外伝 コトリバコ ― 前半 ―
蝉の声が、谷を満たしていた。
夏の光が山々を包み、緑が波打つ。
舗装も途切れた山道を、黒乃零と黒猫クロを乗せた古いバスが進んでいく。
「……静かだね」
窓の外を眺めながら、クロが呟く。
「街の音が何も聞こえない」
「たまにはこういう場所も悪くない」
零は微笑んだ。
「依頼も一区切りついた。少し休むにはちょうどいい」
クロは座席の上で丸まりながら、前足で額をかいた。
「休むって言っても、絶対どこかで呪い見つけるんでしょ」
「俺が呪いを見つけるんじゃない。呪いが、俺を見つけるんだ」
「……あー、そういう運命体質ね」
クロがふてくされたように尾を揺らす。
バスはやがて山間の小さな停留所に着いた。
乗客は零たちだけ。
「ここが……白鷺村」
看板は色褪せ、風に揺れて軋んでいた。
村は小さな谷に抱かれていた。
田畑が広がり、遠くで風鈴が鳴る。
空気は澄んでいるが、どこかひっそりと重たい。
「零、ここ……少し“匂う”」
クロが鼻をひくつかせた。
「呪気か?」
「ううん、もっと古い。……“土の中に染みた想い”みたいな匂い」
零は視線を遠くに向けた。
村の奥――山の斜面に、古い社が見えた。
鳥居は朽ち、屋根の一部は崩れている。
だが、どこかで見たことのある形の結界紋が、柱の根元に刻まれていた。
「……古い呪封だ」
「ってことは、何か封じてあるんだね」
「ああ。だが、封印が緩んでいる」
クロの尻尾がぴんと立つ。
「え、来て早々呪い案件!? 休息とは」
「休息とは、動かぬことではない。心が静まることだ」
「うわ、それ呪術師特有の屁理屈だー」
零は笑って村の宿へと向かった。
道すがら、子どもたちが遊んでいる。
だが、誰も笑っていなかった。
陽射しの中でも、その目だけが妙に暗い。
宿は古民家を改装したものだった。
出迎えたのは、若い女性――神崎綾女。
黒髪を後ろで束ね、白い浴衣姿。
笑顔は柔らかいが、その瞳にはどこか影が差していた。
「遠いところをありがとうございます。お客さまなんて、久しぶりなんです」
「お世話になる」
零は丁寧に頭を下げる。
クロが肩の上でちょこんと座り、ぺこりと小さく礼をした。
「あ、かわいい……」
綾女が微笑む。
「猫ちゃんも一緒なんですね」
「式神だ」
「し、式神……?」
「冗談だ」
クロが慌てて尻尾で零の頬を叩く。
「怖がらせないでよ!」
宿の縁側には風鈴が吊るされ、
風に鳴るたびに透明な音が広がる。
夕方、零は庭を眺めながら静かに茶を飲んでいた。
綾女が盆を持って現れた。
「黒乃さん、こちらどうぞ」
「ありがとう」
「……都会の方ですか?」
「そうだ」
「この村、昔から“祟り箱”の話があるんです」
零の指が止まった。
「祟り箱?」
「はい。“触ると死ぬ箱”。子どもには近づくなって言われて育ちました」
クロがぴくりと耳を動かす。
「零、それって……」
「ああ、知っている。俗に言う――“コトリバコ”だ」
綾女の手が震えた。
「やっぱり、本当に……あるんですか?」
「ある。呪いの中でも、最も原始的で、最も悪質なもの。命を“積む”ことで力を得る箱だ」
風が鳴った。
縁側の風鈴が、一瞬だけ低く響いた。
「……実は、祖母の遺品の中にあったんです。小さな木の箱で、蓋に“赤い糸”が結んであって。誰にも見せるなって言われてたんですけど……」
零の眉がわずかに動く。
「見たのか」
「はい。昨日、掃除をしていて……」
クロの尻尾が立つ。
「零!」
「落ち着け」
零は静かに立ち上がった。
「案内してくれ。すぐに確認する」
綾女の部屋は古い土間を改装した和室だった。
部屋の隅――箪笥の上に、確かに木箱が置かれている。
手のひらほどの大きさ。
箱の表面には無数の細かな傷が刻まれ、
赤い糸が十重二十重に結ばれている。
「……これは」
零が呟いた。
「コトリバコに間違いない」
クロが小さく唸る。
