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乾いた音が、繰り返し響く。
ウトの街にある、歩兵第3大隊の練兵場では調練が絶えなかった。戦が始まった今、自分達は最前線に居ると言う意識が、兵の一人一人にまで強くある。
兵に混じって、左右の髪を揺らし、汗を飛ばして棒を振るう少女の姿が有る。兵と立ち合いをしているが、挑みかかる兵は次々と打ち据えられていく。
十人ほどの兵が全員打ち倒され、挑む者は居なくなった。倒された兵が立ち上がり、整列して礼をする。
「ありがとうございました」
「いや、こちらこそ、ありがとう」
休憩に入り、それぞれに汗を拭いたり、手近なところに腰を下ろして水を飲んだりする。練兵場の他の場所では、集団行動の調練などををやっている。
「おうおう。皆、良くやっている様だな」
「大隊長」
訪れた男に、周囲の兵が一斉に立ち上がって礼をする。30過ぎた、精悍な男だ。
「いや、そのまま。おう、イスカ殿。わざわざこんな所までよく来てくださった」
「いや、私自身のためでもあるから、気にしなくていい。ええと……」
「蟹田と言います。イスカ殿」
蟹田が右手を差し出す。
「殿、なんてそんな、気を使わないでくれて良い」
手を握り返しながらイスカが恥ずかしそうに言う。
「そうは言っても、殿の親衛隊のお一人ですから」
「それを言うなら、蟹田さんだって大隊長だろう」
「いや、私なんてとても。人より剣の腕が立つから大隊長になった様なもので、皆をまとめるのに苦労しているくらいで」
「棟梁様が大隊長に選んだんだ、もっと自信を持って良いと思う」
「ありがたい事です」
「今日は視察ですか?」
「まあそんなところですが、やっぱり剣を振っていた方が性に合うもので。兵の調練にかこつけて汗をかきに来たのです。
よろしければ、お相手願えませんか?」
「構わない」
「では早速」
蟹田が稽古用の道着に着替え、木剣を構える。イスカも棒を構えて相対する。
向き合うと蟹田は、特に筋肉質の体をしているという訳ではない。体格も平凡で、これで腕が立つと言うのは、技に長けているのだろうとイスカは思った。
技に長けた相手なら、あまり槍を長く持つのは良くない。長さを活かす戦い方は、正面の敵には強いし、多人数を相手にする上でも有利だ。
しかし近い間合いに弱くなり、脇から踏み込まれると弱い。技で戦う相手なら、脇から踏み込まれる事は特に警戒すべきだ。
正面からこちらに飛び込んできて、それで肉薄するまで迫れる紅夜叉は規格外だ。
イスカは槍の中ほどを持ち、隙を窺う。下手に長さを活かそうとするのは危険と言えども、全く長さを活かさない訳でも無い。
長柄の武器である槍が剣に勝る点を一つ挙げれば、間合いを自由に変えられる事だ。それも、持ち方を変えずとも、浅く突くか深く突くか、突き方だけで間合いを自由に変えられる。
間合いを変えながら戦い、相手を揺さぶる。これは剣にはできない。
イスカは踏み込みながら浅い突きを繰り出した。それは軽く受けられるが、浅い突きは引いてもう一度突くまで早い。次々と攻撃を仕掛け、押し続ける。
顔を狙って突き、反射的に顔を庇った隙に、鳩尾を突く。だが防がれた。やはり、簡単には崩せそうにない。
守りに徹していた蟹田が動いた。まず後ろの左足を、次いで前の右足を、順番にコンパスで四半円を描く様に滑らせ、イスカの右に滑り込む。
蟹田の剣が振り下ろされる。イスカは左後ろに身を引く。切っ先が、ほんの僅かに届かない虚空を斬った。そのぎりぎりの間合いを、イスカは掴んでいた。
柄の前の方を握る左手を緩める。左手の筒の中を滑らす様に、柄の後ろを握る右手で槍を突きだした。両手で握るよりも突き出される距離が長くなる。
「……参った」
イスカの突き出した棒の先端は、蟹田の喉元で止まっていた。
「ありがとうございました」
「いや、こちらこそ。わざわざ付き合っていただいて申し訳ない。唯一の取り柄もこの程度の腕前で、まあお恥ずかしい限りです」
「蟹田さんはもう大隊長なんだから、あまりそういう事は言わない方がいいと思う。部下だって見ているのだし」
「確かにそうかもしれませんが、どうにもまだ慣れないもので。柳大隊長の様にはいきません」
「柳……。トサの、第1大隊の大隊長さんか?」
「私は反乱事件の後の再編で大隊長に上がるまで、第1大隊で中隊長をやっていました。当時から剣の腕なら第1大隊でも一番だと自負していたのですが、私にはそれだけです。
その点、柳大隊長は腕っぷしはからきしですが、指揮は的確だし判断は早い。相手の意表を突く様な事もやる。指揮官らしい指揮官でした。
だから手本にしようと思ってはいるのですが、これがなかなか」
「大隊長と言うのは、そんなに難しいのか?」
「難しいですね。中隊長として百人くらいを預かっていたときは、指揮は上から言われた通りの事をすればいい。部下とよく話をして、戦場では先頭切って斬り込んで見せれば十分やっていけました。
大隊長になると、ある程度上からの命令はあるが、自分で判断して動かないといけない。部下も今は五百人以上居るから、まとめるのも一苦労です」
