第三話 契約の代償 ― 前半 ―
夜の街に、鈍い霧が降りていた。
電灯の光がぼやけ、湿ったアスファルトが鈍く光る。
人影は少なく、風の音だけが響く。
その静寂の中、黒乃零は歩いていた。
黒猫クロが肩の上に乗り、金の瞳で霧を見つめている。
「……この匂い、知ってる」
クロが呟くように言った。
「血と硝子と――嘘の匂いだ」
零は視線を前に向けたまま答える。
「契約が破られたとき、世界は少し歪む。それを“呪詛返し”と言う」
やがて、二人は古いビルの前に立った。
外壁はひび割れ、看板は文字の読めぬほど錆びている。
その最上階――黒猫呪術代行事務所。
扉の前には、すでにひとりの男が立っていた。
背広姿、痩せこけた頬。
指には、黒い刻印が焼き付いている。
それは呪契約の証――十年の寿命と引き換えに、誰かを呪った者の印だった。
「……入っていいのか」
男が低く言う。
零は短く頷いた。
「すでにこの扉を見ている時点で、あなたの魂は再契約に触れている。入るかどうかは、あなたの“覚悟”次第だ」
男は小さく息を吐き、扉を押した。
黒猫が零の肩から跳び降りる。
部屋の空気は、蝋燭と硫黄の香りが混じったような独特の重さを持っていた。
零は席を勧める。
「依頼の内容を」
男は震える手で胸元の封筒を取り出した。
古びた紙には、乾いた血がにじんでいる。
その文字は歪み、掠れていた。
『十年前の契約を、破棄したい。呪った相手は、死んでいない。私はまだ、生きている。……なのに、夢の中で“もうすぐ来る”と言われる。』
零は静かに紙を置く。
「名を」
「……七瀬 透」
黒猫が男の足元をぐるりと回る。
瞳が鈍く光った。
「この人……生きてるけど、死にかけてる」
零は頷いた。
「呪契約の期限が迫っている。本来なら十年で死を迎えるはずが、呪いが不成立――つまり、“呪い損ねた”」
男は肩を震わせる。
「彼女を呪ったんだ。裏切られたから。……だけど、殺したかったわけじゃない。ただ、苦しめばいいと思った。なのに、彼女は――」
零が淡々と口を開いた。
「死んでいない、ということは?」
男は顔を覆った。
「……生きてる。俺の前に現れたんだ。十年前と同じ姿で、“どうして泣いてるの”って」
黒猫が毛を逆立てる。
「それ、呪いが“形”を変えたんだ。あなたが殺意を持たなかったせいで、“罰”じゃなく、“悔恨”として実体化した」
零は紙を指でなぞる。
「つまり、あなたの呪いは成立していない。だが、寿命は支払い済み。それが“破綻契約”の特徴だ」
男が顔を上げる。
「だから、取り戻したい。俺の十年を――」
零の声が静かに遮った。
「命の契約は一方通行だ。支払われた代償は、戻らない。だが、“契約そのもの”を縫い直すことは可能だ」
「縫い直す……?」
「契約は魂の糸で結ばれる。その糸を切ることは出来ない。だが、編み直すことは出来る。つまり――“違う願い”に書き換える」
男の目が見開かれた。
「違う願い……」
零は紅茶を注ぎながら言った。
「お前は呪った。ならば今度は、救えばいい。同じ命の糸を、逆に結べばいい」
男は小さく息を呑む。
「……俺が、彼女を?」
零は頷く。
「お前が心から“赦す”なら、呪いは救いに変わる」
沈黙が落ちた。
蝋燭の火が小さく揺れ、男の頬を照らす。
七瀬はゆっくりと頷いた。
「……わかった。もう一度、会いたい」
黒猫が零を見上げた。
「本気みたいだね」
「なら、導こう」
零は指を鳴らした。
空気が微かに震え、壁の鏡が黒く染まる。
鏡の中に、女の影が浮かんだ。
白い服、血に濡れた頬。
そして、優しく微笑んでいる。
「……透」
男の唇が震える。
「ま、真奈……」
鏡の中の女――真奈が、ゆっくりと首を傾げた。
「どうして、泣いてるの?」
その声は、あまりにも優しかった。
だが同時に、底の見えない冷たさを含んでいた。
零の声が低く響く。
「七瀬、よく見ろ。それはお前の呪いの形だ。彼女は死んでいない。お前の中で“赦せなかった想い”が生んだ影だ」
男は膝をつき、鏡に手を伸ばす。
「俺は……彼女を愛してた。裏切られたのが、怖かっただけなんだ。彼女がいなくなるのが、怖くて……」
真奈が微笑む。
「私、まだここにいるよ」
その瞬間、鏡の中の世界が砕けた。
破片が宙を舞い、黒い霧が部屋を包む。
クロが素早く跳び、零の前に立った。
「零! 契約の糸が暴走してる!」
「……未練が強すぎたか」
零の指が宙を描く。
無数の呪文が浮かび、壁の模様が陣に変わる。
光が走り、空間が歪む。
「お前の願いは何だ、七瀬透」
「……彼女を、救いたい。もう、呪いたくない」
零が手を差し出す。
「なら、契約を更新する。十年の寿命の残滓を、救済の糧とする。それでいいな?」
男は涙を流し、頷いた。
「……ああ、頼む」
零が手を握った瞬間、黒い霧が爆ぜた。
クロの瞳が光る。
「零、あれ……呪印が、二重だ!」
零の腕に、焼けるような痛みが走った。
見ると、男の手の甲に刻まれた印と同じものが零の腕にも浮かんでいる。
「……これは、何だ」
男の瞳が血のように濁る。
「……俺は、十年前、お前に契約を結んでもらった。呪いの代行者――黒乃零に」
零の瞳が揺れる。
黒猫が息を呑んだ。
「零、それって――」
「そうだ。この男の“十年前の契約”の媒介は、俺自身だ」
部屋の中の空気が、ひび割れた鏡のように歪む。
黒い霧が再び渦を巻き、蝋燭が弾けた。
「……契約の再起動だ。破棄ではなく、“回収”が始まった」
七瀬の口元が歪んだ笑みに変わる。
「お前が言ったんだ、零。“契約は書き換えられる”ってな。だったら――俺は、“お前を呪う”」
黒猫の瞳が大きく見開かれた。
「零っ!」
轟音とともに、部屋全体が黒に染まった。
世界が反転し、呪いの円が零の足元に広がる。
紅の文字が床を走り、契約の鎖が絡みつく。
零は静かに目を閉じた。
「……やはり、こう来たか」
クロが叫ぶ。
「零! 逃げて!」
「逃げぬ。これは俺の責だ」
鎖が、彼の胸を貫いた。
空気が震え、時間が止まる。
零の唇がわずかに動く。
「契約とは――願いの形だ。ならば、俺はその“終わり”を見届けよう」
黒猫の鳴き声が、闇の中に響いた。
そして――光が、すべてを呑み込んだ。




