第二話 沈黙の依頼人 ― 前半 ―
夜の帳が降りる頃、黒乃零は机の上の封筒を開いた。
封蝋は深紅、封じ印は古い梵字。
それは、一般人が扱うものではない――呪術師の符。
封を切ると、黒い紙が一枚、滑り出した。
そこには、墨で書かれた短い文。
『私は声を奪われました。どうか、声を取り戻してください。』
署名――神代 静音。
零は紙を手に取り、眉をひそめた。
「呪いの依頼ではなく、“返還”の願いか」
黒猫クロが尻尾を揺らした。
「奪われた、って……物じゃないんだよね? 声って」
「声とは、魂の震え。奪われるということは、“自我”を封じられたということだ」
零はゆっくりと立ち上がり、外套を羽織った。
「行くぞ、クロ。依頼人に会う」
「夜に?」
「夜にしか、この事務所を見つけられない者もいる」
階段を降りる足音が、ビルの廊下に反響する。
夜風が吹き抜け、街の灯が遠く霞む。
――数分後。
事務所の扉が静かに叩かれた。
零が手をかざすと、結界が一瞬だけ光を放ち、すぐに鎮まる。
「入りなさい」
扉が開いた。
そこに立っていたのは、一人の女性――神代 静音。
白いコートの裾が揺れ、肩までの黒髪が光を吸い込んでいる。
その瞳はどこか遠く、深い悲しみを湛えていた。
だが、何よりも印象的だったのは――彼女の唇。
わずかに開いているのに、声が出ない。
息は確かにあるのに、音が生まれない。
クロが小さく鳴く。
零は席を勧めた。
「言葉を交わせぬなら、書けばいい」
静音は頷き、バッグからノートとペンを取り出した。
震える手で文字を書き始める。
『三ヶ月前、夢を見ました。黒い影が喉に手を伸ばし、“これであなたの歌は私のもの”と言いました。目が覚めたら、声が出なくなっていたのです。』
零は紙を読み、視線を上げた。
「あなたは歌い手か」
静音は頷いた。
黒猫が小さく言った。
「夢の中の奪取型呪い……久しぶりだね」「“声”という象徴は、魂の最も脆い部分だ。奪った者は、依代としてその声を使っているだろう」
零は立ち上がり、黒い封符を机に置いた。
「神代静音。あなたの声を取り戻すには、奪った存在――“影”を辿る必要がある。だが、そのためにはあなた自身の“記憶”を開く必要がある」
静音は不安げに目を見開く。
『記憶を……開くとは?』
「あなたの夢は、単なる夢ではない。魂の断片が“夢”という形で過去にアクセスしている。それを再生する」
零が手をかざすと、蝋燭の火がゆらめく。
空気が歪み、静音の目の前に薄い膜のような光が広がった。
「これが“夢界再生”だ。恐れるな、私が導く」
静音がゆっくりと頷く。
黒猫が彼女の膝の上に飛び乗った。
金の瞳が、まるで灯のように揺らめく。
――そして世界が反転した。
そこは、舞台の上だった。
白いスポットライトの下で、静音が歌っている。
美しい旋律。
しかし、その後ろ――暗闇の中に、もうひとつの“影”が立っていた。
黒いドレスを纏った女。
静音と同じ顔をしている。
だが、笑みは歪み、瞳は紅く染まっていた。
「あなたの歌、もういらないわ。次は私が“あなた”になる」
影が手を伸ばし、静音の喉に触れた瞬間、世界が崩れる。
声が吸い取られ、闇が口の中へと流れ込んでいく。
静音は悲鳴を上げようとするが――声が出ない。
黒猫が跳び出した。
「零! 影が実体化してる!」
零の声が響く。
「捕捉――位置座標確定。“喉の呪紋”を解除する!」
彼の印が閃く。
闇の中に光の鎖が走り、影を縛る。
だがその瞬間、影の女が笑った。
「遅いのよ、黒乃零。私はもう、彼女の中にいる」
零の目が鋭く光る。
「“同化型の呪い”か……面倒だな」
影は霧のように溶け、静音の身体に吸い込まれていく。
彼女の瞳が一瞬、紅く染まった。
クロが低く唸る。
「零、まずい。このままだと彼女が“二重魂”になる!」
「分かっている。……クロ、彼女の魂を守れ!」
黒猫が静音の胸に飛び込み、光の盾を展開した。
だが、その瞬間――
静音の意識の中に、もうひとりの声が響いた。
『私を忘れたのね、静音。あなたが最初に“願った”のは、歌を捧げることだった。でもあなたは、名声を欲しがった。愛されるために歌うようになった。その瞬間、私は生まれたの。あなたの“純粋な歌”そのものとして』
静音の心が揺れる。
「あなたは……私の、歌?」
『そう。私は“祈り”。でも、あなたが“欲”を持った時、私は呪いに変わった』
世界が震える。
闇の中、無数の音符が黒く変色し、剣のように飛び交う。
クロがそれを弾きながら叫ぶ。
「零っ! 彼女の魂、分裂してる!」
「……だったら、合わせてやるしかない」
零が両手を広げた。
印が空中に浮かび上がり、光が渦を巻く。
「神代静音、聴け。呪いの正体は、お前の心そのものだ。“愛されたくて歌ったお前”と、“純粋に誰かの幸せを願って歌ったお前”――そのどちらも、否定するな」
影の女が苦しげに叫ぶ。
「やめて! それを認めたら、私は消える!」
「それでいい。お前は呪いだが、祈りでもある。今こそ、ひとつに戻れ」
零の指が動く。
光の糸が静音と影の間を結び、ゆっくりと交わる。
黒猫が小さく鳴き、瞳を閉じた。
そして――
闇が弾け、世界が白く塗りつぶされた。
静音の喉から、微かな声が漏れる。
最初は風のような音。
次第に旋律となり、ひとつの言葉を紡いだ。
「――ありがとう」
その声は、あまりにも澄んでいて、あまりにも懐かしかった。




