6
明るい夜だった。ただし、月はか細い。
初夏の頃が一番昼が長い。暮れなずむ晩春の陽がようやく沈んでも、まだ夜空の色は明るく青かった。
日が長くなるに伴って、夜風も何時しか暖かくなっていた。すでに昼間より一枚多く羽織れば、夜風に当たっても体を冷やす事も無い。
「道士様は真夏でも真冬でもその格好の様ですがね」
高星が楽しんでいる様な軽快な口調で言う。杯に酒を注ぎ、片手で持ったまま開け放たれた障子戸の外を眺める。
「修業を積むと吹雪の中でも凍えず、炎の中でも火傷をしなくなるそうだ。私にはまだまだ遠い話だが」
若水道人はいつもと変わらぬ草で染めた自然色の、上下一体の襟の有る衣服を着て帯を締めている。杯の酒に口を付け、僅かに目を細めた。
「思えば去年、私は別れを告げるつもりで道士様を訪ねた。別れが一年遅くなったからと言って、特に感慨が有る訳でも無いな」
「それは私も同じだ。私にとっては出会いも別れも、すでに通り過ぎるだけの事になっている」
「とは言いながら、こうして別れを告げに来ている」
「私もまだまだ俗っぽい所が抜けなくてな。師匠に何と言われるかと思うと、酒を飲まねばやってられなくなる」
高星が声を上げて笑った。ひとしきり笑うと、酒を一気に飲み干し、満足そうな息を吐いた。
「それで、道士様はこれからどうなされるので?」
高星が肴をつまむ。
「どう、と言われてもな。しばらくは師匠の下で真面目に修行に励むしかないだろう。その後は……まあ、まだ見ぬ遠国にでも足を延ばしてみるかもしれん」
「ま、そんなところなのでしょうな」
「そういうお前はどうなのだ。お前はこれからどうするつもりだ?」
「どうもこうも、戦に身を置くだけです。すでに友と認めた男は先に動き出していますので、後れを取る訳にはいきません。何年続くか解りませんが、一年や二年ではないでしょうな」
若水道人が杯を置き、遠い目をした。
「変わらんな、人は。相も変わらず愚かな過ちを繰り返し、争い、殺し合う。人の世から争いが無くなった事は無く、これからもそんな日は来ないのだろう。
人は賢くなどならない。人は進歩などしない。『新たなもの』など、所詮上辺だけ化粧をした『過去の繰り返し』でしかない。
ならば真に新たな何かが生まれる可能性など、無いのかもしれんな」
高星は手を止めて若水道人の言葉を聞いていたが、言い終わったと見ると居住まいを正し、反論した。
「私はそうは思わん。争いが、殺し合う事が、戦う事こそが、人間の可能性なのかもしれないと思っている。私は見たい、人間の可能性を。いや、信じたいのだ。
戦う事で人はより強く、賢く、そして残酷にも慈悲深くもなる。方向は違えど、以前よりも先には進む。進まざるを得なくなる。
生きる事とは、戦って、勝って、殺して奪う事に他ならない。そして殺した者を飲み込み、吸収する事でもある。
ならば勝った者は、負けた者の全てを取り入れ、負けた者よりも先に進まざるを得ない宿命を背負う事になるはずだ。
それが戦いというものであるならば、戦いの先に何が有るかは解らないが、繰り返しでは無い『先』は、きっとあるはずだ」
「それを信じて、お前は戦乱に身を投じると言うのか。その先に、手に入れたい、夢見るものが有るのか?」
若水道人は障子戸の向こうの夜空を見上げた。高星がそうだ、と短く答えていたが、それは予想できた事なので聞き流した。か細い月に加え、明るい星がいくつか瞬いている。
「遠いな。それは遥かに遠い光だ。いくら望んだところで、とても得られるとは思えん。
望んで得られぬものならば、初めから望まぬままでいた方が幸せではないのか?」
高星は唇を湿らす様に一口酒を飲み、答える。
「道士様ならご存知でしょうが、獣は火を恐れません。火を恐れるのは火傷した事のある獣です。一度火傷を負った獣は、決して火には近づきません。
しかし人間は、何度火傷しようとも懲りずに火に手を伸ばします。何故だと思いますか?」
「さあ、何故だろうな」
何も考えずに即答した。
「期待しているからです。火の中に、甘い焼き栗が、美味い焼肉が、あるいは製錬した金が、はたまたまだ見た事も無い何かが有ると、期待しているからです。
そのために何度も手を伸ばし、何度も火傷する事もあるでしょう。灰しか無く、得たものと言えば火傷だけに終わる事もあるでしょう。
しかし、望んで、手を伸ばさなければ、絶対に何も手に入りはしません。望んで得られぬものと言いますが、もしそれを得る時が来れば、それはただの望めば得られるものです」
「夜空の星さえもその手に掴もうと言うのか」
「今は手を届かせた者が居ないと言うだけの事です。この世にある全ての物事に、初めてそれを手に入れた者が居ます」
「羨ましい事だな。そこまで思えるという事は」
若水道人は新たに酒を注ごうとする。しかし、徳利をひっくり返しても僅かに滴が垂れるだけだった。
