第四話 夢の契約 ― 中半 ―
光が、ゆっくりと薄れていった。
気づけば、そこは夜と昼の狭間のような世界だった。
空は淡い青と紫が混ざり、地平には月と太陽が同時に浮かんでいる。
足元は水鏡のように透き通り、歩くたびに波紋が広がった。
「ここが……夢の中?」
葵の声が震える。
零は頷いた。
「お前の夢の断片だ。だが、今は“他人に使われている夢”。本来のお前の記憶と混ざって、構造が崩れかけている」
クロが空を見上げ、しっぽを揺らした。
「うわ……空、逆さまに流れてる」
「時間のない世界だ。夢とは、魂の“未練”が見る現象だからな」
葵が一歩踏み出した瞬間、地面の光が強く脈打った。
「……ここ、知ってる」
彼女の声が微かに震える。
「小さい頃、よく夢で見た場所。白い花畑で、誰かが私を呼んでた」
風が吹き抜け、花弁が舞い上がる。
その香りは懐かしく、どこか悲しかった。
零は静かに言った。
「夢の核に近い。ここに“取引の相手”がいる」
葵が頷き、歩を進めた。
クロがその隣を歩く。
風に混じって、かすかな歌声が聞こえ始めた。
――それは子守唄のようで、同時に祈りのようでもあった。
“眠れ、眠れ、夢の底へ”
“願いの果てで、愛を見つけよ”
歌声の方へ進むと、白い花畑の中心に“男”が立っていた。
白衣を纏い、金縁の眼鏡をかけた穏やかな顔。
だが、その笑みの奥には――何もなかった。
「久しいな、黒乃零」
零の足が止まる。
「……やはり、お前か。御影の残滓」
男は微笑む。
「残滓とは失礼な。私は“夢を統べる者”。御影が肉体を失ったあと、夢の中に残した“意志”だ。今は“夢喰い”と呼ばれている」
クロが低く唸った。
「この人が葵の夢を食べたの?」
「正確には、“買い取った”。彼女が差し出したのは、叶わぬ未来――つまり“希望”だ」
葵が震える声で言った。
「……希望?」
男は穏やかに頷いた。
「君は言った。“あの人をもう一度夢に見たい”と。だから私は、君の夢を買った。君は安らかな眠りと引き換えに、“永遠の再会”を手に入れたのだ」
葵の瞳が揺れた。
「そんな……。私は、彼を失ったのが辛くて、ただ……夢の中で会いたいと思っただけで」
「それが契約だ」
零の声が割って入る。
「夢貨の取引は、“心から願った言葉”に反応する。お前が『もう一度会いたい』と願った瞬間、契約は成立した」
葵は膝をついた。
「そんな……それじゃ、私は……自分で……」
男が優しく微笑んだ。
「君の望みは純粋だった。だが、夢に“永遠”を求めてはいけない。夢は刹那の祈り。閉じ込めた瞬間、それは“呪い”になる」
クロが叫んだ。
「それをわかってて買ったんでしょ!」
「もちろんだとも。私は“夢”を糧に存在する。人が夢を見る限り、私は生き続ける。――だが、黒乃零。お前が来るのは予想していた」
零は前に出る。
「俺の目的はただ一つ。彼女の夢を返してもらう」
男は笑う。
「夢に返すべき所有権などない。夢は誰のものでもない。ただ、見たいと願う者のものだ」
「違う。夢は“生きるための嘘”だ。お前のように現実から切り離してはならない」
男の微笑みが消える。
「……では問おう。お前は夢を見たことがあるか?現実に抗うほど強い夢を、見たことがあるか?」
零は静かに答えた。
「ある。叶わぬ夢でも、誰かの祈りになり得る」
その言葉に、空気が揺れた。
白衣の男の瞳が微かに光る。
「やはり……お前の中には、御影の系譜が残っている。お前が夢を否定しない限り、私は消えない」
次の瞬間、地面が割れた。
花畑が闇に沈み、空が反転する。
葵が叫ぶ。
「いやっ――!」
零が手を伸ばし、葵の腕を掴む。
だが、重力が反転し、二人の体は浮かび上がった。
クロが叫ぶ。
「零! 夢界が崩壊してる!」
「……夢喰いが、意図的に“終焉”を起こしている」
白衣の男が、闇の中で手を広げる。
「夢は、終わらなければ価値を持たない。終わるからこそ、次を願う。ならば、夢の終焉こそが究極の目覚めではないか?」
零の声が低く響く。
「違う。終わらない夢は、“死”と同じだ」
光が走り、零の掌に黒い符が現れる。
「“夢界解呪陣”――展開」
符が宙に散り、無数の光の糸が葵の周囲を包んだ。
彼女の胸元から、淡い光の欠片が浮かび上がる。
それは小さな花びらの形をしていた。
「それが、お前の夢の核だ」
零が囁く。
「それを掴め」
葵は涙を流しながら手を伸ばした。
しかし、その瞬間――
白衣の男が指を鳴らした。
闇が爆ぜ、無数の“夢の断片”が葵に襲いかかる。
過去の記憶、愛した人、叶わなかった未来――。
「零っ!」
クロが跳び上がり、葵を庇った。
彼女の小さな体が光に包まれ、闇を弾く。
「大丈夫、葵! その夢は、あんたの中にまだある!」
葵は唇を震わせた。
「でも、怖い……また失うのが……!」
零が叫ぶ。
「失うのは“夢”ではない。“願いを閉じ込める心”だ!」
葵は目を見開いた。
胸の奥で何かが弾けるように光を放つ。
そして――花びらの欠片が一枚、彼女の掌に落ちた。
その瞬間、世界が静止した。
闇も光も止まり、時間が凍りつく。
白衣の男が低く呟く。
「……まさか、夢の所有権が、変わる……?」
零は微笑んだ。
「夢は“見る者のもの”じゃない。“信じ続ける者”のものだ」
葵の体が淡く光り、花弁が舞い上がる。
白い花畑が再び咲き、闇が後退していく。
クロが息をつく。
「やった……!」
だが、白衣の男はまだ笑っていた。
「だが、夢の取引は終わっていない。代価は、支払われねばならない」
零の胸の符が赤く光る。
「……まさか、契約が俺に」
「そうだ。お前が夢界を“現実に戻した”代償として、夢の管理権はお前に移った。――お前は、夢を持たぬ呪術師。ならば、夢を背負って生きるがいい」
男が消え、闇が完全に崩れ落ちた。
光が一瞬、すべてを包む。
そして――静寂。




