外伝 コトリバコ ― 後半 ―
――風が、鳴っていた。
零が瞼を開けた時、そこは再び白鷺村の宿だった。
畳の上に倒れていた彼の肩で、黒猫のクロが小さく丸くなっている。
その毛並みは埃と涙に濡れていた。
「……零っ!」
クロが顔を上げ、跳びつくように声を上げた。
「よかった、生きてる! もう、戻ってこないかと……!」
零は痛む身体を起こし、ゆっくり周囲を見回した。
部屋の中は、まるで嵐が通り抜けたかのように荒れていた。
畳は焦げ、符は剥がれ、天井には裂けた痕。
だが、あの箱は――
――静かに、そこにあった。
木の箱は、赤い糸がすべて燃え尽き、
代わりに淡い光の輪がそれを包んでいる。
中からは、かすかな子どもの笑い声がした。
クロが涙を拭いながら呟く。
「零……成功したの?」
「ああ」
零は頷き、掌を箱の上に置いた。
「彼女たちはもう、呪いではない。“祈り”として、この土地に残った」
光が箱の表面に走り、やがてそれは木目に溶けて消えた。
その静けさは、ただ“生の余韻”のようだった。
夜が明けた。
白鷺村の空気は澄み、霧が薄く漂っている。
零は縁側に座り、茶を淹れていた。
クロは湯呑みの隣で尻尾を揺らし、まだどこか不安げに辺りを見回している。
「……綾女さん、大丈夫かな」
「眠っている。箱の呪気に触れたが、魂は傷ついていない」
寝室の方からは、穏やかな寝息が聞こえていた。
昨夜、封印が破れた瞬間、綾女は倒れた。
だが、箱が“祈り”へと変化したことで、彼女の命は守られた。
クロはその音に安心したように、身体を伸ばした。
「ふぅ……。ねぇ、零。あの女の子たち、今どこにいるの?」
零は空を見上げた。
「この村の風の中だ。声は聞こえないが、気配が残っている」
クロも空を見た。
朝日が差し込む山々。
木々の葉が、どこか嬉しそうに揺れていた。
「……ねぇ、零。あたしたち、呪いを“壊した”んじゃなくて、“抱きしめた”んだね」
零は微かに笑った。
「お前の言葉は時々、真理を突く」
「えへへ。だって、あの子たち、最後に笑ってたもん。きっとね、誰かに“痛みを分けてもらえた”ことが、うれしかったんだよ」
零は目を閉じ、静かに頷いた。
「呪いとは、忘れられた願いの形。祓うというのは、それを消すことではない。“もう一度、思い出させること”だ」
クロが小さく尻尾を揺らした。
「……思い出す、か」
「そうだ。人が誰かを想う限り、呪いも祈りも消えない。ただ、その形が変わるだけだ」
その時、襖が静かに開いた。
綾女が目を覚ましていた。
まだ顔色は青白いが、目の奥には力が戻っていた。
「黒乃さん……私……」
「もう大丈夫だ。箱の封は“祈り箱”に変わった」
綾女は驚いたように息を呑み、
部屋の隅に置かれた箱を見つめた。
そこには、昨夜とはまるで違う空気が漂っていた。
赤い糸はなく、代わりに小さな白い花が咲いている。
「……きれい」
綾女の瞳から、涙が一筋こぼれた。
「おばあちゃん、ありがとう……」
零は静かに立ち上がり、庭に出た。
風が吹き抜け、竹林がさわめく。
クロがついて来て、零の足元に並ぶ。
「零、これでこの村も、救われたの?」
「ああ。だが、呪いの残滓はまだ山に残る。完全に消えるには、しばらくかかるだろう」
「じゃあ、それまで見守らないとね」
「……ああ」
零は遠くの社を見上げた。
崩れかけていた屋根の上に、朝の光が落ちている。
まるで、誰かがそこに座っているかのように。
その日の午後。
村人たちはいつも通りに田を耕し、子どもたちが声を上げて遊び始めた。
昨日までの重苦しさが、嘘のように消えていた。
綾女が零たちを見送りに来た。
白い浴衣姿に戻り、手には小さな包みを持っている。
「これ、少しばかりですが……お土産です」
中には、手作りの小さな木箱が入っていた。
桜の木で作られ、蓋には“祈”の文字が刻まれている。
「あなたが作ったのか」
「はい。祖母が生前、教えてくれたんです。“人を呪わば、己も傷つく。ならば、想いを封じず、祈りとして残せ”って」
クロが目を細めて微笑んだ。
「いい言葉だね」
「ええ。だから、これからはこの村の人たちに教えたい。“コトリバコ”は呪いじゃなくて、“願い箱”だったんだって」
零はその箱を受け取り、静かに頭を下げた。
「お前の祈りが続く限り、この村は穢れぬ」
「ありがとうございます」
バス停へ向かう坂道で、風が吹いた。
山の向こうに、白い鷺が一羽、ゆるやかに舞い上がっていく。
クロが見上げて言った。
「ねぇ零、あれ、箱の子たちかな」
零は頷いた。
「そうだな。もう“閉じ込められた魂”ではない。空に帰った祈りだ」
夕暮れ。
村を離れたバスの中で、クロは窓辺に座っていた。
茜色に染まる山を見つめながら、ぽつりと呟く。
「ねぇ、零」
「なんだ」
「もしも、あたしたちがいなかったら、あの箱どうなってた?」
「……村は滅び、怨念は次の世代へ伝わっていた」
クロは静かに尾を揺らす。
「怖いね。でもさ、思ったんだ。“呪い”って、人の悪意の形だけじゃなくて、“悲しみが行き場を失った形”でもあるんだね」
零は窓に映る夕陽を見つめた。
「その通りだ。だからこそ、俺たちは“壊す”のではなく、“癒す”」
「癒す、かぁ……」
クロが目を細め、うっとりと外を見た。
「ねぇ、零」
「なんだ」
「やっぱりさ、あたし、あの村好きだな。風が優しかった」
零は小さく笑った。
「俺もそう思う」
沈む陽の中、二人の影が長く伸びていた。
その夜。
黒猫呪術代行事務所の扉が、久しぶりに開いた。
零は机の上に、綾女から受け取った小さな“祈り箱”を置いた。
その中には、淡い鈴の音のような祈りの残響がある。
クロが机に飛び乗って言った。
「ねぇ零。この箱、ここに置いとこうよ」
「なぜだ」
「この事務所にも、きっと“迷った想い”が来るでしょ。そのたびに、この箱が少しずつ光るかもしれない」
零は微笑み、頷いた。
「いい考えだ。――この箱は、“祈りを集める器”だからな」
蝋燭の灯りが揺れ、箱の表面がほんのりと光を返した。
それはまるで、遠い村の少女たちが笑っているようだった。
夜風が吹く。
窓の外で、黒い羽根がひとひら、宙を舞う。
零は静かに呟いた。
「――呪いの終わりは、祈りの始まり」
クロが小さく鳴いた。
「おやすみ、零」
「おやすみ、クロ」
灯が落ち、闇の中で“祈り箱”が柔らかく光った。