高星が手を叩くと、ほどなくして人がやって来て、空になった徳利と皿を下げた。じきに新しい物が運ばれてくるだろう。
何時の間にやら少なくは無い量の酒を飲んでいたが、今宵の席はまだ終わらない。
◇
「道士殿、この際だから改めて言っておくが、私はあなたを好いてはいない」
「そうか」
「ずいぶんと、あっさりとしておられるのですな」
「自分が人に好かれているか嫌われているか、それもまた、すでに捨て去ったものだ」
「あえて人に好かれようと思わない事に関しては共感を覚えるが、やはり私はあなたのそういう、全て諦めた様なところが好かぬ」
「全てを諦めたのでなければ、俗世を捨てて道士にはならんよ。運命には、抗い難いのだ」
「気に入らんな」
高星ならばそう答えるだろうと思った。しかし、あまりにも想像した通りの答えにおかしさを感じ、思わず口元が緩む。
「例えば、遥か向こうに山が見えるだろう。もう黒い影としか解らぬが」
若水道人が、辛うじて稜線の解るのみとなった、遠いのか近いのかも解らない影を指さす。
「あの山に対して、山に登るのか、それとも山の絵を描くのか、それは己の自由意志によるものだ。登ろうとすれば険しい山だし、描こうと思えば美しい山だ。意思によって世界は変わる。
とまあこれが、言ってみればお前の言い分だ」
「まあ、大筋で間違ってはいないでしょう」
「だがしかし、それらの自由意志は『そこに山が在る』という前提条件があって初めて生まれるものだ。山が無ければ山に登ろうとも、描こうとも思わない。
意思は、情況から生まれるものに過ぎない。そしてなぜその情況がそこに在るのかと問えば、究極的には偶然・運命としか言い様が無い。
例えばお前が、安東家に生まれなかったら。安東家に生まれたとしても、取り巻く情況が全く違うものであったら。お前は今と同じ様な考えを持つ事も無かっただろう。
人の意思は情況から離れて存在せず、その情況が在る理由から、運命という要素を排除する事は出来ない。ならば人の意思を決めているのは、運命であると言うしかない。どれほど気に入らなくともだ」
高星はひとしきり渋面を作っていたが、やがて酒を注ぎ、一気に呷って乱暴に杯を置くと、絞り出すように言った。
「例えどんな情況の下に生まれようとも、それが私であるなら、私であると証明できるのなら、本質は変わらないはずだ」
「本質?」
「人は生まれた時は何者でも無く、意思によって自分の本質を得る物だと言う。しかし、生まれた時から持っているものが無い訳ではない。
赤子にも性格の違いはある、それを何と呼ぶかと考えれば、本質と言うべきだろう。
私が私であるならば、私の本質は変わらないはずだ。そしてそうであるならば、情況が違えど私は、私が私であるために行動するはずだ」
若水道人は別にここで高星と論争をするつもりは無い。そもそも住む世界が違い、求めるものが違うのだ、議論をする理由も無い。
しかしここで止めてはならないと感じた。苦しんでいる高星を、より痛烈に追い詰めるべきであり、むしろ高星もそれを望んでいると思った。
「本質とはそのものが何者であるかという事だ。物は初めから本質が決まっている。この世に存在する前、物を作る職人の頭の中にのみ存在するときから、『それが何であり、何のために存在するか』は決まっている。
しかし人間は、まだ何者でもない状態でこの世に放り出されるものだ。僅かに個性の違いがあったとしても、それは些細な違いに過ぎない。
人は自分が何者であるか、何のために生きているのか。それを自分の意思で、後天的に決定し、獲得するより他に無い存在なのだ。
お前のその意思・本質も、お前が望んで得たものだ。つまり山に登るか、山を描くかは選べる。選んだ結果がお前の本質だ。しかし、情況から自由ではない。
ならば、持って生まれた本質など無い。ただ周囲の情況が有り、その情況の下に生まれると言う運命であったのだ」
高星は俯いていた。のみならず、その手はわなわなと震えていた。しかし、涙を流してはいなかった。悲しみではない、怒りでも無い、悔しさでも無い。ただ苦しみの中から、答えを見つけようとしていた。
「……私以前に、我が一族と臣民を取り巻く情況を変えたいと願い、戦った者が居なかった訳では決してない」
すでに若水道人に対する反論の体を為してはいなかった。ただ苦しみの海の中で、口からこぼれ出した泡だった。
「だが皆敗れた。胸に抱いた思いを果たす事が出来なかったから、今が在る」
もうかなり飲んだはずなのに、高星の言葉を聞く若水道人の頭は冴えきっていた。
「それは運命なのか? 仮に運命だとしても、頑張ったが、努力したが、死力を尽くしたが、駄目だった。
それを認めるのが苦しいから、そういう運命だったのだと言うのは、それでいいのか?」
彼ならば、答えにたどり着けずに彷徨い続ける事は無いだろう。方向は真逆だが、自分も一つの答えを見つけ、そして若水道人となったのだ。
ならば、ありえたかもしれない自分の姿の様な彼ならば、答えにたどり着くはずだ。