「そうか、自分の判断で五百人の命を預からないといけないのか。それは、重いな」
「重いですね。しかしまあ、将校は慕ってくれていますから、なんとかやれていますよ。兵一人一人までは見ていられないのが辛い、というより、落ち着かない所ですが」
「それでも、先の戦いでは役目を果たせたのだろう? なら、十分にやれている、という事じゃないか」
「あれで、いくらかは自信が付きました。でもまだまだです。まだ私自身、大隊長である自分に慣れていない、どこかぎこちない感じがします。
胸を張って自分が第3大隊の大隊長だと言えるようになったら、先任の方々の足元位には及べるでしょうかね」
「早く、そう言えるようになるといいな」
その後蟹田は、大隊長ともなると書類仕事が煩わしくて敵わないと苦笑いしながら、仕事へ戻って行った。
イスカも今日はこれで切り上げる事にした。宿舎に戻る道すがら、そろそろトサに戻ろうかと考えた。高星がまた、戦を始めそうな気配が有る。
中小国の死が、戦の理由だろう。弔い合戦という訳ではないが、先の戦は中小国の戦死で早めに切り上げたというところがある。
態勢を整え直して、本来ならもう一押しするつもりだった分を、改めて仕掛ける。そのために軍の、特に騎兵の再編を急いだと言う気配が有る。
なんとなく、漠然とした不安を感じていた。攻めて、思うように攻めきれなかったので、攻めきれなかった分をまた攻める。そこには危ういものが有ると思った。
しかし、高星がそう容易く冷静さを欠く様には思えなかった。それに自分は一兵も指揮した事の無い、戦略戦術に関しては素人だ。要らぬ心配かもしれない。
むしろ、中小国の様なかけがえのない人物から、顔も名も知らない一兵卒まで。多くの人間の命を背負ってなお冷静に、時に冷酷なまでに指揮を執り続けなければならない高星の重荷を、痛々しいと思った。
いや、それ以上だろう。高星が背負っている物は、何十万と言う安東家領の領民、今まで殺した、そしてこれから殺す敵の命と思い。数えきれない何かを、余す事無く背負っている。
「重いな」
重すぎると言っても過言は無い。たった一人、大事な人一人の命すら背負うにはあまりに重く、滑り落ちてしまう。そして、代わりにその人の死を背負っていくしかなくなる。それだけでも十分重い。
そう考えると、蟹田の様な大隊長の役目すら、イスカには途方も無く重いものに思えた。イスカが背負った人間は、それよりはるかに少ないと言うのに。苦しいほどに重いのだ。
数の多寡では測れないのかもしれないが、何百人もの命を背負う事が、重く無い訳は無い。
だがそれでも、逃げる気も、放り捨てる気も無い。それが可能であったとしても誰も、高星も、蟹田も、イスカも、背負ったものを捨てようとは思わない。それだけは同じだ。
自ら望んで背負ったにしろ、何かから与えられて背負う事になったにしろ、その手に持つには大きすぎるものを、その背に負うには重すぎるものを、必死に背負い続けようとしている。
重荷を、大事なものとして背負い続ける意志を固めたのだ。だから、高星は蟹田を大隊長に任じたのかもしれない。
「でも、私は……」
心細かった。誰にも言った事は無いが、本当は心細かった。今までは、折れずにいる事が出来た。だが明日も折れずにいられるかは、自信が無い。
自分は弱くて、未熟なのだ。ジャンに対して偉そうな事を言った事もあるが、本当は自分自身、一歩深い所に踏み出せずに迷っているのかもしれない。
それを認めるのも、ましてや他人に晒すのも、自分は怖がっているのだろう。夜、心細くなって銀華の布団に潜り込み、抱き着く様にして寝た事も、何度かある。
それを紅夜叉やジャンに知られたときは、ずいぶんからかわれるだろうと思ったが、紅夜叉はジャンにしか言わなかったし、ジャンは一度だけからかっただけだった。
本当は、自分の傍に誰かが居てくれるだけでいいのだ。でも自分の弱さを見せたら、彼らは居なくなってしまうかもしれない。弱い自分が居るせいで、誰かを傷付けてしまうかもしれない。
それが怖くてずっと自分を取り繕っている。そんな気がするのだ。もう自分の本心も良く解らない所に迷い込んでいる。
一体自分はどれだけ間違うのだろう。一体どれだけ強くなれば、何かを失わずにいられるのだろう。
大事な人と言える人達が傍に居て、彼らの事を信じられるから、自分はまだ立っていられる。自分は何か間違ったとしても、彼らの事は間違っていないと信じられる。
なぜ信じられるかと言えば、その目を見た時にそう感じたからだ。遥か昔に、姉にそうやって信じられる相手を見分けるのだと教えられた。
そう教えた姉の事を今でも信じているから、今でもそうしている。そしてそれで間違った事は、まだない。
自分の理想も、本当は自分が一人残されるのが怖いのだ。それだけの事なのだ。
それでも、間違っていないと思っている。信じている人達との繋がりは、最後の瞬間まで大事にしたい。だから、別れは涙では無く、笑顔であるべきだ。
まだ、立っていられる。まだ、歩ける。
気付けば宿舎の前を通り過ぎていた。
誰が見ているでもないのに顔を真っ赤にしながら、イスカは行き過ぎた道を小走りで戻った。




