第七十八話 沈む町 ―前半―
夕暮れの空は、薄紫と橙の境目でゆっくりと滲んでいた。
黒猫呪術代行事務所。
零は薄い資料の束を机に広げ、黙々と読み込んでいる。
クロは黒猫の姿で書棚の上に丸まり、時折零の様子をうかがっていた。
「ねぇ零。今日の空、なんか変じゃない?」
「……分かるのか。」
「分かるよ。胸が重い感じがするもの。なんか……空そのものが沈んでいくみたい。」
零は資料から目を離さずに答える。
「正しく言えば“空ではなく土地”だ。」
クロは耳をぴんと立てる。
「土地……?」
「最近、この地方の外れで“町が沈む”という噂がある。」
クロは目を丸くする。
「町が……沈む? 地震とか?」
「物理的な話ではない。“霊的に沈む”。原因不明の霧が町全体を覆い、辿り着いた人は帰れなくなる。“沈降の呪い”だ。」
クロは身を震わせる。
「そんな……町ごと呪われるなんて、本当にあるの?」
零は静かにページを一枚めくる。
「ある。むしろ──過去に何度も起きている。」
その時。
事務所のインターホンが鳴った。
“ピンポーン”
クロは肩を跳ねさせる。
「だれ……?」
零は立ち上がり、扉へ向かった。
扉を開くと、雨に濡れた男性が立っていた。
三十代前半、黒縁眼鏡。
しかしその目はひどく怯え、深い疲労の影が落ちている。
男は名刺を差し出す手を震わせながら言った。
「……あの……黒乃零さん、ですよね……?ぼ、僕は──霧島紺太 と申します……。お願いです……どうか……助けてください……!」
零は静かに受け取る。
「落ち着け。入りなさい。」
男──霧島紺太は、靴も脱ぎ忘れたままふらふらと室内に入った。
クロは黒猫の姿のまま様子を観察していたが、その怯え方に危険を感じ、少女姿へひらりと変化して零の後ろへ立った。
「ねぇ、そんなに震えて……何があったの?」
紺太は唇を噛み、震える声で言う。
「……町が……“僕の故郷の町”が……丸ごと……沈んでるんです……!」
クロは思わず息を呑む。
「沈んでるって……!」
紺太は胸の奥から絞り出すように言葉を続けた。
「二日前、母から電話があったんです。“霧が濃くて外が見えない”って……それっきり連絡が取れなくなった。」
零は問いかける。
「住所は?」
紺太は震える手でメモを差し出した。
「山間にある小さな町です。昨日、僕はそこへ行こうとした……でも……」
喉がつまったように声が途切れる。
クロが前へ出て、優しく尋ねる。
「でも……?」
紺太は顔面を蒼白にしたまま続けた。
「国道から分岐した瞬間……“地図から町が消えていた”んです。ナビも反応せず……道が……ないんです。」
クロは震えた。
「な、ないって……道が?」
紺太はこくりと頷く。
「見えるんです……目には見える……けど……僕が足を踏み出すと……“道が沈んでいく”んです……!」
クロの背中に寒気が走る。
「沈む……?」
紺太は首を振った。
「泥……でも水でもない……“音のない底”に沈むんです……!逃げようとしたら、背後で誰かが呼ぶんです……『おかえり……』 って……!」
クロはゾクリと背筋を冷やした。
零は静かに目を閉じ、短く言った。
「……“沈降現象”だ。」
紺太はすがるように零の手を掴む。
「助けてください……!母も……町の人も……どこへ行ったか分からない……誰も信じてくれない……!」
零は淡々と、しかし確実に言葉を返す。
「沈む町は“消える町”だ。だが、完全に消える前なら介入できる。」
クロは零を見る。
「零……行くの?」
「行く。放置すれば紺太の母親も二度と戻れない。」
紺太の瞳に、弱い光が戻る。
「ほ、本当に……?」
「俺が行けば──沈んだ町でも道は開く。」
クロが不安そうに聞く。
「雨怪みたいに……零が来たら呪いが逃げる……?」
零は肩をすくめた。
「町がどう反応するかは分からない。だが沈降の呪いは“外からの侵入者を最も嫌う”。俺の気配を感じれば必ず暴れる。」
クロの肩が震えた。
「暴れる……?」
零は淡々と呟く。
「霧も道も町も……まとめて襲ってくるだろう。」
紺太は恐怖で膝をつく。
「そ……そんな……!」
クロは一歩前に出て霧島に言った。
「大丈夫。零は全部跳ね返すから。」
紺太は涙をこぼしながら頷いた。
零はコートを羽織り、筆を手に取る。
「沈む町の“中心”を見つける。沈んだ理由を断つ。」
クロは黒猫へ戻り、零の肩へひょいと飛び乗った。
「行こう、零。……沈んだ町なんて、絶対に許さない。」
零は無言で頷き、扉を開けた。
瞬間──
事務所の外に立つと、霧のような薄い“白い影”が道路に揺れた。
クロが小さく唸る。
「れ……零……今の……」
零は振り返らず歩き出す。
「沈んだ町の“余波”だ。もう動いている。」
紺太が必死にあとを追う。
「母さん……どうか無事で……!」
沈む町へ向かう車が走り出す。
霧が立ち込め、空が沈んでゆく。
町は、確実に呼んでいた──
帰る者を。そして、帰ってほしくない者までも。