「ほんとにあるんだ……。でも、なんか、普通の呪具と違う感じ」
零は頷いた。
「これは呪いではなく、“怨念の集合体”だ。箱そのものが呪詛ではなく、“呪いを受け止める器”として作られている」
綾女は怯えたように口を押さえた。
「……それ、祖母が“守りの箱”って言ってたんです。“開けなければ守られる”って」
「守りの箱、か。たしかに一部の地域では、呪いを“封じるための祟り箱”として利用した例もある。だが、封印が弱まれば、今度は内側から呪いが漏れ出す」
クロが小さく震えた。
「つまり、今その状態ってこと?」
「そうだ。……この家に“何か”が入っている」
零は懐から符を取り出し、箱の周囲に貼る。
「結界を張る。触るな」
綾女は恐る恐る後ずさった。
その時――。
コトリ……コトリ……
箱の中から、かすかな音がした。
クロが飛び上がる。
「い、今、動いたよね!?」
零の瞳が鋭く光る。
「始まったな」
空気が重くなる。
灯りがひとつ、またひとつと消えていく。
外では風が鳴り、蝉の声が止んだ。
綾女の唇が震える。
「な、なに……これ……?」
「“魂の記憶”だ。この箱の中には、代々“穢れを背負わされた女児”の魂が封じられている」
クロが息を呑む。
「女の子の……魂?」
「そうだ。“女子を産む家”が呪われた時、その呪いを鎮めるために、生贄を箱に入れた。それが“コトリバコ”の始まりだ」
綾女は青ざめていた。
「まさか……祖母が……」
零は首を振る。
「お前の祖母は封印者だ。おそらく、先祖が作ったこの箱を代々受け継ぎ、封じてきた。だが、お前が開けたことで――」
風が吹き抜け、箱の赤い糸が切れた。
――コトリ。
まるで何かが外に転がり出たような音。
部屋の温度が一気に下がる。
畳の上に、黒い染みが広がった。
綾女が悲鳴を上げた。
「いやっ!!」
零がすぐに印を結び、符を放つ。
「“封鎖陣・六方転”!」
符が光を放ち、部屋の中に結界が張られる。
だが――
黒い染みは止まらなかった。
畳の目から滲み出るように、無数の小さな“手”が現れる。
子どもの手。
土のように乾き、指の間から黒い液体が滴っている。
クロが叫んだ。
「零っ! これ、やばい!」
「わかっている!」
零は懐から短刀を抜いた。
刃に符を巻きつけ、呪を唱える。
「――“穢祓ノ剣”」
刃が青白く光を帯びる。
黒い手が伸びてくるたびに、零はそれを断ち切った。
だが切っても切っても、次々に現れる。
「こいつら……終わりがない!」
「魂が束になっている。一つではなく、何十、何百――」
その瞬間、
クロの目に映った。
部屋の隅――箱の上に、少女の影が立っている。
白い着物、長い髪。
顔は見えない。
だが、その手に“赤い糸”が絡まっていた。
「零!」
「見えるか」
「うん、あれが箱の主!」
零は印を結び、詠唱を始めた。
「――“怨を祈りに還せ。命を奪うに非ず、安らぎを授けん”」
少女の影が振り向いた。
その瞳は、涙のように黒かった。
「どうして……壊したの……」
声は幼く、震えていた。
綾女がその場に崩れ落ちる。
「そんな……私、ただ掃除を……!」
少女の影が手を伸ばした。
零が前に出て、その腕を掴む。
「やめろ。お前は守りたいんだろう」
「でも……もう、痛いの……」
空気が震える。
零の手に走る激痛。
クロが叫ぶ。
「零っ!!」
零は歯を食いしばり、印を組み替えた。
「……なら、痛みごと祈りに変えよう」
部屋中の符が光り、赤い糸が一斉に燃え上がる。
少女の影が悲鳴を上げた。
「いやっ……戻りたくない……暗いのは、いやぁっ……!」
零は叫んだ。
「――なら、光の中に還れ!」
光が弾けた。
炎も音もなく、ただ静かな光の渦が部屋を包んだ。
クロはその中で、確かに聞いた。
――小さな笑い声。
泣きながら笑う、幼い声。
それは、救われた魂の“最初の息”のように響いた。




