第七十五話 零の戦い ― 後半 ―
風が止んだ。
音が消えた。
まるで世界そのものが息を潜め、黒乃零と望月黒弥の二人だけを残したかのようだった。
事務所の床には、零が描いた結界が淡く輝いている。
黒弥はその光を見下ろしながら笑った。
「相変わらず美しい結界だね。君の術は……本当に、惚れ惚れする。」
零は答えない。
その静けさに、黒弥は満足したように目を細めた。
「でも、僕を止められると思う?」
黒弥の影が揺れ、裂けるように広がった。
蛇のようにうねる黒影が、床一面に広がっていく。
クロは思わず零の袖にしがみついた。
「零……! 影が……!」
零はクロを一度だけ見て言う。
「下がっていろ。絶対に近づくな。」
クロは震えながらも頷く。
零の声が低く響く。
「黒弥。お前の影呪は──未完成の模倣だ。」
黒弥は肩を揺らして笑った。
「未完成? 違うよ。“君の核”さえ取り込めば完成する。つまり……君の死が僕の完成なんだ。」
黒弥の影が一斉に襲いかかった。
天井から、壁から、床から。
影そのものが牙を剥き、零を喰いにかかる。
零は筆を振るい、空に文字を刻む。
「“破陣”。」
無音。
発動。
空気そのものが歪み、押し寄せる影を一瞬で裂き散らした。
黒弥は足を止めず、さらに影を放つ。
「零!!死ねえええッ!!」
影が暴風のように炸裂し、事務所の壁や机が破壊されていく。
クロが叫んだ。
「れ、零!!あれ全部影!?触ったら、呪い殺される……!」
零は一歩も引かずに前へ進んだ。
黒弥が顔を歪める。
「どうして……!!どうして避けない……!!?」
零の声は、静かだった。
「避ける必要がない。“お前には、俺の術は読めない”。」
黒弥の目が揺れる。
その一瞬の隙を、零は見逃さなかった。
筆を逆手に握り、空に書く。
ひと筆で。
「──“呪返”。」
黒弥の影が、黒弥自身へ反転する。
まるで意志をもった蛇のように、影が黒弥に絡みついた。
黒弥が悲鳴を上げる。
「なっ……!?僕の影が……っ!!」
「お前の影は不完全だ。術式の結びが甘い。俺の“返し”の前では敵にならん。」
黒弥は暴れ、影から逃れようとする。
だが逃げられない。
影は術者の欠陥を喰うように、黒弥の腕や足を絡め取る。
クロはその光景に息を呑んだ。
(零……やっぱり……強い……だけど……この戦い……零の心がどんどん壊れていくみたい……)
零の瞳は冷たい。
黒弥に向けるのは、怒りでも憎しみでもない。
哀しみと──諦念。
黒弥は影に締めつけられながら叫んだ。
「どうして……どうしてだ零!!僕たちは同じだったはずだ!!力を求めるのは悪いこと!?」
零は筆をゆっくり下ろし、答えた。
「力を求めることは悪くない。だが──“奪うことでしか満たせない”お前は、呪術師ではなく、ただの怪物だ。」
黒弥の顔が怒りと悲しみでぐしゃりと歪んだ。
「違う……違うんだ……零……僕は……君と……“完成”したかった……一緒に……!」
クロは拳を握りしめ、涙を浮かべて叫んだ。
「もうやめてよ!!零は……零は!!そんなの望んでない!!誰も……そんな悲しい完成なんて望んでない!!」
黒弥はクロを見る。
その瞳は、初めて怯えの色を帯びていた。
零は筆を構え直し、静かに呪術の最終式を描き始める。
「黒弥──お前は俺の“過去の呪い”だ。」
黒弥の震える声が事務所に響く。
「やめろ……零……最後まで僕を否定するのか……?」
零の声は冷たく、どこまでも静かだった。
「否定する。俺は二度と、お前の望みに付き合わない。」
黒弥の顔から血の気が引く。
零は最後の線を描き終え、術式を閉じた。
「──“呪終封印”。お前の影も、核の半分も……ここで終わらせる。」
黒弥の影が一気に収束し、黒弥の身体を飲み込むように包んでいった。
黒弥が叫ぶ。
「やだ……やだぁッ!!いやだ零!!僕を置いていくなぁああ!!」
零は一言だけ答えた。
「……さよならだ、黒弥。」
光が弾け、影が破裂するように霧散した。
黒弥の姿は、跡形もなく消えた。
残ったのは、静寂だけ。
クロはしばらく動けず、涙をぽとぽと零していた。
零は筆を下ろし、小さく息を吐いた。
「クロ……」
クロはその背に抱きついた。
「零……もう、こんなのやだ……零が苦しむの、見たくないよ……」
零はクロの頭に手を置いた。
「大丈夫だ。終わった。この戦いは……今日で終わりだ。」
クロはしゃくりあげながら言った。
「ほんとに……?」
零は珍しく優しく笑った。
「本当だ。黒弥はもういない。俺を狙う者はいても……“あいつ”だけは、もう二度と来ない。」
クロはぎゅっと抱きついた。
「零……ぜったい離れないから……ずっとそばにいるから……もうひとりじゃないから……!」
零はその言葉を、黙って受け止めた。
その背中には、これまで何十年と積み重ねてきた孤独があった。
しかし今、その孤独の隣に小さな温もりが寄り添っている。
零はクロの頭をそっと撫でた。
「……ああ。離すつもりはない。俺も──もうひとりではない。」
事務所の窓の外で、灰色の雲がゆっくりと晴れはじめていた。




