第七十四話 赤装束の女 ― 中半 ―
赤装束の女が袖を広げた瞬間、事務所の空気が“どす黒い赤色”に染まった。
風ではない。
熱でも冷気でもない。
それは──
怨念そのものが流れ込むような圧。
クロは思わず両手で耳を塞いだ。
「う、うぅっ……耳の奥が……痛い……!」
零はクロの前に立ち、黒い筆を横に構える。
赤装束の女の声は歌にも呪いにも似ていた。
『……黒乃零……あなたは救いすぎた……だから私はあなたを殺すために“生かされた”。』
クロが零の服を掴む。
「零……!この女……本当に……やばい……!!」
零は前を見たまま答えた。
「わかっている。」
赤装束の女は手首をひと振りした。
その指は長く、まるで“骨だけ”が残ったように痩せている。
すると、女の周囲に“赤い霧”が渦を巻きはじめた。
クロが絶句する。
「これ……霧じゃない……!なにかの……泣き声が混じってる……!」
確かに、霧の中では何百もの声が囁いていた。
──助けて
──呪われた
──裏切られた
──殺された
──あなたのせい
“恨み”だけを集めた霧。
女が言う。
『これは私が殺されたときの声。私を裏切った呪術師たちの声。そして──お前たちの声にもなる。』
零は筆を構えた。
「その霧は“血呪結界”の内側にいる者を腐らせる。吸えば、体内の血が逆流して死ぬ。」
クロは顔面を蒼白にする。
「ひ、ひどい……!」
女は怨念の霧を操り、零とクロに向けて流しはじめた。
霧が床を這い、壁に染み込み、黒い波のように押し寄せてくる。
クロが悲鳴をあげる。
「零!!くる!!」
零の筆先に黒い光が宿った。
「封筆・黒環陣。」
零が筆で“円”を描くと、円の線が光となって床に刻まれた。
霧がその円に触れた瞬間──
──ジジジッ!!!
煙をあげて弾かれる。
クロが息をついた。
「効いてる……!よかった……!!」
だが、女は微笑んだ。
『さすが……黒乃零。でも、その陣は“ただの封じ”。攻撃にはならない。』
女の声が甘いほど冷たい。
零は答えない。
赤装束の女は、霧をさらに濃くしながら続けた。
『あなたの封術は強い。でも私は、封印されても死ななかった巫女。封じるなど……無意味よ。』
クロが零を見上げる。
「零……!どうするの……?この結界……どんどん広がってる……!」
零は霧を見つめ、静かに呟いた。
「……あの霧には“血”が混ざっている。」
クロは瞬きをする。
「血……?」
零の目がわずかに鋭くなる。
「“血で構成された結界”は強いが、逆に“血が弱点”にもなりうる。」
女の目がわずかに揺れた。
雰囲気が一瞬にして変わる。
『……あなた……どこまで知っているの……?』
零は筆を回し、霧の一部を指先で捉える。
黒い筆が、霧の中の“赤い粒”を弾いた。
滴る血のように、粒が床に落ちて染みをつくる。
零は言った。
「“血呪結界”は、血そのものが“縛り”だ。」
女は初めて感情を見せた。
怒りとも怯えともつかない表情。
『……やめて。その理屈を言わないで。私は……私は……!』
赤装束の女の影が震えた。
クロは気づく。
「零……この女……なにか“触れられたくない”って……!」
零は静かに続ける。
「お前は“生前の血”に縛られている。血の怨念で蘇り、呪術狩りとして“殺す理由”を与えられた。」
女の声が震える。
『黙れ……黙れぇッ……!!』
霧が女の周囲で暴れはじめた。
怨念が叫び声をあげる。
──痛い
──ありがとう
──裏切られた
──救って
──殺して
──もう無理
クロが耳を塞ぐ。
「零……!この声……頭に響いて……!」
零は筆でクロの頭を軽く撫でた。
「大丈夫だ。耳でなく“心”に声を入れられている。俺の術で弾く。」
クロの瞳に少しだけ光が戻る。
赤装束の女は、霧を一気に零へと叩きつけた。
『死ねぇぇぇ!!黒乃零ぉぉ!!』
零は筆を振るう。
「黒弧落!!」
筆先から黒い弧が飛び、霧の中心を断ち切った。
霧が二つに裂け、部屋の左右へ分かれる。
赤装束の女は息を呑んだ。
『……血呪を……切った……?そんな……ありえない……!』
零は前に出る。
「お前の血呪結界は、“血の縁”で循環している。その縁を断てば……崩れる。」
クロは零の言葉の意味を理解し、小さく叫ぶ。
「零……!じゃあ、この女の……“血のつながり”が……!」
女は絶叫した。
『やめろぉ!!私の“血”に触れるな!!』
しかし零は筆を構える。
「泣き声を聞け。霧の全てがお前の血族の声だ。」
霧から、子供の声が聞こえた。
──おかあさん……
──おかあさん……
──どうして……
──どこに行くの……?
女が叫ぶ。
『それ以上言うなぁぁ!!』
顔を覆い、体を震わせる。
零は静かに言った。
「……血呪で縛られた“怨念の子”。お前が死んだあと、お前の血を継ぐ者がどうなったか……知らないわけじゃないだろう。」
クロが察する。
「え……じゃあ……この女……子供がいたの……?」
女の震えが止まらない。
零は最後の言葉を告げる。
「“赤装束の女”──お前の血は、お前が呪術狩りになった瞬間、全部……呪いに喰われた。」
霧が一瞬止まる。
クロが青ざめる。
「え……それって……」
零は言う。
「“お前の子はもう生きていない”。血は呪いの燃料にされた。その怨念が、霧になっている。」
女は崩れ落ちた。
『……いや……いやぁぁぁ……!!返して……私の……子……!!』
その叫びは痛みでも怒りでもない。
“母の絶望”そのものだった。
霧が暴走し、部屋が真っ赤に染まる。
クロは零の背中にしがみつきながら泣いた。
「零……!この女……哀しすぎるよ……!!」
零も筆を少しだけ下げ、低く呟いた。
「……だからこそ、俺が沈める。」
筆が黒く光る。
決着の時。




