第七十四話 赤装束の女 ― 後半 ―
赤装束の女は、零の言葉をきっかけに崩れ落ちたまま、肩を震わせて泣いていた。
血の霧がうねり、女の周囲で形を失いかけている。
怨念が叫び、泣き、怒り、そして哀しみを重ねて揺れていた。
クロは胸を押さえ、震える声で呟いた。
「……こんなの……どれだけ苦しんできたの……?」
赤装束の女の嗚咽は、霧を赤く揺らしながら響く。
『……あの子は……私の血……私の全部だったのに……』
零は筆を構えたまま、ゆっくりと近づく。
「お前は子を守れなかった。呪術師に身体を弄ばれ、血を奪われ、怨念を支えにして蘇らされた。」
女は顔を上げた。
涙に濡れた頬は、生者とも死者ともつかない美しさと哀しさを宿している。
『……私を……責めるの……?』
零は目を伏せた。
「責めていない。ただ事実を言っているだけだ。」
クロが零の袖を掴む。
「零……優しくしてあげて……この人……絶対に悪い人じゃないよ……!」
赤装束の女は震えた声で言う。
『私は……あの子が死んだあと……何度も名前を呼んだの……でも返事はなくて……だから……教えられたの……』
女の声は霞んでいた。
『“恨みを持て”“怒れ”“殺せば……願いが叶う”って……』
クロは言葉を失った。
女の赤い袖が、“血のゆりかご”のように揺れている。
怨念の霧は、まるで泣いている赤子のように震えはじめた。
零は静かに言う。
「その願いは、誰が教えた。」
女は答える。
『……あの男よ……私を“呪術狩り”として縛った、あの男……あなたを憎んでいた……黒乃零……“あなたを殺せば自由になれる”って……』
零は表情を変えなかった。
クロは零を見上げる。
「零……誰なの……?その男……」
零は答えない。
赤装束の女は、霧をゆっくりと集め、自身の胸に抱いた。
まるで“子を抱く”ように。
『……本当は……もう殺したくなかった……私はただ……あの子に会いたかった……』
クロは涙をこぼした。
「そんなの……そんなの……可哀想すぎるよ……!」
零は筆を少し下げ、赤装束の女の前で立ち止まった。
そして静かに言う。
「……眠れ。」
女は小さく瞬きをした。
『眠る……?私……眠っていいの……?』
零は筆を立てて描く。
黒い紙が空中に現れ、筆先は無音で術式を刻む。
筆は優しい軌跡を描きながら輝いた。
『……これは……?』
「“慟哭”の封。痛みを鎮める呪いだ。」
クロが目を見開く。
「零……それって……!」
零は淡々と言った。
「苦しみを癒す術。怨念を無理に断つのではなく……“悲しみごと抱いて眠らせる”。」
赤装束の女の目から、ぽろりと透明な涙が落ちた。
『……そんな術……使ってくれるの……?私に……?』
零は答える。
「お前は“呪術狩り”だが、本質は“母”だ。俺が殺す理由はない。」
女は筆の光を見つめながら、震える声で呟いた。
『……あの子に……会える……?』
零は頷いた。
「会わせてやる。だが、それは“この世”ではない。喰われた血と怨念が消え、お前の魂だけが残る世界だ。」
女の目が優しく細くなる。
『それで……いい……それだけで……いいの……』
零は筆を振るった。
「封呪・慟哭眠。」
黒い術式が静かな光となり、赤装束の女の身体を包む。
霧は泣くのをやめ、優しい風のように静まった。
女は、まるで赤ん坊を抱きしめるように胸をそっと押さえながら言う。
『……ありがとう……あなたも……誰かを守る“親”のようね……黒乃零……』
クロは驚いて零を見る。
零は何も言わない。
女の身体は光に溶けるように薄れゆき──
最後に微笑んだ。
『……あの子……迎えに行く……今度こそ……離さない……』
光が消えた。
部屋にいたはずの女も、血の霧も、怨念の声も──
すべて静かに消え去った。
クロはしばらく声を出せなかった。
そして、ぽつりと呟いた。
「零……優しすぎるよ……ほんとうに……」
零は筆をしまい、背を向けたまま言う。
「優しさじゃない。ただ……俺は、同じ悲しみを知っているだけだ。」
クロはしっぽがあれば揺れるほど零の背中を見つめた。
「零……わたし、一生そばにいるから……もう悲しいの、抱え込まないで……」
零は返事をしなかった。
ただ一度だけ、わずかに微笑んだ。
その微笑みは、赤装束の女すら救った“祈り屋”の微笑みだった。




