第七章 提示拒否宣言
合理を捨てる。
口にした瞬間、自分でも違和感があった。俺はこれまで、合理を武器にし、盾にし、存在証明にしてきた。最適解を見つけることが、俺のアイデンティティだった。それを放棄する? 正気か、と自分に問いかける。だが正気かどうかは問題じゃない。観測者は「提示」という土俵で戦っている。ならば、その土俵を崩す。
A室の会議室。全員が揃っている。坂東は腕を組み、御堂は不安げに端末を抱え、久瀬は無言で俺を見ている。澪は真正面に座っていた。
鷹宮が静かに言う。「相良くん、合理を捨てるとは具体的にどうする?」
「簡単だ。今後、観測者から提示された選択肢には一切応じない。分析もしない。最適化もしない」
御堂が即座に反論する。「そんなの、無防備すぎる!」
「違う。最大の防御だ。やつは俺の“思考過程”を観測している。なら思考を見せなければいい」
坂東が低く唸る。「思考を止めるのか?」
「止めない。ただし“共有しない”。俺の頭の中だけで完結させる」
澪が首を傾げる。「それって、孤独に戻るってことじゃない?」
痛いところを突く。
「違う。孤立はしない。ただし、提示された枠組みでは考えない」
観測者は選択肢を与え、俺がそこから最適解を導く過程を楽しんでいる。ならば、最適解を出さない。もしくは、出しても無意味な形にする。
その日の夜、予想通りスマホが震えた。
――実験フェーズ更新。
表示されたのは、市内の病院リスト。
――三時間以内に停電。
――選択肢A:特定の病院を優先保護。
――選択肢B:全域に分散対応。
――選択肢C:情報を公開し、市民判断。
典型的なジレンマだ。
Aなら救える命と切り捨てる命が出る。Bは効率が悪い。Cは混乱を招く。
俺はスマホを机に伏せた。
澪が隣にいる。「見ないの?」
「見た。だが考えない」
「それで済む問題じゃないよ」
「分かってる」
俺は坂東にだけ指示を出した。「非常用発電機の燃料を“全病院”に即時追加。理由は説明するな」
坂東が眉をひそめる。「根拠は?」
「ない」
「は?」
「勘だ」
室内が静まり返る。
俺が“勘”と言ったのは初めてだ。
御堂が困惑する。「合理性は?」
「今は捨てた」
三時間後。
確かに市内の一部で停電が起きた。だが全病院は自立電源で持ちこたえた。被害はゼロ。
スマホに表示。
――非効率な全体対応。だが被害最小。
――思考ログ取得不能。
俺は笑わない。
ただ、スマホを裏返す。
澪が小さく言う。「本当に、見せないんだね」
「ああ」
「でも、それって苦しくない?」
少しだけ、間が空く。
「苦しいさ。俺は最適解を出すのが好きだからな」
観測者は再び動いた。
今度はメディアを通じてだ。匿名掲示板に、俺の実名と過去の問題行動が暴露された。
“クレイジーマンが国家を操っている”
“都市実験の黒幕”
炎上は一瞬で広がる。
御堂が焦る。「情報戦よ!」
坂東が怒鳴る。「対抗声明を出す!」
俺は首を振る。「出さない」
「何?」
「反応がデータになる。無視だ」
澪が不安そうに言う。「でも、あなたが悪者になるよ」
「構わない」
スマホに通知が増え続ける。罵倒、脅迫、嘲笑。
だが俺は見ない。
俺の価値は、他人の評価で決まらない。
観測者の声が、直接イヤホンから流れた。「君は変わったね、クレイジーマン」
俺は無言。
「以前は、全てを解析していた。今は拒否する」
「提示がつまらないからだ」
「それは強がりか?」
「事実だ」
沈黙の後、観測者は言う。「では最後の提示だ」
画面に映るのは、母の姿。
スーパーの駐車場。
その背後に、黒い車。
心臓が跳ねる。
合理も何もない。
ただの恐怖。
――選択肢はない。
――君が観測者になれば、全ては守られる。
俺は立ち上がる。
澪が腕を掴む。「相良!」
「大丈夫だ」
「何が!?」
俺はスマホを床に叩きつけた。
画面が割れる。
「提示は拒否する」
坂東が即座に部隊を動かす。
俺は車に飛び乗る。
頭は真っ白だ。
合理的判断なんてできない。
ただ一つ。
守る。
駐車場に着くと、黒い車は既に動き出していた。
坂東の部隊が追う。
母は無事だ。だが怯えている。
俺は彼女の肩を抱いた。
母は震える声で言う。「あんた、また何かやってるの?」
俺は答えられない。
その夜、観測者からの通信は途絶えた。
静寂。
澪が言う。「勝ったの?」
俺は首を振る。「違う。やつは俺の“合理性”を奪おうとした。だが俺は自分で捨てた」
「それって……」
「引き分けだ」
だが、胸の奥に違和感が残る。
本当に奪われなかったか?
俺は合理を捨てた。
それは観測者の望んだ変化じゃないのか?
窓の外、夜が深い。
スマホは壊れたまま。
そのとき、部屋のパソコンが自動で起動した。
画面に一文。
――最終フェーズ開始。
澪が息を呑む。
俺は静かに椅子に座った。
観測者。
まだ終わらないか。
なら、最後まで付き合おう。
狂気は、簡単には折れない。




