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攻城戦は実にのんびりとしたものの様に見えた。
安東軍は城壁からの攻撃が届かない距離を保って砦を包囲し、散発的な攻撃を仕掛けている。
砦は北側の小川が水堀の役割を果たしている以外は、攻城兵器を近づけさせないための空堀が掘ってある程度で、近づく事自体は容易だった。
だが安東軍は、決して城壁に取りつく様な事はしない。城壁を登ろうとする兵は、上から見下ろせば静止した的である。城兵からすれば、確実に狙いを定めて弓矢を射込める。
まして落石を受けようものなら、軽傷では済まない。砦の攻略にこだわらない安東軍は、その様な損害を出す理由も意思も無く、ただ隙を見せれば攻め込むという姿勢を見せつけるばかりである。
故に攻城戦のやり取り自体は激しさの無い、牧歌的な物さえ感じさせるものであった。
しかしそれに反して戦場に漂う緊張感は、ある種の息苦しさを感じさせるほどに張りつめていた。
両軍とも、この場での戦いが死力を尽くすべきもので無い事を理解している。本当の戦いは、現在北上中であろうコルネリウス軍の本隊が現れてからである。
安東軍、ジヘノ砦守備軍共に、思惑は違えどコルネリウス軍本隊を待ちわびている。安東軍は会戦で一気に勝負を付ける為に。守備軍は会戦に際して、安東軍の足枷となるべく。
両軍ともにその時を待ち、緊張の中で手の内を隠しながら対峙を続けているのである。あたかも剣の達人同士が、相手の僅かな呼吸の乱れを待ってにらみ合うかのように。
ジャンにとってあまり居心地の良い雰囲気では無かった。いっそ武器を振るい、敵に斬り込む方が、勢いに身を任せ、興奮に酔って無我夢中になれる分、楽だと思った。
それでは駄目だ、こういう情況でいつまでも耐えて待つ事が出来てこそ将たる資格があると言うのは理解できる。
だがどうにも慣れない。追っ手から逃れるために、身を隠し、息を潜めてやり過ごそうとする時の、ひたすら脅威が去ってくれる事を震えながら願う感覚を思い出してしまうのだ。
今の今まで思い出す事も無かった過去の体験が、思いの外根深く自分を形成している事に、驚きを禁じ得ない。
ともかくじっとして居られないので、時間と立場が許す限り陣中を歩き回った。現場を実地に見回って軍事の学習、と言う名目で申請すれば、むしろ熱心な事だと感心された。
我ながら少し、小狡いと思う。何より自分自身を欺いているという自覚がある。
そんな微かな後ろめたさを心の奥底に押し込み、ひたすらに兵の様子を見て回る。特に気になったのは、民兵の様子だ。一体どれほど戦えるのか。
結論から言えば、意外に悪くなかった。
元々武器を扱う事はできる志願者の集まりである。砦の包囲に参加しながら調練をしている様な状態ではあるが、部隊としての集団行動は一応できていた。
まだどこかぎこちない集団行動をする様子を見ながら、まだ新兵だった去年の自分も、同じ様な事をして、同じ様な注意を受けた事を思い出した。
素人の集団をそういう風に見れる程度には、軍隊慣れしたという事である。
あまり自覚は無かったが、自分も少しは成長し、得たものも少なからずあるという事なのだろう。
ほとんど空っぽだった自分と言う器に、少しずつ何かが溜まっている。まだまだ僅かな物ではあるが、溜まった事を自覚できる程度にはなっている。
過ごした歳月は、無駄では無い様だ。
◇
目に刺さる様な赤だった。
わざわざ新品の紅装束を仕立てて戦場に赴いた紅夜叉が、片膝を立て、刀を抱える様にして攻城の様子を眺めている。
「相変わらず悪目立ちするな」
「悪目立ち、と言うのは少し違うだろう。戦場で俺はここに居るぞ、と示すために目立っているのだからな」
「前々から思ってたんだが、戦場でわざわざ目立つ事をしてたら死ぬぞ。それとも自分は死なない自信があるのか? まあ、お前なら確かに死にそうに無いけどさ」
「逆だよ。死が向こうからやってくる、俺を殺そうと襲ってくる。その死線を掻い潜り、逆に殺してやる。それがたまらないから、こうして死を呼んでいる」
紅夜叉がにやりと口元を歪める。犬歯がのぞき、禍々しい凶相になった。
「やっぱお前、狂ってるわ」
「今更だな」
「ああ、今更言うまでも無かったな」
「まあ、死なない自信があると言えば、ある。自信と言うより、確信だな」
「確信ね。どうしてそこまで言い切れる?」
「死線が見えていれば、死なずに済む方法は解る」
「死線が見える、だと?」
「いつの頃からだったかな。気付けば見える様になっていたんだよ、どこをどう致命的な一撃が通るか、どう動けば死んで、どう動けば死なないか。
見える、と言うのも正確じゃないな。見える訳では無いが、解る。それが空間に線を引いた様に理解しているから、まあ見えると表現するのが近い」
