第七十六話 雨宿りの幽霊 ― 中半 ―
世界は“雨の底”へと沈んだ。
灰色の空。
形を持たない地面。
足元には無数の雨粒が逆再生のように舞い上がり、空へと戻っていく。
まるで、時間すらも“雨に縛られている”かのようだった。
クロは零の肩にしがみつき、震える声で呟く。
「ここ……息が重い……雨の匂いが、胸に刺さるみたい……」
零は冷静な瞳のまま、少女と影の間へ歩みを進めた。
「ここは“雨怪の記憶そのもの”だ。この空間では感情も肉体も侵されやすい。クロ、気を抜くな。」
クロはこくりと頷くが、足はうまく力が入らず震えている。
少女は悲しげな表情で零の背にすがるように言った。
「私は……ここで死んだの……でも思い出せない……雨が降るたびに、この場所に呼び戻される……理由が……どうしても……」
零は少女へ目線を向ける。
「原因を見つければ、呪いは解ける。雨怪は“怨みの核”が明確だ。そこを断ち切る。」
少女がかすかに震えながら指を伸ばす。
「なら……見て……あれが……私を殺したもの……」
黒い影は、雨粒を吸い込みながら形を変えていった。
最初は人影だった。
次第に雨の粒を纏い、腕が長く伸び、脚が溶け落ちる。
やがて“傘”のような形になり──
開いた布の部分が、裂けた人の顔に見える。
クロは震えた。
「な、何これ……人間じゃない……!」
零の声が響く。
「“雨傘影”……。雨の中で殺意を抱く人間が、死者の怨念と結びついた時生まれる怪異だ。本来、ただの影のはずが……ここまで肥大しているということは──」
影が歪んだ声で呻いた。
――ミツケタ……オマエ……ヲ……コロシタ……ノハ……オレダ……オレダ……!
少女が両手で耳を塞いだ。
「イヤ……聞きたくない……!私……殺されたのに……誰の顔も……思い出せないの……!」
零は少女の前に立ち、影に筆先を向けた。
「記憶を奪われている。“雨の呪い”が、怨敵の正体を隠している。」
クロが不安そうに零にしがみつく。
「零……あの影の正体、分かるの……?」
「まだだ。だが、影の動きを見れば“生前の行動”が分かる。」
影はゆらりと揺れ、ゆっくりと“後ろから襲いかかる”動きを見せた。
少女は手で口を覆い、震える声で呟いた。
「後ろ……後ろから押された……雨の夜、私……ただ帰ろうとして……歩道橋の上で……誰かに……誰かに……!」
クロが小さく叫んだ。
「零!思い出してるよ……!」
少女が苦しそうに胸を押さえ、膝をつく。
「その人の顔……見えない……雨が、全部……流しちゃう……私の記憶を……」
零は影へ一歩踏み出した。
「記憶を奪ったのは、この“雨傘影”ではない。お前を殺した“本当の犯人”だ。」
影が叫び、空間が大きく揺れた。
――サセナイ……サセナイ……キオク……カエサナイ……!
少女の気配が薄れ始める。
「だめ……私……消える……雨が……私を、溶かす……!」
クロが悲鳴を上げる。
「零!!このままじゃ……!」
零は静かに筆を構え、紙を使わず空中へ黒い線を描く。
強烈な呪術の気配が広がり、雨粒さえも揺らぎ始める。
クロが息を呑む。
「零……本気だ……!」
零は影に向け、低く呟いた。
「──“雨裂・断ち切り(うれつ・たちきり)”。」
空気が裂けた。
黒い軌跡が一直線に影へと伸び、雨粒ごと空を切り裂いた。
影は悲鳴をあげる。
――アアアアアアアアアアアアッ!!
零の声は冷静だった。
「影よ。お前は“原因ではない”。お前は、少女の恐怖と雨の怨みが形を取っただけ。本当の敵は──少女を殺した“人間”だ。」
影は激しく歪み、少女に向かって手を伸ばす。
――コロ……サ……ナイ……ワタシガ……トメル……!
少女は涙を流しながら叫んだ。
「私は……死にたくない!!本当のこと……知りたい!!」
零は筆を強く握りしめ、前へ踏み込んだ。
「クロ、少女を守れ。」
「まかせて!!」
クロの姿が黒い影となり、少女の前に飛ぶ。
影による少女への干渉は完全に遮られた。
零は影の正面へ立ち、完全に向き合う。
その瞳には、一切の迷いがなかった。
「──影を斬る。」
零が踏み込み、筆が闇を切り裂いた。
黒い影は悲鳴とともに真っ二つに裂け──
雨の世界が、ゆっくりと光を取り戻していった。
少女の震える声が、静かな雨の中に残る。
「たすけて……お願い……“本当の犯人”を……見つけて……」
零は振り返り、少女を見た。
「必ず見つける。お前をこの雨から解放する。」
光が満ち、世界が崩れ始める。
クロは少女の手を握り、必死に叫んだ。
「もう少しだけ待ってて!!絶対、晴れさせるから!!」
少女の姿はゆっくりと薄れ、消えゆきながら呟いた。
「ありがとう……黒乃さん……猫の子……」
最後の雨粒が消え──
零とクロは、再び現実の事務所へと戻った。
雨はまだ降っていた。
しかし、少しだけ、雨音が弱くなっているように聞こえた。
零は静かに呟く。
「次は──人間の番だ。」
クロは零の袖を掴みながら言った。
「ねえ零……この子を殺したのって、きっと……」
零は目を閉じる。
「“雨に紛れられる場所”で起きた殺人だ。歩道橋か、雨宿りのスペースか──調べる場所は限られている。」
クロの瞳が鋭くなった。
「じゃあ、犯人探し……行こう。」
零は頷いた。
雨は止まない。
だが──
“少女の雨”だけは、必ず晴れさせる。




