第一話 花嫁の呪い ― 前半 ―
その日、街には白い花が散っていた。
六月の雨が、空から降りそそぐ花弁を濡らし、舗道を白く染めていく。
教会の鐘の音が遠くで鳴り、風がドレスの裾を揺らす。
だが、その花嫁の顔に笑みはなかった。
黒乃零のもとに、彼女がやって来たのは――その日の夜だった。
ウエディングドレスの裾は泥に汚れ、ヴェールは破け、白い花束は握りつぶされていた。
肩まで垂れた髪から、ぽたりと雫が落ちる。
目は虚ろで、泣きすぎたせいか腫れている。
「……入ってもいい、ですか」
零は何も言わず、ただ指で合図した。
黒猫が小さく鳴き、扉が音もなく閉まる。
部屋の奥、淡い蝋燭の光が二人の間に揺れていた。
「座ってください」
零の声はいつものように静かだった。
花嫁――彼女の名は白峰 結。
彼女はソファに座ると、震える手で小さな指輪を取り出した。
「……これ、返されたんです」
指輪は、白金の細い輪。
刻まれた名前は、半分だけ削り取られていた。
零はそれを掌に受け取り、軽く目を伏せる。
「式の最中に?」
「……はい。祭壇の前で……“やっぱり他に好きな人がいる”って。私の前で……新婦の友人だった人と、逃げました」
黒猫が尻尾を揺らし、女の足元を回る。
彼女の体からは、甘く焦げたような香り――“嫉妬”の匂いが漂っていた。
零は紅茶を差し出した。
「あなたは、何を望みますか?」
結は、両手をぎゅっと握りしめる。
「彼を……彼女を……二人とも、地獄に落としたい」
その声には、震えと痛み、そして空虚が混じっていた。
零は静かに頷いた。
「では、寿命を十年。代償として」
「……十年、ですか」
「ええ。あなたの命の十年を、この呪いに燃やします」
結は短く息を吐いた。
「……構いません。もう、未来なんて要りません」
その瞬間、黒猫が机の上に跳び上がる。
金の瞳が淡く光り、空気が歪む。
零は紙を広げ、万年筆を取った。
「名前を。あなたと、呪う相手の」
「白峰 結……そして、桐原 真哉と、篠崎 花」
黒猫が低く喉を鳴らす。
零は淡々と書き記すと、紙を折り、蝋を垂らして封をした。
「契約を完了します」
黒猫の姿がふっと消える。
残されたのは、揺らめく蝋燭の火と、結の浅い呼吸。
――その夜。
黒猫は、雨の街を歩いていた。
傘を差す者も、車の音も無い深夜の交差点。
アスファルトの上に落ちる足音だけが響く。
黒猫の金の瞳が、ひとつの窓を見上げた。
そこには、笑い合う二人の影。
男と女。結婚式で裏切った二人だ。
黒猫の姿が、女の影へと変わる。
白いドレスを纏い、濡れた髪が背を滑り落ちる。
その瞳は氷のように冷たく、だがどこか悲しげだった。
「ねえ、真哉。幸せ?」
ベランダのガラスが曇る。
真哉はそれに気づかず、ワインを注いでいる。
女――花が微笑みながら肩を寄せた。
次の瞬間、黒い影が部屋を包んだ。
電球が一つ、音を立てて弾ける。
冷たい風が流れ込み、二人は同時に振り返る。
そこに、花嫁が立っていた。
白いヴェールを被り、笑みを浮かべて。
「どうして……そんな顔するの?」
真哉が後ずさる。
「ゆ、結……!? な、なんで――」
「あなたが呼んだのよ」
声は、雨音のように静かだった。
黒猫の姿のまま、彼女は一歩ずつ近づいていく。
花の手が震え、ワインのグラスが床に落ちる。
赤い液体が絨毯に広がり、まるで血のように染まっていった。
「愛してたのに。“永遠に”って、言ってくれたのに」
花嫁の指先が真哉の頬に触れる。
その瞬間、彼の体が硬直した。
目の奥に、黒い花が咲く。
根が脳へと伸び、心臓を締めつける。
真哉が叫ぶ。
だが声は、雨に呑まれて消えた。
花が悲鳴を上げ、玄関へ走る。
だが、扉は開かない。
鍵が勝手に回り、鎖が音を立てて閉まった。
「逃げないで。まだ、終わってないわ」
白い花嫁の足元に、黒い猫の影が重なった。
その瞬間、部屋の空気が凍る。
窓ガラスがひび割れ、時計が止まり、世界が静止する。
花は泣き叫ぶ。
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい! あの人が――!」
花嫁が首を傾げた。
「“あの人”? ……真哉が?」
「違うの、あの時……!」
花の涙が頬を伝う。
「私たち、騙されてたのよ! 彼があなたを裏切った理由も――全部!」
花嫁の瞳が揺れる。
その一瞬、黒猫が彼女の影の中で目を細めた。
零の言葉が脳裏に蘇る。
――“呪いとは、真実を見誤る者の祈りでもある”。
黒猫は小さく鳴き、霧のように姿を消した。
代わりに、雨の音だけが部屋に戻ってくる。
花嫁の姿も、跡形もなく消えていた。
残されたのは、床に落ちた赤いグラスと、倒れ伏した男の亡骸。
花は膝をつき、ただ震えていた。
「……どうして、こんな……」
遠く、雷鳴が轟く。
黒猫は屋根の上に座り、濡れた街を見下ろしていた。
その瞳に映るのは、光る稲妻と、ひとつの涙の粒。
「零……彼女の“真実”は、まだ見えてないよ」
黒猫の呟きは、夜の雨に溶けていった。