「まさか、そんな事が」
「疑うのなら見せてやろう。そうだな……あそこに城壁を登ろうとしている兵が居る」
紅夜叉が指差した先で、一人の血の気の多い兵士が、被害を出さないように攻めると言う方針を無視して城壁を登ろうとしていた。
「あれは死ぬな。このまま行くと、中ほどまで登った所で死線と交わる。その下の方に居る兵は、背を向けて逃げれば生きるが、後ずされば死ぬな」
にわかには信じがたいが、適当を言っているとも思えない。半信半疑のジャンの視界の先で、果たして城壁を上っていた兵は中ほどまで来たところで、落とされた岩に当たり落下した。遠目からは確認できないが、おそらく圧死しただろうという落ち方だった。
その落ちてきた兵と岩に驚いて、下がると死ぬと言われた兵が飛びのいた。瞬間、彼の胸に矢が突き立ち、仰向けに倒れた。背中に刺されば致命傷にはならなかったかもしれない。
呆然とするジャンの横で、紅夜叉が笑いながらつぶやく。
「最初の兵は、あと数メートル右を登れば登り切れた。まあ、単身で城壁の上まで行っても、死ぬのが遅くなるだけだったろうがな」
「……こんなの見せられたら、信じるしか無いな。お前はそうやって、死線を掻い潜っているから死なないのか」
「少し違うな。死線を潜っても、それは死なないだけだ。殺す事はまた別だ」
「なら殺すには、どうするんだ?」
「死線ごと、斬る。それで自分は死なず、相手が死ぬ事になる。斬りそこなえば、俺が死ぬだけだ。死線を掻い潜る、という発想では、相手の命に刃が届かない」
「……やっぱお前は狂人だ」
「だろうとも。斬る、殺す、殺戮する。それが唯一無二の抗い難い快楽、生きている実感である者など、人間であるはずが無い」
言いながら紅夜叉は、本当にそうだろうかと言う引っ掛かりを覚えた。何か、自分の言葉に嘘がある様な、とげが刺さった様な感覚を覚えた。
殺人こそに快楽を感じる存在が、人間であろうはずがない。そこは間違いない。確信も、納得もある。殺人こそが唯一無二の快楽、そこに違和感を覚えた。
殺す事、それこそが自分にとって唯一無二の快楽であり、生きているという実感。それは疑った事の無い、真理であるはずだった。現に、いままでそれに違和感を覚えた事など、無い。
だが今、それだけが己の快楽であると断言してみると、そこにはぬぐい難い違和感があった。
つまりそれは、殺戮以外に生の実感を感じた事があるという事か。何時だ、一体それは何時の事だ。
金で雇われるその時限りの傭兵では無く、安東高星のために働いている事か。
ジャンやイスカを引っ張りまわし、彼らの金で大いに遊んだときか。
それともしつこく模擬戦の勝負を挑んでくるイスカを叩き潰したときか。
「おい、紅夜叉。どうかしたか?」
我に返った。ジャンが怪訝そうな表情をしている。
「なんかぼんやりして、お前らしくないぞ」
間抜け面をしている。いまここで剣を抜き、こいつを斬り捨てれば、自分が死んだ事すら気付かないままに絶命するだろう。
急に鬱陶しくなって、舌打ちをした。
「うるさい。なんか興が削がれた。目障りだから失せろ」
面倒臭げに手で追い払う。ジャンはまたいつもの気分のムラだと思い、大人しく退散した。
去っていくジャンの後姿を横目で見ながら、心に立った細波が収まらない紅夜叉は、忌々しげに唾を吐いた。
「なんだってんだ、くそっ!」
早く、早く自分が剣を抜ける様な戦場が来ないか。あの場所こそが、唯一自分が純粋でいられる、ただ生の実感だけに浸る事の出来る場所だ。
地獄ではないが、決して天国ではありはしない。だが自分にとっては最高の、戦場と言う居場所だ。それが早く、訪れないものか。
◇
イスカが物憂げな表情で攻城戦の様子を眺めていた。親衛隊の黒服を着たイスカは、相変わらず大きすぎる服を着たような似合わなさがある。
「何見てんだ」
声を掛けると、驚いたような表情を浮かべてこちらを見た。
「ああ、君か。いや、大した事じゃない」
「まあ、お前が何を考えているか、なんとなくは解る様になった」
ジャンがイスカの傍に腰を下ろす。イスカもそれに合わせて草の上に腰を下ろした。
「戦いの様子を見ながら、他にどうしようもなかったのかって考えてたんだろう? お前がそう言う奴だってことは、解ってきた」
「その通りだ。いや、少し違うかな。戦わずに済めば、そもそも戦う必要が無ければ、それが一番良い。でも誰も、そういう道を見つけられなかったのだから、戦うしかない。
解っているんだ、そんな事は。なのに、解っているはずなのに、他にどうしようもないから戦っているのに、他にどうにかする道が無かったのかと考えている」
「お前も大概あきらめが悪いよな。
……俺が言えた事でも無いのかもしれないけどさ、辛かったり、戦う理由が見つけられないなら、黙って居なくなってもいいと思うぞ。