「良い訳あるか。例えどんな理不尽があろうとも、失敗の責任は己の力不足にある。そうでなければ、今ここで、何かをしようと決意する意味が無いではないか。
全てが運命ならば、苦しみ抜いて何かを選ぶことに、意味が無いではないか」
全てを諦めたはずだったが、まだ何かに期待とやらをするという俗気を、捨てきれていないのかもしれない。
安東高星と言う男に、自分ができなかった事をしてくれるのではないかと、期待しているのかもしれない。
「私は……私は全てを背負ってやる。全ての責任、全ての重荷。それは私だけが背負う資格があるものだ。それを運命なんて簡単な言葉で放棄するなど、私の誇りが許さん」
たとえそれが、茨の道であろうとも。
◇
「さて、そろそろ行かねばな」
飲み直しを始めてすぐ、若水道人が席を立った。
「もう行くのか? そう急ぐ訳でも無いのだろう?」
高星が少し驚いたように問いかける。
「手を伸ばさねば、手に入らないとお前は言ったが、手に入らないままの方が美しいものもある。夜空の星などは、この手にしてしまえばつまらない物だろう。
酒はほろ酔い花は八分、何事も物足りなく、名残惜しいくらいがちょうど良い。ここらが別れ時だろうよ」
「待っていただきたい! まだ一つだけ、大事な話をしていないのです」
慌てて引きとめる高星に、若水道人はニヤリと笑う。
「解っている。私達の……世人が渡りの衆と呼ぶ者達の力を借りたいのだろう? それも一部の者がしている様な、金で雇い雇われでは無く、共に同じ所を目指す同志として」
高星がはっきりと驚いた表情を浮かべる。
「他人に漏らした事は無いのですが、お解りになりましたか」
「なに、私がお前だったらそれを考えると思った。そしてそう思ってお前を見ていれば、同じ事を考えているなと、なんとなく察しがついたというだけの事だ」
「その思考は少々危険でしょう。盗人ではないかと疑ってみれば、誰だって怪しく見えるものです」
「そうだな。少し主観が過ぎたかもしれん。だがお前が私達の力を欲している、それは事実だろう?」
高星は無言で肯く。その目は酔いを全く感じさせず、鋭く真剣だった。
「残念ながらそれは木端道士の私がどうこうできるものではない。話は広めてみるが、私の師匠らの様に純然たる道士仙人として歩む者は、俗世に深く関わる事を厳に戒める者も多い。それは覚悟しておけ」
「元より、そう容易く助力を願えるとは思っていません。が、せめてもう少し、お力添えをいただけないものかと」
「無論、私もそこまで薄情ではない。我らの集団は決して求道者のみではない。それ以外の山の民は、その能力を売って歩いている者も居る。
お前の下に一人、そういう者達の頭を行かせよう。彼らを雇うかどうか、どういう関係を築くかはお前次第だ。あるいは私などよりも、そちらの方から攻めた方が近道かもしれん」
「いずれにせよ、いつか自分の口で思う事を伝えてみたいものです」
「ほう、説得するとは言わないのだな」
「説得すると思っていては、余計な思惑や話術が混ざる。夢は、志と言うものは、ただそのままに伝えるべきものだと思っている。それで通じなかったのなら、それは仕方の無い事だとも」
「まあ、それは私のあずかり知らぬことになるだろう。さて、これで本当にお別れだな。次に会う時が有れば、私ももう少しましな道士になっているだろう。そのときは我が道術に驚愕するがいい」
「ましな道士なら、そんな事は思いもしないのではないですかね」
最後だというのに呆れかえる高星だったが、表情はどこか名残惜しそうな、寂寥な影があった。
「……安東高星よ、お前は孤高にして孤独だ。それは上に立つ者として避けられない宿命と言う他無い」
若水道人が訥々と語りだした。高星は黙ってそれを聞く。
「人には身分・立場の上下が有る。それは社会の秩序を保ち、世を動かすのに必要不可欠なものだ。故に、お前は頂点に立ち続ける限り、その孤独から逃れる事は決してできない」
「とうに覚悟した事です」
「黙って聞け。だが、その上下は所詮、『方内』のものでしかない。社会と言う、四角い枠組みの中にのみ存在するものだ。
だがこの世には『方外』というものがある。私の様な『方外の士』が生きる、社会という枠の外の世界だ。
ここに、上下は無い。ここでは全てのものが、存在すると言う点において、存在する価値があると言う点において、平等だ。
この世にある全てのものは、存在する以上、存在価値を認められたものであり、等しく対等だ。
それを忘れるな。例え方内から出る事の出来ぬ身でも、我らは最も深い部分で平等な対等者であり、対等者という事は、友なのだ」
一陣の風が吹き抜けた。この季節に似合わぬ、突風だった。
不意の突風に思わず腕で目を庇った高星が再び目を開けた時、すでに若水道人の姿は無かった。
「忘れるな。この世の全てが、お前の友だ」
ただ若水道人の声だけが、残り香の様に響いていた。




