第七十五話 零の戦い ― 前半 ―
灰色の雲が低く垂れこめた午後。
黒猫呪術代行事務所の窓ガラスを、風が鋭く叩いていた。
零は書類机の前で静かに筆を走らせている。
淡々とした作業のはずなのに、その指先に宿る緊張は明らかだった。
クロは、いつものように黒猫の姿で零の膝のあたりに丸くなっていたが、尻尾の先が微かに震えている。
「……零、また“来る”よ。」
猫の姿なのに、声は少女の時の柔らかさを含んでいた。
零は筆を止めずに答える。
「分かっている。さっきから気配が濃くなっている。」
ここ数日、零は街のどこにいても常に“観られて”いた。
呪術師特有の視線。
殺しの意志を帯びた、鋭く研ぎ澄まされた気の流れ。
明確な“敵意”を持つ者が複数、零を狙っている。
──賞金サイトに、零の名が載ったからだ。
呪術師たちが秘匿して利用する闇サイト。
そこに突然貼られた一枚の依頼。
『黒乃零を殺害せよ。
成功報酬:三千万』
たった一文。
依頼主名は匿名。
そして、その下にこう添えられていた。
──“復讐の代行からの依頼です”──
零はその文言を見た瞬間から、胸の奥で小さく、冷たい嫌悪が灯っていた。
復讐代行──
呪術界の中でも、もっとも汚れた連中だ。
人の憎しみに寄生し、呪術師を金で使う寄生虫。
クロが震える声で言う。
「でも……零……このままじゃ……また誰か来るよ……」
「来るさ。そして今日で終わらせる。」
零は静かに立ち上がった。
その瞬間。
事務所の外廊下で、“ひたり” と濡れた靴音が響いた。
クロの毛が逆立つ。
「来た……!」
音はひとつではない。
二つ、三つ──
いや、それ以上。
零はゆっくりと扉に視線を向けた。
強い術式の“開封”の気配。
呪符を歪ませ、壊し、侵入しようとしている。
「……下手な真似を。」
零が低く呟いた瞬間──
バンッ!!
事務所の扉が内側に弾け飛んだ。
破片の向こうから現れたのは、灰色のコートを着た五人の呪術師たち。
顔を覆う仮面。
手には呪骨を削った短剣。
その刃には黒い呪いが蠢いている。
先頭の男が言った。
「黒乃零……賞金首が逃げも隠れもしないとはな。」
クロが零の後ろで唸る。
「ひっどい顔してるくせに……!零に手出ししたら許さないから!」
男は鼻で笑う。
「猫一匹……いや、式神一匹か。すぐに殺してやる。」
クロが怒りに跳ね上がりかけた瞬間、零が手を軽く上げて制した。
零は淡々と言う。
「賞金狙いか。証拠も理由も知らずに、ただ金のために命を投げ出すとは浅い。」
男は嘲るように肩をすくめた。
「理由なんざどうでもいいだろう。金をくれるなら、誰だって殺す。」
零の目が細くなる。
その目は不気味なほど静かで、その静寂にこそ殺気が孕まれていた。
「なら──死ぬ覚悟もあるんだな。」
次の瞬間──
男たちの後方で、未発動の呪術が“何か”に潰されたようにぱちん、と音を立てて消えた。
男たちは一瞬理解できず、周囲を見渡した。
だが零はすでに筆を構えていた。
「“呪術の剥奪”だ。お前たち程度の術式なら、息をするように奪える。」
男たちの顔から余裕が消える。
「な、何を……!?」
「悪いが──力の差を理解させる時間は無い。」
零は紙を宙に浮かべ、筆を走らせる。
黒い炎のような呪力が線となり、文字として顕現していく。
零の声が静かに響く。
「“斬呪鎖”。」
床を這う黒い鎖が、蛇のような速度で呪術師たちに襲いかかった。
男たちは悲鳴を上げる間もなく縛られる。
鎖は骨を砕くのではない。
呪術そのものを縛り、“能力”を封じていくのだ。
呪術師にとって、それは命を奪われるも同然。
五人のうち三人が恐怖で涙をこぼした。
「ま、待て……!賞金の依頼で……ただ……!」
「ただ、人気取りをしたかっただけか。」
零は冷たく言い捨てる。
「だから死ぬ。呪術とは命に触れる仕事だ。甘えた理由は通らない。」
クロが震えながらも零の袖を握る。
「零……殺すの……?」
静かな沈黙。
しかし零は、縛られた男たちを見てわずかに溜息をついた。
「……殺す価値も無い。依頼主の情報だけ奪って放り出す。」
男たちは恐怖で震えながら必死に頷いた。
「し、しらべた!賞金を出したのは……“祈り屋を恨む人物”ってだけで……」
「匿名だ!でも……追加の書状があった!」
「“零を殺せ”“黒乃零は、俺からすべてを奪った”
って……!」
クロが息を呑む。
零の目が静かに細められる。
「……またか。」
クロが不安そうに見上げる。
「零……知ってる人なの……?」
零は答えない。
しかし肩がわずかに揺れた。
その揺れは──
零が過去に出会い、決して忘れられない“怨敵”の存在を示していた。
クロは零の袖にしがみつく。
「ねえ零……帰って、ちゃんと話そう……わたし、零の全部聞きたい……!」
零はクロの頭に手を置き、静かに撫でた。
「クロ……俺は“全部”を背負って生きている。聞かせるものなど──」
言いかけたとき。
事務所の外、階段の下から──
ひたり……ひたり……と新たな足音が響いた。
重く。
深く。
まるで“呪詛そのもの”が歩くような足音。
零とクロが同時に振り向く。
階段の影の奥から、人影がゆっくりと姿を現した。
その姿を見た瞬間──
零の手がわずかに震えた。
クロは驚いて声を上げる。
「れ、零……!?どうしたの……?」
零は筆を握りしめたまま、滅多に見せない“本気の警戒”を滲ませて呟く。
「……これは──まずい。」
クロが震える。
「だ、誰……あの人……?」
零の唇がかすかに動いた。
「“俺を殺せる唯一の人間”だ。」
階段の影から姿を見せた人物は、ゆっくりと笑った。
その声は懐かしさすら帯びて──
しかし底の見えない“殺意”が渦巻いていた。