少なくとも棟梁はそれに何も言わないだろうし、俺だってお前がそうしても、逃げ出したとか、弱虫だとかは言わない。
お前が理想と現実の間で悩んでいる事は、まあそこそこ解ってるつもりではいる」
イスカは、小さく首を横に振った。
「私は逃げ出したりはしない。どれだけ理想を言っても、現実が厳しい事はとうに覚悟している。だから私はここに居る。
……ただ、彼女には顔向けできそうには無いな」
「彼女ってのは、お前の大事な友達と言うやつか? 確かもう……」
「居ない。それはそれとして、まだ彼女と会って間もない頃、私は一人の追手と対峙した」
「追手?」
「異端審問官と言うやつらしい。ただそいつは一人で、特に強かったという訳でも無かったから、功を焦ったんだろう。
私はそいつを返り討ちにした。そして、私がまさにそいつに止めを刺そうとするとき、彼女は私にしがみついてそれを止めた。
その理由が解るか?」
「誰が相手であろうと、殺すのは良くない、とか?」
「私に人殺しになって欲しく無い。だとさ」
イスカが目を閉じ、思い出すように静かに言った。
「なるほど。そりゃ、顔向けできない訳だ」
「ああ、全くだ。とっくに顔向けできやしない。だって彼女を殺したのは……私なんだから……」
「どういう意味だ?」
「文字通りの意味だ。彼女の胸に槍を突きたてたのは、私だ」
それがどういう情況で行われたのか、どういう背景を持つのか。それを尋ねるのは踏み込み過ぎだと思った。
その記憶はイスカにとって、きっと一種の聖域だ。イスカが自ら語らない限り、知ろうとするべきではないのだろう。
それに、どうせ自分とは関わりの無い過去の事だ。今ここに、イスカの友達は居なく、ジャンが居る。ならばこれからの事に、居ない人間は関係無い。
「それが世の理不尽、か。そういう結末になったという事は、他にどうしようもないからそうなったんだろう」
「そうだな。他にどうしようもなかった。今でもそう思う。だがそれでもまだ諦めきれないでいる。美しい理想、というやつを」
「美しい理想、ね。だが理想が美しいまま叶うはずもないだろう。まさに今、俺達の目の前で、血で汚れている」
視界の先で、安東軍の矢に当たった不運な城兵が、真っ逆さまに落ちる。
「そうだ。語るとき、夢見る時は美しい理想が、実現する過程で血で汚れない事なんて、多分絶対に無い。
だが、だからと言って最初から汚れてしまった理想を見る事に、意味はあるのか? どうせ叶わないからと、美しい理想を夢見る事を止めたら、何のために行動すればいい?」
「……さあ、解んないな。美しい理想とやらを抱くより先に、汚れきったこの世の裏を知って、理想を抱いた事自体が無い俺には、解んないよ」
「なら一つ、聞かせてくれ。何の理想も抱かない人生の中で、何かを得た事は有ったか?」
「無い。何も無い。何も有りはしなかった。何かを得るどころか、昔の記憶すらスカスカで、空っぽだ。それだけは断言も即答もできる。
いや、盗みとか、鍵開けとか、そういう細々した技術なら身に付けたか。そういうものを身に付けたところで、さらに厭世的になっただけだったが」
「……そうか。ならやっぱり、いずれ血で汚れると解っていても、美しい理想を追い続ける事には意味が有ると思う。少なくとも私は、そう思いたいんだ」
「どうしてそうまでして、理想を追う事にこだわる? 目の前の手が届く現実を少し変えられれば、その位でもいいじゃないか。
それだって容易くは無いから、俺は寝ても覚めても同じ様な日々を過ごす事になった」
「目の届く、手の届くところで起きる悲劇を、理不尽を、悲しい別れをいくら止める事が出来たとしても、それで何かが変わる訳じゃない。
世界は広すぎて、そこに起こる理不尽は数えきれなくて、そして私はちっぽけだ。どれだけしらみつぶしにしたところで、私が倒れた時に、何も変わってやしないだろう。
それだったら、どんなにか細い可能性でも、世界を根本から変えられる可能性を追い求めたい」
「そのために、まさにその手で人を殺して、その理想を汚してもか?」
「そうだ」
「そうやって真っ黒になるほど罪を背負って、その先に無残な結末しかないかもしれなくてもか?」
「そうだ」
「無謀だな」
「そうでもない。だって私より先に、そういう道を歩き始めた人が、すぐ傍に居るじゃないか。だったら私も悩んでなんかいられない。
世界を変えると言うのはとてつもない理想だけれど、前を進んでいる人が居るなら、私もその道に挑んでみたい。だってもし叶うなら、それこそ私の理想なんだから」
「なるほど、そう言えばそうだったな。まあ、無謀さで言えばお前の方が勝っていると思うがな」
「二番煎じなんだから、せめて目標の大きさくらいは勝たないとね」
「本当に、馬鹿な理想だよ。でも応援するぞ。その理想に共感するからじゃなく、その理想を追い求める奴らの事が、個人的に好きだからな」




