第二話 沈黙の依頼人 ― 後半 ―
闇が、波のように揺れていた。
旧劇場のステージを中心に、黒と白の光がぶつかり合い、天井の瓦礫が震える。
風が唸り、無数の声が空間を満たしている。
――叫び。
――嘆き。
――愛の歌。
それらはすべて、誰かの“残響”だった。
奪われた声、失われた祈り、届かぬ想い。
御影真道は、そのすべてを呑み込み、姿を歪ませていく。
「見ろ、零!」
男の声が、地鳴りのように響いた。
「人の声こそが魂の証だ! 愛も呪いも、同じ音だ!だから私は集める! 永遠に響く“歌”として!」
黒乃零は、静かにその叫びを見つめていた。
瞳の奥に、かつて師を敬った少年の記憶が一瞬よぎる。
だが、それはすぐに闇に飲まれた。
「御影――あなたは、魂を救おうとした。だが、救いを願うことがいつから“収奪”になった?」
御影は笑う。
「救い? 違う、私は“延命”を選んだ。人の魂は一瞬だ。ならばそれを集め、織り上げれば、永遠になる!」
「その永遠は、死の中にしか存在しない!」
零の声が鋭く響いた。
同時に印が閃き、光が御影を貫く。
だが――それでも彼は笑っていた。
「見ろ、零。お前の足元にも、“呪い”が咲いているぞ」
零が一瞬だけ視線を落とす。
そこに、黒猫クロが静音を守るように立っていた。
彼女の体から、黒い花が芽吹き始めている。
「静音……!」
その声に、彼女がかすかに目を開く。
「私の中に、誰かが……泣いているの……」
零は一瞬、全てを理解した。
「御影……お前、彼女の“祈り”を核に術を織ったな」
御影は愉快そうに笑う。
「その通り。彼女の歌は“癒やし”をもたらす波動を持つ。私はその祈りの核を奪い、“永遠の音”に変えた。だからこそ、彼女は声を失い――今また、“私の器”になる!」
黒猫の毛が逆立つ。
「零、止めないと!」
「……ああ」
零の指先から、古い呪印が浮かぶ。
彼が決して使わぬはずだった、師から受け継いだ“封魂術”。
魂そのものを鎖で縫い止め、昇華する禁術。
御影の目が一瞬、驚きに見開かれた。
「その術を……お前が?」
「あなたの罪を終わらせるためだ」
光が奔る。
零の前に、巨大な陣が展開する。
御影の足元から黒い声の粒が吸い上げられ、天井に渦を描く。
だが――その中で、静音が苦しみ出した。
「やめて……彼の声の中に、私の“歌”が……」
零の動きが止まる。
御影が嗤う。
「愚か者め! お前が私を封じれば、この女も消える!」
沈黙が落ちた。
光と闇が均衡し、世界が止まる。
クロの声が響く。
「零、どうするの? 封じれば、静音も……」
零は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
「……なら、解く」
「え?」
「封じるのではなく、“分ける”」
彼は手の印を解き、新たな陣を描く。
幾何学のように重なる円が浮かび、その中心に“音”が宿った。
「魂は分かたれた音のようなもの。一度重なり、響き合えば、和にも、歪にもなる。だが、同じ旋律が二度と同じ音を奏でないように――祈りは、呪いにはならない」
零が静音の手を取り、その掌に符を置いた。
「君の声は、君の祈りだ。奪われたのではない。まだ、そこにある」
静音の涙が頬を伝う。
彼女の胸の奥から、かすかな音が漏れた。
最初は囁き。
次に、震え。
やがて、それは――“歌”になった。
それは、優しい旋律だった。
御影がかつて愛した世界の音。
零が初めて呪術を学んだ日の記憶のような音。
そして、今を生きる者の祈りの音。
「……なぜ、歌える」
御影の声が震える。
「お前の声は、私のもののはず……」
静音の瞳が開き、そこに涙が光る。
「あなたが奪ったのは“声”じゃない。“私が歌う理由”だった。でも今、それを取り戻したの」
御影の体が崩れ始める。
黒い声の粒が空へと昇り、ひとつずつ消えていく。
「……零……お前は、いつも……正しいな」
零は静かに言った。
「師よ――あなたの求めた永遠は、誰かの祈りの中にだけ存在する。それが、“生”という名の奇跡だ」
御影は薄く笑い、光の中へと溶けた。
その顔は、どこか穏やかで、安らかだった。
光が止み、劇場の空気が静まり返る。
舞台の上に立つ静音は、喉を押さえたまま、ぽつりと呟いた。
「……私、もう一度歌える気がします」
黒猫が彼女の足元で鳴く。
零は短く頷いた。
「その声は、もう誰にも奪われない」
外の世界では、夜が明けようとしていた。
劇場の割れた屋根から、朝の光が差し込む。
光の粒が宙に舞い、ステージの上を淡く照らす。
静音はその光の中で、小さく歌い始めた。
言葉にならない旋律。
だが、その音には確かに“生”があった。
クロが静かに言った。
「……零、あの歌、御影にも届いてるかな」
零は空を見上げ、目を細めた。
「届くだろう。呪いが祈りに変わる時、人はやっと“許される”」
劇場を出る頃、静音は深く頭を下げた。
「本当に……ありがとうございました。この声を、もう誰も呪わないために使います」
零は微笑んだ。
「それが、最も強い呪術だ」
彼女の背中が朝日に溶けていく。
黒猫がぽつりと呟く。
「零、またひとつ、呪いが消えたね」
零は首を横に振った。
「いいや。呪いは消えない。ただ“形を変えて”、人の祈りになるだけだ」
クロが少し笑う。
「……そっか。それでいいのかもね」
零は事務所へ戻り、机の上の封筒を手に取る。
次の依頼書が、すでにそこに置かれていた。
差出人の名はない。
だが封蝋には――黒猫の足跡。
零が小さく笑う。
「……クロ、お前か?」
猫はしらばっくれるように毛づくろいをする。
「冗談だ」
零は椅子に腰を下ろし、紅茶を一口飲む。
窓の外には、朝の光。
人々のざわめきが、遠くで聞こえる。
「今日も誰かが、“想い”を抱えてる」
「うん。呪いと祈りは、いつも隣り合わせだからね」
黒猫が机の上に跳び、彼の前に座る。
零が微笑みながら言う。
「行こうか。次の依頼に」
黒猫の瞳が金色に光った。
「うん、零。“黒猫呪術代行事務所”の朝だね」
窓の外で、風がカーテンを揺らす。
街は今日も、無数の“想い”で満ちている。




