。だから、武術の型の様なものが無く、鍛錬のしようがない。考えてみれば、当然の事だった。せいぜい戦場暮らしの頃の体力を維持するために、原野を駆ける位だ。
「やめだ」
無意味な事をいつまでもしていても仕方が無い。後には、無意味な事を無意味だと気付かずに始めたと言う、忌々しさだけが残った。手近な所に腰を下ろす。
「……どうかした?」
無視した。鬱陶しくて仕方が無かった。
近頃、何かずれの様なものを感じる。自分が思い描く自分と、実際の自分の間に何かずれが有ると言う気がする。
そのずれがたまらなく鬱陶しい。その鬱陶しさを払おうと、愚にもつかぬ事をしたようだ。らしく無い事をした事が、ひどく不愉快にさせた。
「近々、また戦みたいよ。高星さんは今、せっせと兵糧の手配をしてるみたい」
「そうか」
戦に対して抱く心情も、少し変わった様な気がする。以前はそれだけが生きがいであり、自分の存在を証明するものだと思っていた。強く惹かれ、待ち望んでいた。
今はそれが、少し弱くなったような気がする。以前のように焦がれる様な、それに全てを賭ける様な思いは湧いてこない。単に慣れただけか、それとも。
「あー、めんどくせぇ!」
勢いよく立ち上がる。それに引っ張られる様に、操も立ち上がった。
「どこ行くの?」
「練兵場。適当に相手を見繕って、伸す」
「ほどほどにね」
ごまかしだと、解り切っていた。それがなお一層、不愉快にさせた。
◇
紅夜叉は練兵場を一回り見回して、誰か相手になる者は居ないかと探した。特に何か基準が有る訳ではない。要はその時の気分次第だ。
今日の気分に何かが引っ掛かったのは、木剣を素振りしているジャンだった。紅夜叉とは違い、剣術の型にはまった振り方を、まだどこかぎこちなく振っている。
「相変わらずへったくそだな」
「紅夜叉か。そりゃ上手くは無いが、いきなり下手糞とはずいぶんだな。俺が下手ならお前は無茶苦茶だろう」
「殺す時に役に立てば、無茶苦茶だろうがなんだろうが同じだ。お行儀良く型にはまった剣術をいくらやったところで、戦場で死ねばゴミだろう」
「否定はしないが、お前の様な真似が出来る奴なんて、他に居てたまるか」
「俺の事はどうでもいいが、少なくともお前はいくらそうやって剣を振ったところで、無駄だ」
「なんだと?」
ジャンの口調がやや剣呑になる。
「戦場で死なない奴というのは、強い弱いとは別のものがある。お前にはそれが無い。一目で解る、生き残る奴の匂いが無い。
だから、いくら武術を学んだところで無駄だ。お前は戦場で生き残り続ける人間じゃない」
「好き放題言ってくれるじゃないか」
「あ、でも……」
操が、言葉を挟んだ。
「生き残り続ける人が持つ、特有の雰囲気の様なものは確かにありますね」
「……操ちゃんから見ても、俺は死ぬ人間か?」
「そこまでは、私には……」
「理解できないと言うなら、体で教えてやる。掛かって来い。俺は、丸腰でいい」
紅夜叉が少し距離を取り、指を動かして掛かって来いと誘う。
「お前に勝てる気はしない。勝てそうにない相手からは逃げる、というのは?」
「戦場で、いつまでも強い奴から逃げ続けられると思うな。殺すとなれば、確実に追い詰めてくる。少なくとも、俺はそうする」
「解ったよ。お前に勝てる気はしないが、戦場でお前と殺し合わなきゃならなくなって、生き残れるかどうか試してみろ、という事だな?」
「まあ、そういう事になるかな。御託はいいからさっさと来い」
ジャンが木剣を油断無く構える。対する紅夜叉は、棒立ちだ。紅夜叉は見るからに脱力し、やる気が有るのかさえ疑わしい。少なくともジャンの眼には、隙だらけに見えた。
気合と共にジャンが、面を打つ様に斬り込んだ。紅夜叉は前に倒れかかる様に、頭を下げながら一歩前に出た。
二歩目を踏み出しながら紅夜叉は、剣を持つジャンの腕を下からすくい上げ、手首を握って身を翻し、ジャンに背を向けた。
そのまま剣で面を打つ様に、あるいは斧で薪を割る様に、ジャンの身を背負い投げにして、地面に叩きつけた。
「――っ!」
息が詰まって声にならない声を上げるジャンの手から木剣を奪った紅夜叉は、一度ジャンの胸を木剣で小突き、放り捨てた。
「もう終わりか?」
「ま、まだだ……」
息も絶え絶えながらなんとか木剣を拾ったジャンが、もう一度構える。紅夜叉はやはり、棒立ちだ。
ジャンが、最大限一気に突き込んだ。しかし紅夜叉は、右回りに半回転してそれを避ける。簡単に避けたようだが、ジャンは手加減できる相手では無いと、本気で鳩尾を狙っていた。それを苦も無く避けた。
避けながら左手でジャンの腕を掴み、引き寄せる。そしてジャンの肘に、右肘を思いっきり振り下ろして、ぎりぎりのところで止めた。
「……解るな?」
