回想1 零と黒弥 ― 前半 ―
風の匂いが変わったのは、零が十三の冬のことだった。
白い息がかすかに揺れ、枯れた木々がざわりと音を立てる、人里離れた山奥の祈祷所──
「ここが……師匠の屋敷か。」
零は小さく呟いた。
黒いコートの裾が風に揺れる。
指にはまだ“呪術師としての符”の感覚すらない。
ただ、不思議と胸の奥だけが静まり返っていた。
彼は幼い頃から異質だった。
生者と死者の気配を嗅ぎ分け、人の“寿命”が視えることもあった。
その異能が原因で家族に恐れられ、親戚に隔離され、最後には山奥に住む“呪術師の師”──
比良坂 恋巫
という男に引き取られた。
扉を開くと、茶色の布を巻いた老人が坂を降りてくる。
「黒乃零だな。今日からお前は儂の弟子じゃ。」
零は小さく頭を下げた。
「……よろしくお願いします。」
老人はその目をじっと覗きこむ。
「ほう……いい目をしておる。死を怖れぬ目じゃ。“祈り屋”の器よ。」
零は何も言わなかった。
その言葉が褒め言葉かどうか、判断がつかなかったからだ。
老人は振り返り、屋敷の奥へ歩きながら言う。
「もう一人、弟子がおる。お前と同じ年頃じゃ。お互い学ぶことも多かろう。」
弟子──?
零が眉をわずかに動かした瞬間、奥から軽い足音が聞こえた。
廊下の先に立っていたのは、黒髪の少年だった。
白いシャツ。
細身の体。
大きすぎる瞳が印象的で、その笑顔は妙に柔らかかった。
「あ、君が零?」
黒乃零は無表情のまま頷く。
少年は弾んだ声で続けた。
「僕は望月黒弥。今日から、よろしくね!」
その瞬間──
零の背中に、ほんの微かな寒気が走った。
理由は分からない。
少年の笑顔は穏やかで人懐っこいのに、どこか“底のない空洞”の匂いがした。
しかし、零は表に出さない。
「黒乃零。よろしく頼む。」
黒弥はにこりと笑い、零の手を掴んだ。
「仲良くしようね、零。」
その握手は、少しだけ強く、そして妙に“嬉しそう”だった。
零はその時まだ知らなかった。
──この瞬間が二人の運命を大きく歪めた“始まり”だということを。
その夜、師匠・比良坂恋巫の前で、弟子二人は初めての呪術稽古を行うことになった。
焚き火の明かりが揺れ、山の風が冷たく吹き抜ける。
恋巫は二人に筆と紙を渡した。
「まずは“気配を紙に刻む”練習じゃ。そこにいる小鬼の呪力を察して、その色を紙に落とせ。」
小鬼と呼ばれたのは、枯れた木の陰に佇む微弱な霊体だった。
黒弥は先に筆を取った。
「こういうの、得意なんだ。見てて。」
彼は紙に向かい、迷いなく筆を走らせた。
淡い灰色の線が紙に生まれ、数秒後には“呪気の輪郭”が見事に描かれていた。
「どう? うまいでしょ?」
師匠も驚くほどの才能だった。
次に零が紙に向かうと──
紙を前に、手がわずかに止まった。
黒弥が首を傾げる。
「零、どうしたの?描き方が分からないの?」
零は静かに首を振った。
「いや、違う。……小鬼の“色”が複数見える。」
恋巫は目を丸くした。
「色が分かる……?零、お前……“呪質を視る目”を持っておるのか。」
零は紙にひと筆入れる。
淡い白、濃い黄、黒の気配が混じって紙に刻まれた。
小鬼は驚き、零の背後に隠れるように震えた。
黒弥はその様子を、目を細めて見ていた。
褒めるでもなく、驚くでもなく──
何かを値踏みするように。
恋巫は感嘆の息を漏らした。
「黒弥は“技術”の天才。零は“術の本質”を視る天賦の才。お前たちは対照的で面白いのう。」
黒弥は微笑む。
「そっか……じゃあ零とは“いいライバル”になれるかもね。」
その声には笑いが含まれていたが、その奥底に──
わずかな、ほんのわずかな“嫉妬”が混じっていた。
零もまた、黒弥の才能を初めて目の当たりにし、胸の奥にほんの小さな焦りを感じていた。
二人はその日から、互いを強く意識し合うようになる。
稽古が終わった夜。
零が庭で静かに術書を読んでいると、黒弥が隣に座り込んだ。
「ねえ零。君は呪術師になったら、何をしたいの?」
零は少しだけ考え、答えた。
「……まだ分からない。ただ、生と死を、できるだけ正しく扱いたいと思う。」
黒弥は小さく笑った。
「やっぱり君、変わってるね。」
「そうか?」
「うん。普通の人は“誰かを救いたい”とか、“強くなりたい”とか言うよ。」
零は静かに目を閉じた。
「人を救えるほど、俺は立派じゃない。」
黒弥の瞳が揺れた。
「……じゃあ、僕はどう見える?」
零は迷いなく答える。
「お前は……呪術を“知ろうとする子ども”だ。」
黒弥の表情が一瞬止まる。
その後、すぐに柔らかく笑った。
「ねえ零。僕ね……君と仲良くなれて良かったよ。」
零は何も言わなかった。
ただ、どこかで理解していた。
黒弥の“笑顔”は、自分を見ていない。
“自分の才能を映す鏡”として、零を見ているだけだと。
その夜──
黒弥が眠りについたあと、零は布団の中で冷たい胸騒ぎを覚えていた。
それが何の警告なのかは、まだ分からなかった。
だが、確かに胸の奥には小さな針のような違和感が刺さっていた。
この少年と共に歩む未来は、きっと“平凡では終わらない”。
零はそう感じていた。
だが──
それはあまりにも正確な予感だった。
黒弥が笑うとき、その瞳の奥で揺れるものに気づくのは、まだずっと先のことになる。




