第七十七話 泣く電話 ― 中半 ―
事務所の空気がねじれ、景色が“音”に溶けた。
ひかりが震える声で叫ぶ。
「こ、ここ……どこ……!?さっきまで事務所だったのに……!」
クロは零にしがみつきながら周囲を見回した。
「零……音しかない……!まるで……“泣き声だけの世界”……!」
そこは、色のない空間だった。
白と黒の乱れた線が地平まで伸び、形のない霧が揺れている。
その霧の中から──
“すすり泣き”だけが響いていた。
――ひぐっ……
――ひぃ……ひかり……どうして……
ひかりは耳を塞ぎながら後退る。
「やだ……いや……っ……!胸が苦しい……息が……できない……!」
零は淡々と告げる。
「ここは“泣き声の記憶域”。泣いて死んだ者、泣きながら忘れられた者……そういう魂が沈む場所だ。」
クロが眉を寄せる。
「泣く電話って……ここにつながってたの?」
零は頷く。
「怪異は電話を“窓”にして、この世界とひかりを繋げていた。」
その時──
白い霧の向こうで何かが動いた。
ひかりは体を震わせる。
「くる……!また……泣き声の子が……!」
霧の中から、ぼんやりと“子供の影”が浮かび上がる。
小柄で、顔は歪み、涙の筋だけがはっきりしている。
その子が手を伸ばす。
――ひかり……
――どうして……おいていったの……?
ひかりの顔がみるみる青ざめる。
「ち、ちがう……!私……誰……?あなたのことなんて……!」
子供の影が弱々しく震える。
――ひかり……ひかり……
――どうして……わすれたの……?
クロはひかりの袖をつかみ、必死に言う。
「ひかりさん!忘れてるだけだよ!思い出そうとしてみて!」
ひかりは首を振る。
「違う……!知らない……!こんな子……!」
その瞬間、泣き声が変質した。
子供の影の輪郭が揺れ、歪み、泣き声が叫び声に変わる。
――ウソツキ!!
――イツモ、イツモ、オキザリニシテ……
――ナンデ……ワタシダケ……
空気が一気に冷えた。
クロは震え、身を縮める。
「零……この子……怒ってる……!」
零は筆を握りしめた。
「ひかり、落ち着け。怪異の正体は“忘れられた誰か”だ。思い出さなければ暴走する。」
ひかりは涙をこぼしながら叫ぶ。
「もう無理……!記憶なんて……ない……!こんな場所……こんな声……怖い……!!」
子供の影が一歩、また一歩と迫ってくる。
――ひかり……
――ねえ……なんで“私だけ”置いていったの……?
ひかりの表情が一瞬だけ揺れた。
「“私だけ”……?」
零はその揺れを見逃さなかった。
「思い出したか。」
ひかりは頭を抱え、苦しそうにうずくまる。
「わからない……でも……胸が……痛い……ずっと誰かを……泣かせた……そんな気がするの……!」
子供の影が泣き叫びながら近づいてくる。
――ヒカリ……
――ずっと……まってたのに……!
霧が揺れ、世界が悲鳴をあげる。
零はひかりの肩に手を置き、低く言った。
「逃げるな。思い出せ。お前が“忘れたもの”こそ、この怪異の核だ。」
ひかりは震える声で呟いた。
「私……昔、誰かと……一緒にいて……いつも泣いてて……でも……名前が……顔が……何も……!」
クロが小さく叫ぶ。
「零!!影が形を変えてる!!」
影がぐにゃりと歪み、“怒り”と“悲しみ”が混じりあった巨大な影へと変わっていく。
零は筆を構え、低く呟いた。
「そろそろ限界か……。ひかり、時間がない。」
ひかりは涙を拭い、震える手で胸を押さえた。
「思い出す……!絶対に……思い出すから……!」
巨大な影が牙を剥き、空間を揺らす。
――ヒカリ……
――ジャア……イマコソ……
そして影が叫んだ。
――“あなたも、一緒に泣いて?”
世界が裂け、影が襲いかかってくる。
零は筆を振りかざし叫んだ。
「クロ、ひかりを守れ!!ここからが──本番だ。」