「止めなきゃ、折られてた」
「そうだ。だがまだ自分が死ぬ人間だという事は、解っていない様だな? もう一度だけ教えてやる。来い」
ジャンが木剣を右の八相に構える。なんとなく解りかけてきた。棒立ちの紅夜叉と向き合っていて、汗が噴き出してくる。
自分では勝てない。だが戦場で、紅夜叉の様な相手に捉まって、それでも生き残らなければならない。そういう戦い方を、どうすればできるのか。
しばらく対峙したまま動かずにいたが、斬り込むしかないと思った。紅夜叉は多分、このまま何時間でも動かずにいられるだろう。
だが自分はいずれ、心身ともに限界が来る。そうなれば、戦わないまま負けて、死ぬ。その前に活路を開くしかない。そうジャンは思った。
斬り込んだ。肩を狙っての袈裟切り。紅夜叉はどう対応してくるか。
腕を、伸ばしてきた。両腕を、こちらに伸ばしてきた。飛び退くより先に、右手首と胸倉を掴まれて、引き寄せられた。
支えが無くなった。急に足に力が入らなくなったと感じた。紅夜叉が足を掛けて、ジャンの体勢を崩した。そのまま突き倒す。ジャンの体が、仰向けに倒れて行った。
衝撃は、それほど無かった。頭が何かに支えられているらしく、紅夜叉の頭が見えていた。
「大丈夫か?」
「イスカ」
倒れるジャンの頭を、とっさに飛び出してきたイスカが支えていた。
「帰ってたのか」
「ついさっきな」
ジャンの上体を起こしたイスカが、紅夜叉を睨みつける。
「それより、どういうつもりだ。今のは危なかったぞ。一歩間違えば死んでいた」
「死んでいた? 俺が?」
ジャンが怪訝な声を上げる。この情況で死んでいたかもしれないとなれば、自分以外にはいない。しかし、当のジャンには全く実感が無かった。
「君は頭から落ちていた。あのまま倒れれば、地面にぶつかる衝撃は全部頭に行く。お世辞にも柔らかくは無いここの土に頭を強く打ちつけていれば、運が悪ければ死んでいただろう」
言われて初めて、ざっと血の気が引く思いがした。
「それが解らんから駄目なのだ。死ぬまでどうして自分が死ぬのか解らない。もし死んだ後も幽霊になって意識が有るとしたら、死んでも自分が死んだ理由が解らずに呆然としていただろう。
そう言う奴は、どれだけ強くなっても死ぬ。お前は戦場に立ち続ければ、長生きはできない。だから、いくら剣の腕を磨いたところで無駄だ」
「それを教えるために、わざわざ殺しかけたのか!」
紅夜叉の冷たい物言いに反発して、イスカがどんどん熱くなっていくのが見ていて解る。
「どのみち死ぬなら同じ事だろう。軍の調練でも時々死人は出ている、それと同じ事だ」
「あえて殺しかける様なやり方をする必要は無いだろう!」
「いいや、こういう手合いは死に掛けないと解らん。死んでも解らんかもしれんかったがな」
「君のその態度にも慣れたつもりだったが、今日ばっかりは我慢の限界だ! 周りの人間まで巻き込むな!」
「周りの人間に何の影響も与えずに生きられるもんならそうしてみろ。文句が有るなら、やるか?」
「いいだろう。変身!」
イスカが一瞬光に包まれ、衣服が変わり槍が現れる。
「操、刃引き」
「はいはい」
紅夜叉が、ため息半分に応えた操から刃引きの刀を受け取り、払った鞘を放り捨てる。
「ああ、また始まったよ」
睨み合う二人から退散したジャンが、力無くつぶやく。その隣に、鞘を拾った操がやって来た。
「なあ、操ちゃん。俺は戦場には向かないか?」
「それは……」
操は口ごもったが、それは答えを明言しているに等しい。
「まあ、そうだろうな。こうして紅夜叉を見てると、勘が尋常じゃない。未来でも見えてるのかって動きをしてる。イスカだって、読みなのか勘なのかは解らないけど、的確だ。俺には才能が無いのかな」
「えっと――」
「いや、いいんだ。何も言わなくていい。こんなこと棟梁に聞かれたら、また何か言われるだろうし、才能がどうこう言うほどの鍛錬もしていない。
でも、なんだろうな。何かしっくりこない、と言うのは感じていたんだ。だからと言って他にどうしようもないんだけれど、死ぬ人間だというのは、そう間違っちゃいないと自分でも思う。
俺は、紅夜叉やイスカとは、住んでる世界が違うらしい。俺には、あんな顔はできない」
顔。イスカの顔は、悲壮なまでの必死さとひたむきさで、凄まじい形相だった。少し、紅夜叉のそれに似て来た様な気もする。だが意志の強さがここまで伝わってくるような、強い表情だった。
紅夜叉は、笑っている。あの歪み切った狂気の笑みを浮かべて、自分の死すら楽しみに待ち望んでいる様に見える。そして心底から快楽を感じているのか、どこか陶酔的だ。
どちらの顔も、自分にはその半分、いや一割も出来ないだろう。
自分に戦士としての生き方はできない。そういう事だと思った。




