第七十七話 泣く電話 ― 後半 ―
巨大な“泣き声の影”が振動しながら迫ってくる。
その動きは速さというより、空気そのものが“ひかりの絶望に引き寄せられている”ようだった。
クロはひかりの前に飛び出し、小さな体で叫ぶ。
「ひかりさん!!うしろに隠れて!!零が止めるから!!」
ひかりは震えながらクロの体を抱く。
「だめ……だよ……!この子……私が“忘れた誰か”なんだよ……向き合わなきゃ……!」
だが影は待ってくれない。
――ワタシヲ……オイテイッタ……
――ヒカリ……ヒカリ……ッ!!
泣き声は雷鳴のように弾け、空間がひび割れる。
零は雨合羽を脱ぐように、ゆっくりと外套を払った。
筆を構えた姿勢は、迷いが一切ない。
クロが叫ぶ。
「零!!何をするの!?」
「お前たちを守るためだ。」
零は短く答え、影へと踏み込んだ。
巨大な影が腕のような黒い塊を伸ばし、零を押し潰そうと迫る。
――ナイテ……ヒカリヲ……ヨブ……!!
零の筆が走る。
「“呪断・泣虚割”。」
空間へと刻まれた呪字が光を放ち、影の腕を真っ二つに裂いた。
影が悲鳴を上げる。
――イヤダ……イヤダァァッ!!
クロがひかりを抱えながら、涙目で叫んだ。
「零……本気で怒ってる……!」
ひかりが震える声で呟いた。
「どうして……どうしてこの子……私をずっと呼んでるの……?」
その時、影が再び形を変えた。
今度は──“小さな女の子”の形。
ぼやけた顔。涙だけがはっきり光っている。
――ヒカリ……いっしょに……あそぶって……
――いったのに……
ひかりの体が一瞬で力を失った。
「……あ……」
クロが支える。
「ひかりさん!?どうしたの!?」
ひかりの視界には、ある“記憶の欠片”が浮かび上がった。
砂場。
揺れるジャングルジム。
手をつないだ小さな女の子。
──“ひかりちゃん、またあそぼうね”。
胸に稲妻が走る。
「わたし……小さいころ……いつも一緒にいる子がいた……!」
影の子が震えながら答える。
――うん……いたよ……
――でもヒカリは……ひっこして……
――ワタシ、みつけられなかった……
ひかりの顔から色が引いていく。
「ちがう……!ひっこすとき、ちゃんと“バイバイ”した……!忘れてなんか……」
影の声が、かすれた笑いに変わった。
――ウソ……
――ヒカリはワタシを“おいて”いった……
――ワタシは……ひとりで帰って……
――それから……かえれなくなった……
ひかりの瞳が潤む。
「……事故……?」
影は涙のような水滴を落とす。
――“雨の日”だったよ。
零の眉が動いた。
「なるほどな。お前は“雨の中で命を落とした”。ひかりを呼び続けたまま──。」
ひかりは胸を抱え、悲鳴のように叫ぶ。
「違う……違うよ……!!わたしは……あなたを忘れたかったんじゃない!!」
影は怒号と共に形を崩し、再び巨大化する。
――ダマレ!!
――ワタシヲオイテイッタ!!
――ヒカリダケ……!!タスカッタ!!
――ユルサナイ!!
影が完全に暴走した。
クロが怯えて叫ぶ。
「零!!影が暴走形態になってる!!」
零は静かに筆を構えた。
「ひかり、お前が“心から言うべき言葉”を言わない限り、この怪異は消えない。」
ひかりは涙で視界を滲ませながら、震える声で言った。
「ごめん……本当に……ごめんね……!あなたの名前……思い出せない……!でも……忘れたかったんじゃないの!!あなたがいなくなったのが……つらくて……苦しくて……思い出すのが……怖かったの!!」
巨大な影が動きを止める。
――コワ……かった……?
零が前へ踏み出す。
「ひかり。“本当の気持ち”を言え。」
ひかりは震える声で叫んだ。
「わたし……あなたのことが……大好きだった!!大切だった!!いなくなったのが……怖くて……ずっと忘れたふりしてただけ……!!ほんとうに……ごめんね……!!!」
影の目に、ぽたり……と滴が落ちる。
それは涙だった。
――ヒカリ……
――ずっと……まってたよ……
影の輪郭がほどけ、瘴気が薄れていく。
零は筆を構えた。
「“成仏の字”。」
空中に書かれた柔らかな光の文字が、影の子供にそっと触れる。
影は微笑むような形に変わった。
――ヒカリ……ありがとう……
――もう……泣かないで……
そして、静かに霧のように消えていった。
泣き声は止み、白い世界が溶けていく。
クロがほっと息を吐いた。
「……終わった……?」
零はひかりの肩に手を置く。
「雨怪の核は“忘れられた痛み”。お前が向き合ったから、晴れた。」
ひかりは涙をこぼしながら微笑む。
「ありがとう……零さん……クロちゃん……わたし……もう逃げない……この子のこと……絶対忘れない……」
世界が完全に溶け──
事務所の薄暗い灯りが戻ってきた。
外の雨は、いつの間にか止んでいた。
零は窓を一度だけ見た。
空は静かに晴れ始めていた。
「泣き声の怪異──“消失”だ。」
クロが笑う。
「ひかりさん、よかったね!」
ひかりは両手で顔を覆いながらも、かすかに笑った。
「ありがとう……ありがとう……」
零は筆を仕舞い、静かに言った。
「泣く電話の呪いはもう来ない。だが……もしまた何かあったら来い。雨はいつでも晴らせる。」
ひかりは深く頭を下げた。
「……はい。」
こうして、失われた記憶の涙はその夜──静かに晴れた。




