第七十六話 雨宿りの幽霊 ― 後半 ―
雨粒でできたような世界は、さらに深く沈み込み、地面も空も区別がつかないほど灰色に曇った。
黒い影は少女の背後にへばりつき、骨のような指を伸ばしながら呻く。
――カエセ……
――オマエヲ……コロシタ……
――アメニ……トジコメタ……
クロは震える声で叫ぶ。
「れ…零……あれ、絶対に悪い奴だよ……!」
零は筆を構えたまま、影の動きを読む。
「違う。悪霊ではない。」
クロが目を見開く。
「えっ……!?」
少女は震えながら言った。
「……あれは……“私の感情”……」
零がわずかに頷く。
「そうだ。これは“雨怪”が生まれた時に形を得る──《恐怖と絶望の残骸》だ。」
影は少女の背中に指を突き刺すようにして叫ぶ。
――ニゲルナ……
――シッテル……
――オマエハ……ミタンダ……
少女の頬から、ぽたり……と雨粒が落ちる。
「……思い出したくなかった……でも……私……あの人に……殺されたんだ……」
クロは零の後ろで唇を噛む。
「零……どうにかできないの……?このままだと……この子……!」
零は静かに筆を走らせる。
「問題は影ではない。“真実を思い出せずにいる彼女自身”だ。」
影は形を変え続けながら、大きく膨らみ──
ついに、雨粒を血のように撒き散らしながら叫んだ。
――シッテルダロ……
――アメノヒ……
――サシタノハ……
――アノ……オトコ……
その瞬間、少女は頭を押さえて叫んだ。
「いやぁぁあああ!!思い出したくない!!思い出したら……私……消えちゃう……!!」
クロが悲鳴混じりに叫ぶ。
「零!!なんとかしないと!!」
零は一歩踏み出し、少女の目の前で言った。
「思い出せ。でなければお前は永遠に雨に囚われ続ける。“原因”を知らなければ魂は晴れない。」
少女は涙で濡れた顔を上げた。
「でも……思い出すのが……怖い……!!」
雨粒が急激に増え、世界がさらに暗く沈む。
影がまた叫ぶ。
――オマエハ……コロサレタ……
――アノヒ……カサヲサシテ……
――ヨッテキタ……オトコ……
――ニ……!!
少女の瞳が震える。
クロは震える少女の手を取って叫んだ。
「大丈夫だよ!!零がいる!!怖いことなんて全部切ってくれる!!だから……思い出すんだよ!!」
少女の瞳に、ほんの少し光が戻る。
「……私……あの日、雨の中を歩いてて……後ろから声をかけられて……“傘に入りませんか”って……」
影が形を変え、長身の男の輪郭になった。
――ツイテイッタ……
――カエリミチ……ワラッタ……
――サシタ……!!
少女は震える唇で続ける。
「ほんの少し優しそうな人で……でも……気づいたら……森の奥に連れていかれて……“もっと近くで話そう”って……言われて……」
クロが息を呑む。
「もしかして……その人が……!」
少女の目から涙がこぼれる。
「その人が……私を……雨の日に……傘で刺したの……!!」
影が甲高い悲鳴をあげ、形を大きく膨らませた。
雨粒が血飛沫のように舞う。
クロが叫ぶ。
「零!!影が暴走するよ!!」
零は目を細め、筆を強く握りしめた。
「暴走ではない。“真実が形になって露出しただけ”だ。」
影は巨大化し、雨の世界を覆い尽くそうとする。
少女は絶望に崩れ落ちる。
「やだ……!!思い出したら……私……消えちゃう……雨の世界から……いなくなる……!!私……誰にも……助けてもらえなかった……!!」
零は少女のそばに膝をついた。
そして、静かに言う。
「助ける。この雨の呪いごと、お前を晴れに戻す。」
少女の目が揺れた。
「……ほんと……に……?」
零は空を見上げる。
そこには、巨大な影が、牙をむいて迫ってくる。
「“原因”はもう見えた。お前を殺したのは──“優しい顔をした悪意そのもの”だ。」
雨の世界が震えた。
影が地響きのような声で叫ぶ。
――ソコヲ……タツナ……!!
――ゼッタイ……タツナ……!!
零は筆を構え、低く呟いた。
「雨怪の最後のしがみつきか。だが──雨は晴れる。“必ず”だ。」
雨粒が黒い光を帯び、影が少女を飲み込もうと迫る。
クロが叫ぶ。
「零!!はやく!!」
零の筆が――
雨空を裂くように走った。
影が絶叫した。
雨粒が弾け、雨の世界が一気に揺れる。
零の声が雨空に響いた。
「──“晴穿呪”。雨を穿ち、“真実”だけを残す呪術だ。」
雨の世界に穴が空いたように、光が差し込んだ。
黒い影はその光に触れた途端、煙のように溶けていく。
――ア……アァ……
――ワスレルナ……
――オマエハ……ウラギラレタ……
少女は涙を浮かべながら空を見上げた。
光の雨が降り注ぎ、血の色だった雨粒は透明に変わる。
クロは零を見る。
「れ、零……成功したの……?」
零は淡々と頷いた。
「影は消えた。あとは彼女が……“晴れ”を受け入れるだけだ。」
少女は、消えゆく世界を見ていた。
「……私……ずっと……雨が怖かった……でも……今は……」
少女は微笑みに近い顔をした。
「晴れを……見たい……」
その瞬間。
雨の世界は完全に崩れ──
眩しい青空が広がった。
事務所の中に戻ると、少女は薄い光に包まれながら静かに微笑んでいた。
「ありがとう……あなたが雨を……晴れにしてくれた……」
クロが感動で目を潤ませる。
「よかった……!ほんとに……よかった……!」
少女は零を見て、深く頭を下げた。
「私の雨は……もう終わり。本当に……ありがとう……」
そして少女の体は淡く透けていき、最後の雨粒だけが床に落ちた。
零はそれを静かに見つめていた。
クロがぽつりと言う。
「零……助けられたね……今日は……ちゃんと晴れたね。」
零はほんの少しだけ、目を細めた。
「雨が永遠に降り続くことはない。呪いも同じだ。」
クロは笑顔で頷く。
「うん……!」
こうして──
少女の雨は終わり、春の匂いが静かに事務所を満たしていった。




