第一話 花嫁の呪い ― 中半 ―
雨は翌朝まで降り続いていた。
街の空気は冷たく、夜の残り香のように湿っている。
黒乃零は、窓辺に立ちながら静かに紅茶を口に含んだ。
黒猫が机の上で毛づくろいをしている。
「終わったか、クロ」
問いかける声は淡々としているが、その奥にはわずかな重みがあった。
黒猫は尻尾を止め、金の瞳で彼を見た。
「……終わった、けど。変な感じがするんだ」
「変な?」
「呪いが……まだ続いてる気がする。あの女の“想い”が、どこかに残ってる」
零は軽く目を細めた。
机の上には、契約書の写しが置かれている。
蝋封の下、黒い文字がじわりと滲んでいた。
「まだ彼女の心が解けていないのだろう。呪いとは“完了”ではなく、“継続”の儀だ。想いが消えぬ限り、それは終わらない」
黒猫は身を伏せて呟いた。
「……じゃあ、彼女は今も……?」
零はカップを置き、静かに立ち上がる。
「行くぞ。呪いが歪めば、街全体に波紋が広がる」
蝋燭の火がかすかに揺れた。
黒猫が姿を霞ませ、零の影に溶け込む。
二人の気配が、部屋から消える。
――次の瞬間、街の別の場所で、冷たい風が吹いた。
白峰結は、教会の廃墟にいた。
昨日、式を挙げたはずの場所。
扉は壊れ、花は散り、祭壇には黒いシミが残っている。
彼女はその前に座り込み、何かを抱えていた。
それは、焦げたようなウエディングドレスの切れ端。
彼女の頬には涙が乾き、瞳は虚ろだ。
「……私、間違ってたのかな」
彼女の唇が震える。
「彼を呪ったのに……夢に出てくるの。あの人が笑って、花束をくれるの……」
声は弱々しく、だが確かな温度を持っていた。
その瞬間、足元の影が揺れた。
影の中から、黒猫が姿を現す。
「それは、あなたの“後悔”だ」
結が顔を上げる。
「……誰?」
「黒乃零の式神、クロ。呪いの媒介」
猫の声が直接、彼女の頭に響いた。
人間の声のように柔らかく、どこか哀しげだ。
「あなたの想いが、まだ消えていない。呪いは終わっていない。本当に望んだのは、彼の死じゃない」
結は震えながら首を振る。
「ちがう……私は、裏切られたの。だから、呪ったのよ!」
黒猫は静かに近づき、彼女の足元に座る。
「あなたは、愛していたんだ」
沈黙。
その言葉に、結の胸がわずかに鳴った。
「……愛してた。でも、彼があの人を選んだから……私は、いらなくなったの」
「本当に?」
黒猫の声が少し強くなる。
「あなたは“裏切られた”と信じてる。でも、彼はなぜ逃げたのか――見てないんだ」
結の目が見開かれた。
「……どういう、こと?」
黒猫の瞳が金色に輝く。
その光が、彼女の視界を包み込んだ。
――そして、時間が巻き戻る。
結婚式の朝。
白いチャペル。
祭壇の前で、真哉が手を震わせていた。
誰も気づかなかったが、彼の胸元には黒い印が刻まれている。
それは、“呪いの印”だった。
「誰かが、呪った……?」
黒猫の声が重なる。
「彼は、別の呪いの中にいた。あなたの知らない誰かが、彼を“奪うために”先に呪っていた」
映像の中で、花が真哉の手を握っている。
だが、その目の奥には涙がある。
“逃げて”――そう唇が動いた。
そして二人は走り出した。
結の前から。
祭壇を、教会を、すべてを置き去りに。
「……あの人が、彼を助けようとしていたの?」
結の声は震えた。
「そう。花は、あなたを憎んでなんかいなかった。彼女は、呪いを引き受けてでも真哉を守ろうとした」
結の瞳が揺れる。
涙が一筋、頬を伝う。
「……私、何も知らなかった」
黒猫は小さく鳴いた。
「人は皆、知らぬままに呪う。愛していた分だけ、見えなくなる」
結は、胸に手を当てた。
「私の中に……まだ“彼”がいるの。もう、消せないのね」
「なら、それを受け入れろ。呪いを解くのは、あなた自身の想いだけだ」
黒猫の姿が薄れていく。
「……零が言っていた。“呪いとは、愛の残響”だと」
雨音が再び聞こえた。
気づけば、結の頬を濡らすのは涙ではなく、雨の滴。
空が晴れ始めている。
――黒乃零は、遠くのビルの屋上からそれを見ていた。
「クロ、報告を」
影の中から声が響く。
「呪いの本質は解けかけてる。でも、残滓がある」
「残滓?」
「“花”の命だ。彼女の魂が、まだ呪いの中に取り込まれてる」
零は目を閉じた。
「……やはり、二重契約か」
クロが風のように姿を現す。
「誰が、仕掛けたの?」
零の声が低く響く。
「十年前、俺たちが封じた“呪法師”だ。まだ息をしているらしい」
空の色が鈍く変わった。
冷たい風がビルの隙間を吹き抜け、遠くで教会の鐘が鳴る。
零は黒猫を腕に抱き、薄く笑った。
「なら、終わりではないな。……“彼女”を救わねば」
「救う? 呪ったのに?」
「呪いを解くこともまた、呪術代行の務めだ」
黒猫は小さく喉を鳴らし、頷いた。
「じゃあ行こう。あの花嫁を、もう一度救うために」
零のコートが風に舞う。
雨上がりの光が差し込む中、二つの影が街の闇へと消えていった。
――その頃、廃教会では、結が立ち尽くしていた。
祭壇の奥、黒い影が蠢く。
それは、かつての花嫁自身の影。
呪いが、彼女の中で別の存在へと変わろうとしていた。
「あなたは、私。あなたが私を捨てたから、私は生まれた」
影が微笑んだ。
「さあ、もう一度誓いましょう。“永遠に一緒に”――たとえ、死が分かつとも」
結の瞳に、黒い花が咲く。
“真の呪い”が、目を覚まそうとしていた。




