第六話 記憶の契約 ― 前半 ―
――雨の音が、遠くで途切れた。
黒猫呪術代行事務所の窓辺に、静かな月光が射している。
机の上には、一通の封筒が置かれていた。
差出人の名は――蒼井 沙羅。
クロが封筒をくんくん嗅ぎながら首を傾げた。
「なんか……懐かしい匂いがする」
「懐かしい?」
「うん。雨の匂いと、花の匂いが混ざってる感じ」
零は封を切った。
中には、丁寧な文字で綴られた短い手紙が入っていた。
『黒乃零様へあなたに、私の“記憶”を呪ってほしい。どうか、あの日を――私の心から消してください。』
クロが顔を上げた。
「記憶を……呪う?」
「珍しい依頼だな。普通、人は“誰かを呪いたい”と言う。だが彼女は、“自分の記憶”を呪いたい」
零は立ち上がり、上着を羽織った。
「行くぞ」
「え、今から!?」
「夜が明ければ、彼女の記憶は崩壊を始める。呪いの気配がする」
依頼人の住む場所は、郊外の古い洋館だった。
月明かりに照らされた煉瓦の外壁はひび割れ、
風が通るたびに、どこかからピアノのような音が聞こえる。
扉を叩くと、すぐに開いた。
現れたのは、白いナイトドレスを着た若い女性。
――蒼井沙羅。
彼女の目は、まるで深い湖の底にあるように、何かを閉じ込めていた。
「黒乃先生ですね」
「そうだ。あなたが“記憶を呪いたい”という方か」
「ええ。……あの夜のことを、忘れたいのです」
クロが肩で小さく鳴く。
「どんな夜なの?」
沙羅は少し微笑み、答えた。
「十年前、私の妹が死んだ夜です」
沈黙が落ちた。
零はその声の奥に、冷たい“欠落”を感じた。
「……事故か?」
「いいえ。私が――殺したんです」
クロが息を呑む。
沙羅の声は淡々としていたが、指先が震えていた。
「私は妹を愛していました。でも、彼女は私の恋人を奪った。憎しみと嫉妬の中で、気づいた時には、階段の下で、彼女が……」
零は静かに目を閉じた。
「あなたの願いは、“罪の記憶”の抹消だな」
「はい。もう眠れないのです。あの声が、ずっと耳の奥で囁くのです。“お姉ちゃん、どうして”って……」
彼女の涙が落ち、床に吸い込まれた。
零はゆっくり頷いた。
「わかった。だが、警告しておく。“記憶の呪い”は、魂の構造を変える。記憶を一つ消すたびに、あなたは少しずつ“自分ではなくなる”。」
沙羅は目を伏せ、微笑んだ。
「それでも構いません。――この記憶と一緒に、生きていく自信がないのです」
零は懐から符を取り出した。
「いいだろう。だが、条件がある。あなたの寿命、十年を預かる」
「構いません」
クロが不安そうに言った。
「ねぇ、零……これ、なんか嫌な予感する」
「俺もだ。だが、この女は“消えたい”んじゃない。“許されたい”」
儀式は始まった。
部屋の中央に描かれた円陣の中、
沙羅が座り、零がその周囲を囲むように符を置いた。
蝋燭の炎が揺れ、空気が凍る。
「――“記憶の呪”。想いを封じ、形を失わせる術。代価は、魂の欠片。」
零の詠唱とともに、空間が歪む。
沙羅の周囲に光の欠片が舞い上がる。
それは、彼女の“記憶”の断片。
クロがその光に目を凝らした。
「これ……映像みたい」
見えたのは、夜の階段。
白い服を着た少女が、振り返り、何かを叫ぶ。
次の瞬間、光が弾け、暗転。
沙羅が叫んだ。
「やめて! 見たくない!」
零は印を結び、詠唱を強める。
「記憶よ、鎮まれ――」
だが、その瞬間、
部屋の空気が裂けるように変わった。
“声”が聞こえた。
――「お姉ちゃん」
クロが身を震わせる。
「零っ! これ、妹の……!」
零の額に汗が滲む。
「記憶の核が“怨霊化”している!」
床に描かれた陣が赤く染まり、
空間の中心に、少女の影が現れた。
その瞳は血のように赤く、微笑んでいる。
「お姉ちゃん、忘れちゃうの?」
沙羅が泣きながら首を振った。
「ちがう……ちがうの、私は……!」
影が近づく。
零が手をかざし、符を放つ。
「退け、“虚影”!」
だが符は弾かれた。
影は微笑みながら言った。
「私のことを忘れるなら、お姉ちゃんも――一緒に」
クロが叫ぶ。
「零! このままじゃ二人とも飲まれる!」
「……わかっている」
零は立ち上がり、沙羅の肩に手を置いた。
「蒼井沙羅。お前の本当の願いを言え」
「私は……」
「“忘れたい”のか、それとも――“許されたい”のか」
沙羅は唇を震わせ、涙を流した。
「……許されたい」
「ならば、忘れるな」
零は声を張り上げた。
「――“記憶、封印より祈りへ転化せよ”!」
陣が青白く輝き、少女の影が光に包まれる。
「お姉ちゃん……痛いよ……でも、あったかい……」
零の声が重なる。
「痛みは祈りだ。悲しみは生の証だ。お前たちはもう、呪いではない」
光が爆ぜ、部屋を満たした。
――静寂。
気づくと、沙羅は床に倒れていた。
呼吸はある。
だが、その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
クロがそっと言う。
「……成功、したの?」
「ああ。彼女は“忘れる”のではなく、“赦す”ことを選んだ」
零は空を見上げた。
薄明の光が窓の外から差し込んでいる。
そこには、少女の影が立っていた。
笑って、手を振っている。
クロが涙を拭う。
「……零。やっぱり、“記憶”も呪いの一種なんだね」
「そうだ。だが、それは人が生きるための“痛み”でもある」
零は立ち上がり、静かに呟いた。
「――記憶を消すことは、魂を欠くこと。だが、痛みを抱くことは、生きる証だ」
クロが頷いた。
「ねぇ、零。あなたの“消したい記憶”って、ある?」
零は一瞬だけ、窓の外を見つめ、微笑んだ。
「あるさ。だが、もう消さない。その痛みが、俺を人にしているからな」
雨上がりの光が差し込む。
机の上で、蝋燭の火が静かに揺れた。
“黒猫呪術代行事務所”――
今日もまた、誰かの呪いが祈りに変わる。




