第二話 沈黙の依頼人 ― 中半 ―
目を開けたとき、世界はまだ夢の名残の中にあった。
白い光がゆっくりと薄れ、黒乃零と黒猫クロの姿が見えた。
神代静音は息を吸い込む――そして、小さく声を出した。
「……あ」
それは、かすかな音。
しかし、三ヶ月ぶりの“音”だった。
喉の奥が震え、空気が震える。
その瞬間、涙が頬を伝った。
零は目を伏せ、静かに言った。
「声を取り戻したか」
静音は頷く。
だが、その表情に浮かぶのは“喜び”だけではなかった。
震える唇が、もう一度動く。
「……誰かが、私の中にまだいる気がするのです」
黒猫が尻尾を立て、警戒の音を出す。
零は小さく頷いた。
「影は消えていない。表層を取り戻しただけだ」
静音の瞳に、不安が宿る。
「どうすれば……?」
「声を奪った存在を辿る。――お前の“歌”が、どこへ届いたのかを調べる」
零は机の上の符を広げた。
薄い光が浮かび、複数の糸が空間に伸びていく。
その糸は音のように震え、どこか遠くへ消えていった。
「……反応がある。だが、場所が不明瞭だ」
「どういうこと?」
クロが首を傾げる。
零の指先が震える糸を辿る。
「この波長……“生者”ではない。魂そのものが媒体になっている。つまり、奪った者は――“死者の呪術師”だ」
クロが息を呑む。
「零……まさか、それって」
「ああ。十年前に封じたはずの、“御影 真道”」
静音が息を詰めた。
「……その人が、私の声を?」
「御影は“魂の収集”を行う呪法師だった。声、記憶、夢……人の心の形を“収穫”しては、自らの術式に変えていた」
黒猫が机に飛び乗り、符を覗き込む。
「じゃあ、静音の声もその一部に?」
「そうだ。だが――おかしい。御影は、俺が封印した。死んだはずだ」
零の瞳に、かすかな揺らぎが走る。
それは“過去”の痛みを思い出すような光。
「……十年前、御影は俺の師だった」
クロが目を細める。
「零……」
「俺がまだ呪術を学んでいた頃、御影は“魂は再利用できる”と信じていた。だが、俺はそれを拒んだ。魂は人の意志の残響だ。それを奪えば、世界の均衡が壊れる」
零の声が低く響く。
「御影は俺を裏切り、数多の魂を取り込み、“不滅”を求めた。俺は彼を封じたが――完全ではなかった。……どうやら、“歌”という新たな器を見つけたようだ」
静音の指が震える。
「私……利用されたんですね」
「いいや、まだ終わっていない。奪われたものを取り戻すことこそ、お前の“祈り”になる」
黒猫が尻尾を立てる。
「零、場所は?」
「……音が導く。彼女の声の残響を辿れば、呪いの巣まで行ける」
零は立ち上がり、外套を羽織った。
「行くぞ。御影の残滓があるのは、この街の“旧劇場跡”だ」
夜の街を抜けると、霧が立ち込めていた。
路地の先に、崩れかけた建物が見える。
――旧セレスティア劇場。
かつて神代静音がデビューを果たした場所。
今は閉鎖され、誰も寄りつかない。
クロが耳を立てる。
「零、この気配……ただの呪いじゃない」
「“群体式”か。御影は死後、己を“無数の声”に分解した。人々の心の中に残響として宿り、媒体を探す」
零が符を掲げると、劇場の扉が開く。
中は闇。
しかし、奥からかすかな歌声が聞こえた。
それは、静音自身の声――だが、冷たい。
「ようこそ、零。十年ぶりだな」
その声に、零の足が止まる。
ステージの中央、黒い人影が立っていた。
影はゆっくりと形を取り――ひとりの男になった。
白い髪、痩せた体。
その目には、かつて零が知っていた優しさの欠片があった。
「御影……」
「懐かしいな、弟子よ。まだあの“黒猫”を連れているのか」
クロが低く唸る。
「お前のせいでどれだけの魂が泣いたと思ってる!」
御影は微笑んだ。
「泣くことも生きることも、同じだ。魂は痛みを通して純化される。……そう教えたのは私だろう?」
零の瞳が冷たく光る。
「ならば、俺はその教えを超える。“痛みを浄化”するのではなく、“抱いて生きる”と決めた」
御影の笑みが消えた。
「甘いな。お前はまだ、人を救えると思っている。だが見ろ、この声の群れを。人間は皆、愛を歌いながら憎しみを抱えている。私はその矛盾を“声”として集めた。この街は、私の楽器だ」
舞台の壁が揺れ、無数の声が響き渡る。
悲鳴、祈り、愛の告白、そして呪詛。
それらが渦を巻き、静音の身体へと流れ込もうとする。
「――やめて!」
静音が叫ぶ。
その声に、御影の視線が動いた。
「やはり……良い声だ。私の中で輝け、神代静音」
黒い鎖が静音の足元から伸び、彼女を絡め取る。
零が印を結び、符を放つ。
「封・裂・断!」
鎖が弾け、光が舞う。
だが御影の笑いは止まらない。
「零、まだ分からぬか。私は死んだ。だが“声”となって残った。そして、この女は私の“新たな肉体”だ」
静音が苦しげに息を詰める。
「や……めて……私の声を……返して……」
「返す? 違う、共鳴するのだ。私の“無限の声”と、お前の“真なる歌”が一つになれば、この世界に“永遠の音”が生まれる!」
黒猫が叫ぶ。
「零っ、止めなきゃ! 彼女が消える!」
「分かっている!」
零の目が光を放つ。
「御影、貴様の“音”は死の残響だ。命なき歌に、世界を震わせる資格はない!」
御影が笑った。
「ならば証明してみろ、黒乃零。呪いが“祈り”になり得るのかを!」
空気が裂け、無数の符が宙を舞った。
闇と光が交錯する中、静音の声が再び消え――
彼女の中から、二つの魂が交わろうとしていた。




