第七十七話 泣く電話 ― 前半 ―
その日は、朝から妙な静けさがあった。
黒猫呪術代行事務所の窓を、弱い風が“サァ……”と撫でていく。
クロは黒猫の姿のまま、零の横で丸くなりながら尻尾を揺らしていた。
「ねえ零……なんか今日、空気がざわざわしてるよ……」
零は古い護符の墨を乾かしながら静かに答える。
「そうだな。何かが……寄ってきている。」
クロは耳をぴんと立てた。
その時──
事務所の呼び鈴が鳴った。
「すみません……!」
雨に濡れたような息を吐きながら入ってきたのは、会社員風の若い女性だった。
年齢は二十代後半。
黒縁の眼鏡が震え、手に握られたスマートフォンはしっかりと濡れていた。
「依頼……お願いしたいんです……!私……死ぬ前に、どうしても……!」
クロがびくっと体を震わせる。
「し、死ぬ!?なんでそんな……!」
女性は震える唇を必死に抑えながら言った。
「八重樫ひかり……といいます……
もう……限界なんです……!」
零は穏やかな声で促す。
「落ち着いて話せ。何が起こった。」
ひかりは震える手でスマートフォンを零に差し出す。
その画面には──
着信履歴にずらりと並んだ“非通知”。
ひかりはかすれた声で言った。
「毎晩……“泣き声だけの電話”がかかってくるんです……相手は……何も言わない。ただ……ただ……子供みたいに……『ひっ……ひぐっ……』って……」
クロはぞわっと背中の毛を逆立てた。
「な、なにそれ……絶対普通じゃないよ……!」
ひかりは続ける。
「最初は悪戯だと思って……無視していました。けど……ある日、電話の向こうの泣き声に混じって……“私の名前”が聞こえたんです。」
零の眉が僅かに動いた。
「……名前を呼ばれた?」
ひかりは頷き、涙目で続けた。
「『……ひかり……どうして……?』って……その声、聞き覚えがあって……でも……思い出せないんです……誰の声なのか……!」
クロは零の袖をきゅっと掴む。
「零……これ、すごく嫌な感じがする……」
零はひかりのスマートフォンを受け取り、画面に触れる。
次の瞬間──
スマホが勝手に震えだした。
『非通知着信』
ひかりが息を呑む。
「ま、また……!?」
零は受話器をタップする。
次の瞬間、事務所全体に──
――ひぐっ……
――ひっ……ひぐぅ……
――どうして……どうして……ひかり……
幼い子供のような泣き声が響き渡った。
クロは零の後ろに飛び込み、震える声で叫んだ。
「や、やだよ……!零、これ……子供じゃない……!」
ひかりは両手で口を押さえた。
「ほら……!これなんです……!どんどん近づいてくるんです……この声が……昨日なんて、私の家の前まで……!」
電話の向こうの泣き声が突然変質した。
――ひかり……
――なんで、しらないフリ、するの……?
――ひかり……ひかり……ひかり……
声が大きくなるたび、事務所の空気がじわり、と冷たく濡れていく。
零が静かに呟く。
「これは……“呼び声の怪異”の一種だな。」
クロが首をすくめる。
「呼び声……?」
零は答える。
「呪われた者に連絡を続け、精神を削り、名前を奪い、魂に干渉してくる──本来なら“死者と生者の境界”にいる怪異だ。」
ひかりの顔色が真っ青になる。
「私……殺されるんですか……!?」
零は淡々と言った。
「まだだ。ただし、放置すれば確実に“連れていかれる”。」
クロが震える。
「ど、どこに……?」
零は受話器を見つめながら答えた。
「相手がいる場所──“泣き声の世界”だ。」
そこで着信が止まる。
静寂。
ひかりはしがみつくように零に懇願した。
「お願いです……!私……このままじゃ……!」
零はスマートフォンを返し、短く言った。
「今夜、応じる。怪異の“本体”と対峙し、因縁を断つ。」
ひかりが震える声で問う。
「……で、できるんですか……?」
零は筆を握り直し、静かに告げた。
「泣き声の怪異は“思い出”を餌にする。お前の記憶のどこかに──この怪異の正体があるはずだ。」
クロの瞳が揺れる。
「ひかりさん……誰か……大事な人を……?」
ひかりは震える手を胸に当て、かすかに呟いた。
「わからない……でも……胸の奥が……ずっと痛いの……あの泣き声を聞くと……どうしようもなく……苦しくて……」
零はふっと目を細めた。
「なら、その記憶を取り戻せ。怪異は“忘れられた者”の恨みが生んだ可能性が高い。」
クロが不安そうに零に寄り添う。
「どうするの……?」
零は答えた。
「泣き声が向こうから“呼ぶ”なら──こちらから“入り込む”。泣く電話の怪異が潜む場所に。」
雷鳴が鳴り響き、事務所の灯りが一瞬だけ暗転した。
ひかりのスマートフォンが再び震え始める。
――ひかり……まって……
――まって……ひかり……
――どうして、ひとりでいくの……
零は受話器に指を伸ばし、冷たく告げた。
「呼ぶなら来い。ただし──お前の泣き声ごと、すべて断つ。」
そして、零は着信を“通話開始”にした。
その瞬間──
事務所の空気が“泣き声の世界”へと一変した。




