第四話 夢の契約 ― 後半 ―
まぶしい光が静まり、冷たい風が頬を撫でた。
葵が目を開けると、そこは事務所だった。
蝋燭の火がわずかに揺れ、時計の針が規則正しく音を刻んでいる。
「……戻ってきたの?」
クロが小さく頷いた。
「うん。夢の回廊は閉じた。もう“夢喰い”はいない」
葵は胸に手を当てた。
そこには、あの花びらの温もりがまだ残っていた。
「零さん……?」
静まり返った部屋の奥――
黒乃零は机に腰掛け、窓の外を見つめていた。
その背中は、いつものように静かで、穏やかで、そしてどこか遠かった。
「……夢は、戻ったか」
葵は小さく頷く。
「はい。少しだけ、泣いてしまいました」
「泣ける夢は、まだ心が生きている証だ」
零の声は低く柔らかかった。
だがクロは、その声の奥に微かな震えを感じ取っていた。
「零……あなた、また何か隠してるでしょ」
零はわずかに微笑んだ。
「夢の代償を受け取っただけだ。些細なことだ」
葵が心配そうに近づく。
「代償って……?」
「夢を現実に戻すには、“夢の管理権”を引き受ける必要がある。それは、夢を持たない者にしかできない」
クロが息を呑んだ。
「じゃあ……零、あなたの中に……!」
「そうだ。葵の夢も、かつて夢喰いが奪った他の者たちの夢も、今すべて、俺の中に眠っている」
葵は目を見開いた。
「そんな……それじゃあ……!」
「安心しろ。消えることはない。ただ、少し眠るだけだ」
零は椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。
足取りは静かだが、その背中はどこか透けて見えるように儚かった。
「零……まさか、あなた――」
クロの言葉を遮るように、零は微笑んだ。
「葵、夢を取り戻せてよかったな」
葵は涙を浮かべた。
「どうして……どうして、そんな顔で笑えるんですか」
「笑えるのは、夢を見る者の特権だ」
そのとき、葵の瞼が急に重くなった。
零が指を軽く振ると、空気が柔らかく揺れる。
「もう眠れ。今度は、お前自身の夢で」
葵は抵抗する間もなく、穏やかな眠りに落ちた。
クロが葵を見守りながら、低く問う。
「零……あなた、本当は――」
「夢喰いの残滓をすべて取り込んだ。放っておけば、誰かの夢をまた蝕む。俺の中で眠らせるしかない」
クロの瞳が震えた。
「そんなの、呪いと同じじゃない……!」
零は静かに笑った。
「違う。祈りだ。誰かの夢を護るためなら、それも悪くない」
彼は窓の外に視線を向ける。
夜空には、雲の切れ間から月がのぞいていた。
まるで、眠る誰かの瞼のように優しい光。
クロが彼の肩に飛び乗る。
「零……ねぇ、あたしにも見せてよ。あなたが見てる夢を」
「俺には、夢などない」
「嘘。あなたの中には、たくさんの夢がある。人の夢、愛の夢、悲しみの夢――みんな、あなたが守ったんでしょ?」
零は静かに息を吐いた。
「それらは、他人の祈りだ。俺の夢ではない」
「じゃあ教えて。零の“夢”は、どこにあるの?」
その問いに、零は少しだけ黙った。
そして、ゆっくりと答えた。
「――お前の中だよ、クロ」
クロの瞳が揺れる。
「……あたし?」
「お前が生きている限り、俺は“夢”を持ち続けられる。お前が笑うたびに、俺は少しだけ現実を愛せる」
その言葉に、クロの喉が詰まった。
「そんなこと言わないでよ……。まるで、今夜で全部終わるみたいじゃない」
「終わりではない。ただ、少し眠るだけだ」
蝋燭の火がふっと揺れ、室内が薄暗くなる。
零は窓辺に立ち、月明かりに照らされた机に封筒を置いた。
そこには、黒い封蝋。
印には“夢”の文字が刻まれている。
「それ、何?」
「次の依頼だ。――俺自身からのな」
クロが息を呑む。
「零、まさか――」
「お前に託す。この事務所を、そして“夢を護る契約”を」
クロが叫ぶ。
「そんなの、嫌だ! 一緒に行こう!」
「駄目だ。俺がいる限り、夢の境界は安定しない。今、夢界と現実の線は曖昧になっている。この世界を守るためには、誰かが“眠り”に落ちる必要がある」
「じゃあ、あたしが行く!」
「お前は、生きろ」
零の声が少しだけ強くなった。
「お前は俺の祈りの形だ。お前がいなくなれば、祈りも消える」
クロの目から涙が零れた。
「……そんなのずるいよ」
「ずるくていい。夢というのは、もともと理不尽なものだ」
零が歩み寄り、彼女の額に唇を寄せた。
「ありがとう、クロ」
「やだ……やだよ……」
「大丈夫。お前の中で、いつかまた会える」
その言葉を最後に、零の体が淡く光り始めた。
光は静かで、温かく、まるで夜明けのようだった。
クロがその胸に飛び込む。
「零っ!」
零の腕が、最後に彼女を優しく抱きしめた。
「――夢を護れ。それが、俺たちの契約だ」
光が弾け、風が吹き抜けた。
蝋燭の火が消え、部屋は静寂に包まれた。
クロはしばらくその場に座り込んでいた。
零の姿はもうどこにもない。
けれど、彼の紅茶の香りだけが、まだ漂っていた。
窓の外で、夜が明けていく。
新しい朝の光が部屋に差し込み、クロの涙を照らす。
彼女はそっと机の封筒を手に取った。
封を切ると、中には一枚の紙。
そこには、たった一行――
『夢を見ることを、恐れるな。それは、世界がまだ生きている証だから。』
クロは紙を胸に抱き、微笑んだ。
「……了解、零。契約、継続だね」
彼女の背後で、風鈴のような音が鳴った。
振り向くと、空気の中に黒い羽が一枚、ゆっくりと落ちていった。
それは――まるで“夢の欠片”のように、淡く光を放ちながら。




