第七十五話 零の戦い ― 中半 ―
階段の影から現れた人物は、ゆっくりとした足取りで、破壊された扉の前まで歩いてきた。
その動作ひとつひとつに、異様な“静けさ”がまとわりついている。
呪術の波がまったく読めない。
まるで空気のように気配を消し、しかし確実に“死の中心”として存在している。
クロは零の背に隠れながら、震える声を漏らした。
「零……何この人……呪いの気配が無いのに……怖い……」
零は短く息を吸い、答えずにただ筆を握り直す。
階段から現れた男は、薄い笑みを浮かべていた。
黒髪は綺麗に梳かれ、目元は柔らかくすら見える。
しかし──
その瞳の奥には底のない“虚無”があった。
男は軽い調子で言った。
「やあ、零。やっと会えたね。」
零の表情は崩れない。
ただ、声がわずかに低くなる。
「……まだ生きていたか、望月黒弥。」
クロが目を見開く。
「も、望月……黒弥……?」
男──望月黒弥は優雅に笑った。
「覚えていてくれたのは嬉しいよ。でも“まだ生きていたか”はひどいなあ。あれは君が……僕を殺そうとしたんじゃないか。」
クロの視線が零に向く。
「零……この人、知り合いじゃないの……?」
零は目をそらし、短く答える。
「……昔の、呪術師仲間だ。」
黒弥の笑みはさらに深くなった。
「仲間? 違うだろう。“同じ師匠のもとで育った弟子”だ。そして──最後に残ったふたりだ。」
クロは零の袖をぎゅっと握った。
零は黒弥から目を離さずに言う。
「お前が師を殺し、仲間を喰い殺し、呪術師を裏切り、逃げた。」
黒弥は肩をすくめた。
「間違ってるよ。僕はただ──みんなの“力が欲しかった”だけだ。それが悪いこと?」
零の手がぴくりと動く。
黒弥は嬉しそうに笑う。
「ねえ零。君は変わらないね。あの頃からずっと……“正しい呪術師”を演じてる。」
空気が一瞬で凍りついた。
クロは零の背で震えたまま、小さく呟く。
「零……この人……なんで零を……?」
黒弥が答えた。
「簡単だよ。“零が死ねば、僕は完全になる”。」
「……?」
クロは意味が分からず零を見る。
零は低く言った。
「こいつと俺は──同じ“呪術式核”を分け合った。」
クロは息を呑む。
「呪術式核って……呪術師の中心……?それって……命の……?」
黒弥は楽しそうに笑う。
「そう。師匠は僕たち二人に“同じ核”を埋め込んだんだ。完成すれば最強の呪術師になるってね。」
零は眉ひとつ動かさずに言う。
「俺は拒んだ。呪術に命を汚染されるなど論外だ。」
黒弥は嬉しそうに頷く。
「そう。だから君は半分のまま。僕も半分のまま。それじゃ不完全だ。」
黒弥は一歩踏み出し、階段の陰から完全に姿を現す。
その瞬間、風が逆流するように事務所の空気が揺れた。
呪術の気配がないのに、空気だけが重く、鋭くなる。
それは“呪術の外側”に立つ化け物の証だった。
零の眉間に、わずかに皺が寄る。
黒弥は穏やかに言った。
「だからね、零。君を殺してその核を奪えば──僕は“完全な存在”になれるんだ。」
クロが叫ぶ。
「ふざけないで!!零は、そんな……!勝手に奪っていい人じゃない!!」
黒弥の表情が歪む。
「うるさいよ、子猫。」
クロがびくりと震えた瞬間──
黒弥の足元から、黒い影が“しゅっ”と伸びた。
クロに向かって。
零の筆が瞬間的に動いた。
「──“結界”。」
紙を使わず、空中に描かれた術式が光を放ち、黒弥の影を弾いた。
クロは零の背にしがみつきながら息を呑む。
「れ、零……!」
零は静かに言う。
「黙っていろ。こいつの相手は俺がする。」
黒弥は愉快そうに笑った。
「そうだ。君じゃないと駄目だ。他の呪術師なんて、相手にもならない。」
零の筆先がわずかに震える。
それは“恐れ”ではない。
“過去の痛み”が手を震わせているだけだ。
黒弥は続けた。
「零。僕はね……ずっと君を探していた、ずっと、ずっと……君の“半分”が欲しかったんだ。」
クロの胸が締め付けられる。
(この人……零を殺す気しかない……こんな人……初めて見た……)
黒弥は頭を傾け、優しく微笑んだ。
「だからね。今日、ここで終わりにしよう?」
零は答えなかった。
ただ筆を構えた。
黒弥の影が揺らぎ、床に黒い模様を広げる。
そして黒弥は呟いた。
「さあ零──“僕と君の、最後の呪術”を始めよう。」
クロは震えながら叫んだ。
「零!!気をつけて!!」
零は一歩前に出た。
その背中は、どこまでも静かで、強くて──
そして、痛いほど孤独だった。




